2012年07月03日

幕末の思想1 下級武士が西洋思想に収束したのはなぜか?

日本はどのように西洋と接し、西洋の近代観念(民主主義)や制度を受け入れていったのだろう?
詳しく調べるとこれらは明治維新の際に一気に導入されたのではなく、江戸の後期から幕末期を通じて当時の武士層の間で、一定理想化されて存在していたようです。
ここでは、
・西洋思想がどのように受け入れられていったか?
・武士層の間で理想化されたのは何故なのか?江戸初期から西洋・キリスト教は、
相当警戒されていたはず。なぜ簡単に受け入れられたのか?
・・・について追求していきます。
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   渡辺崋山          横井小楠          福沢諭吉
江戸の思想に続き今回から幕末の思想を扱います。
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徳川日本において「西洋」といえば、まずキリスト教です。
★まず西洋のキリスト教に対して、日本人はどのように接したのか?
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東京大学出版会)より

●切支丹 
徳川日本において「西洋」といえは、まずはキリスト教である。それは、少なくとも十九世紀までの西洋人の自己意識とも一致している。そこには、教理自体の危険性への恐れに加え、布教は侵略の手段だという疑いがあった。まず布教して国内に味方を作り、その上で軍事征服するという、いわゆる間接侵略への警戒である。それが「鎖国」の重要な動機となり、逆に「鎖国」が切支丹としての西洋イメージの持続装置となった (そして「神国」論浮上の一因にもなった)。「きりしたん宗門」の教理には無知でも、その「御制禁」・宗門改め・踏み絵等によって、どす黒い陰謀をめぐらす「邪宗門」の西洋イメージが喚起され続けた。「鎖国」の日本は西洋を忘却したのではなく、見えないそれと対峙し続けたのである。
 やがて、天竺までも西洋の支配に入ったことが判明する。弘化元年(1844)刊の箕作省吾『新製輿地全図』ほ、世界の各植民地の本国がどこであるかを記載するに至る。その過程で、間接侵略論も再燃した。西洋人を「夷秋」と罵り、「攘夷」を当然とした人々は、切支丹としての西洋への根深い恐怖に駆られていたのである。典型的には、水戸学においてである。水戸学は水戸徳川家に仕える武士兼儒者たちが、現状への不満と対西洋危機感に駆られ、宣長からも学びつつ「皇国」意識を強調し、士気の高揚と政治的統合のひきしめをはかった思想運動である。その指導者の一人、会沢正志斎は、「西夷の跋扈」は、「智勇」「仁恩」「礼楽刑政」等に優れているからではなく、ただ「耶蘇教」によるのだと主張した(『新論』文政八/1825年)。
 その教えは「邪僻浅哢」だが、それ故に、「愚民」をたぶらかしやすい。その上で、彼等の歓迎を受けつつ攻め込む。「其の国を併はせ、地を略するは、皆な此の術に由らざるはなき也」。そこで会沢たち水戸学者は、この「術」としての「数」の脅威に対しては天皇を対置して人心統一を図り、軍事的脅威に対しては、西洋の武器をも採り入れて対抗しようと呼びかけたのである。特に天保の頃以来、その影響は全国に及んだ。
 ところで、西洋は、現に自ら「耶蘇教」を奉じて栄えている。本居宣長も、「きりしたんの国にては、その法を以てその国を治ること、漢国にて、漢国の道を以て治むるも同じことなり」(『答問録』)と指摘している。だとすれば、「耶蘇教」は、対外侵略のみならず、国内統治においても優れた「術」なのではないだろうか。
 実際、宣長の孫弟子、中島広足(1792年~1864年)は、そう素直に認めた。彼によれば、そもそも「すべて道の本意は、其国の人民をなづけ、導く術」である。

 広足は、西欧も人民は愚民(アホ)なので、キリスト教の地獄・極楽などの婦女子だましの手は、人民をなづけやすい(今吾国の民心の、仏法にだまされいるのも同じ)と述べている。
「だまし」の「術」としてのキリスト教を彼は、支配のために利用すべきと考えていたフシがある。
このように、キリスト教に対しては植民地支配の先兵としての役割を認識し、十分に警戒していた。但しその騙し性を利用して支配観念として利用しようとした人間もいたことに注意しなければならない。
★西洋を理想化した人々の登場
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東京大学出版会)より

●学
儒学の「道」は、修身と治国の「道」である。だとすれば、現にその国々が豊に繁栄しているならば、それは、教えが行き届き、「道」が正しく行われていることを意味するのではないだろうか。
実際にそう思うようになった実例が、渡辺崋山(1793年~1841年)である。彼は、小大名の江戸詰の家老のイエに生まれ、生渡仕えた。しかし家は貧しく、内職として画を描いた。彼は閉塞感を持って生きながら、西洋に強い関心を持った。そして、彼なりに西洋を調べて『西洋事情書』『外国事情書』を書いた(いずれも1839年)。
崋山によれば、現在「五大州之内、亜細亜以外は、洋人之領地と相成侯」という状況にある。それは、もちろん「耶蘇教」によるのではない。単に軍事的「窮理」でもない。精神態度が異なるのである。
西洋人はあらゆる「事理」を窮める。そして「窮理」は人を勇敢にする(言外に日本が比較されている)。しかも、「西洋諸国は小国いえども、規模広大」であって、窮理の結果を「秘蔵」することを賤しみ、「ナチエール」すなわち「天意にそむく」という。
 しかも、西洋では、「天子」「国王」は一つの「役」のようであって「身を治め、人を治るを第一の任」とし、「開士道士を専と」し、「学校之盛なる事、我邦・唐山の及ぶ所」ではない。つまり、統治の様は日本・清国よりも儒学的な理想状態に近いのである。
 このような理想化した西洋観の浸透の一問は、おそらく、イエズス会宣教師、ジュリオ・アレーニ(1582牛-一1649年)の漢文による世界地理書『職方外紀』にある。同書を、華山も読んでいる。それは、明国で宣教師が書いた以上、当然、儒学的知識人の好感を得るように欧州を記述していた。
例えば、こうである。
 欧羅巴諸国は皆な文学を尚ぶ。国王は広く学校を設け、一国一郡に大学中学有り、一邑一郷に小学有り。小学は学行の士を選びて帥と為し、中学大学もまた学の最優の士を選びて師と為す。生徒は多く数万人に至る。
朱書が『大学章句』序に描いた中華古えの学校制度さながらである。
さらに日本には科挙もなく、藩校などが増加中ではあったものの、誰もが思うように学問できる状況ではなかったことが、おそらく西洋の理想化を強めた。
●仁
西洋人は人を重んずる、つまりは「仁」である。これも、早くから「西洋」観の一面となる。その一因は、やはり『職方外紀』にある。その欧州の章には、次のような記述がある。
 
其の人を愛すること己の如し。‥・故に欧羅巴人は、倶に施捨を喜び、千余年来、未だ貧に困りて子女をひさぐ者有らず、未だ飢餓して溝に転ずる者有らず、
「愛人如己」とは、キリスト教の教えの記述だが、儒学の教えと合致している(ように見える)。そして欧州には、娘を遊廓に売ったり、惨めに餓死する人はいないという。天明・天保の飢饉の経験者の心を刺す記述である。しかも『職方外紀』によれば、欧州には至る所に「貧院」があって「鰊寡孤独」(かんかこどく;男やもめ・女やもめ・老いて子の無い老・幼くして親の無い老)を養う。また「幼院」もあって、貧者の子供を育てる。さらに、「病院」もある。つまり「仁」が単なる治者の心構えではなく、制度化されている。これまた儒学的教養人の心を打つ記述である。
 そして蘭学者はそれらの実在を確かめ、記した。例えば、森島中良『紅毛雑話』(1787年刊)は、「貧院」「幼院」「病院」が、「明人」のいう通り実在することを記している。
・・・・・・・・・・・・・・・
 徳川の世の末に、福沢諭吉は、20万~25万部という大ベストセラーとなった『西洋事情』初編を刊行する(1866年)。・・・福沢はこの『西洋事情』において、蒸気機関などと並んで、病院・貧院・唖院・盲院・癪院・痴児院を紹介している。極く小規模の小石川養生所以外、これらに類する施設は、日本には無かった。
 さらに、この『西洋事情』刊行の翌年、アメリカに密行した新島七五三太(しめた、後の新島襄)も同様のことを書いている。
 こうして、西洋を実体験した人々までが、普遍的な「道」の実践において、確かに西洋の方が勝っていると考え、言明するに至ったのである。

このように渡辺崋山や福沢諭吉などの下級武士の間で、西洋の制度はすばらしいものであり、儒教的な道の実践においても優れているという論が出てきているのは驚きである。
★議会制(民主主義)の登場でさらに理想化が進んだ。

・・・しかも問題はさらに政治制度に及んだ。
●公
「公」という漢字の意味は、日本語の「おほやけ」(「公儀」などと漢字で書いても、それは「おほやけ」の意味である)とも、英語のpublicとも異なる。そして、朱子学などで強調される「公」は、強い倫理性を帯びている。「私利」を超越した、万人に共通する「天理」の立場を指す。
 それ故、清朝中国の知識人たちも、西洋諸国の近代の政治制度を知ったとき、往々極めて高い評価を与えた(西洋人が、儒学的に高く評価されやすいように説明したという事情もあっただろう)。
 例えば魏源の『海国図志』(1849年)(その改訂版は直ちに日本に輸入され、復刻版が刊行された。1854年。ペリー来航の翌年である) によれば、「英吉利国」では、国に「大事」があれば「王及び官・民」がともに「巴厘街門」parliamentで「公議して乃ち行ふ」。また「彌利堅国」(米国)では、二七の「部」 に分かれており、そこから「一大酋」を「公挙」する。しかも世襲せず、四年で交替する。「公と謂はぎる可けんや」。「事を議し、訟を聴くに」も「衆、可とすればこれを可とし、衆、否とすればこれを否と」し、その議に預かる人も「公挙」する。「公と謂はぎる可けんや」。
 ・・・アメリカ合衆国の政沿制度は、中華古えの理想に近く、それ故に褒め称えられるのである。
 これらには、当然日本の読者も動かされる。徳川家に近い大名、松平慶永の側近、橋本左内も、アメリカについて「政体の趣意は一に天帝之意を奉行すると申ことにて、上下共衆情に戻り、公議に背き候は不為事、第一の律令に有之候よし」(『西洋事情書』安政二、三年頃)と書いている。
また万延の遺米使節団の一員、玉虫左太夫は「共和政事」こそ「公」であり、したがって内乱など起こりえないのである。と言っている。
(皮肉にも玉虫がこう記した翌年、米国はあの凄惨な南北戦争に突入する)。

熊本の儒者横井小柄(1809年-1869)も、アメリカとイギリスの選挙による大統領制・議会制や、学校や病院などの存在も全て国民のために行われており、理想状態に近い政治が行われていることを述べている。
儒学者が永年信じていた理想の儒学的統治が、実は現在、西洋で実現しているのだという認識である。このように西洋の思想や制度が、日本や中国のインテリ知識人の間で高く評価されてきたことは注目されることである。
このように幕末から明治初期にかけて主導的な役割を演じた(主に下級)武士達の間で、すでに西洋の思想は理想的に受け入れられていた。この状況は、おそらく江戸幕府後期から起こった天明・天保の飢饉という外圧状況に対してなんとかしなければという問題意識とともに、武士自身の状況にも起因されると考えられる。
江戸初期から中期にかけて輩出した思想家はいずれも商人出身で、かつ地域や経営体(イエ)という共同体に起因する思想だった。しかしこの西洋思想受入の主役は明らかに下級武士であり、しかもどこか理想主義的なところがある。
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★彼らは、何故西洋思想を受入れ、賛美したのか?
●下級武士は民主主義の騙しの構造に絡み取られた。
当時の武士は、天明・天保の飢饉や、貧困、浸透する貨幣経済に対して、どうしたらいいかという問題意識を持っていたはずだ。市場時代を先取りした西洋の社会や制度が理想的に見えたのも無理はないかもしれない。しかし、西洋はその時代一方で世界中を侵略しまくり、虐殺・略奪まくっていた国々でもある。
そんな連中が理想社会?・・・普通に考えたらどう考えても変である。
※今、民主主義は騙しのための観念ということが分かっている。その当時勃興しつつあった金融資本(金貸し)が、人々を動かし、革命によって資本支配を正当化するための思想だった。そして民主主義に限らず、私権時代の運動・革命で理想が実現できたためしがない、その限界と騙し性とはどのような構造になっているのだろうか?
 るいネットより

【1】私権社会の騙しの構造
私権統合という社会フレームの中では、貧困からの脱出という素朴な願いは私権闘争に収束するしかない。従って、貧困からの脱出という真っ当な願望も私権欠乏に転倒してしまう。
そこでは、運動をすればするほど、私権欲求と自我が肥大してゆき、もともとの素朴で本源的な願いは正反対のものに転落してゆく。

 るいネットより

【2】民主主義の騙しの構造
民主主義→社会運動には三重の騙しの構造=活動家の自滅構造がある
【1】素朴な貧困からの脱出願望が、私権欲求にスリ変わる。
【2】大衆が救いの対象から、たんなる扇動の対象にスリ変わる。
【3】民主主義は、金貸しにとっては資本支配を正当化する武器であるが、資本力のない大衆においては、利用されるだけの呪文にスリ変わる。そして、一旦、その呪文に染まってしまえば、死んでも騙されたことに気づかない。

この構造にスッポリと嵌まったのが、日本の武士階級だったのではないか?特に貧しい下級武士が、この構造から表向きは理想と言いながら、私権欲求を肥大化させ明治維新を遂行したのではないだろうか?
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★下級武士が明治維新を遂行した必然性
なぜ、日本の武士階級、特に下級武士が西欧思想(特に民主主義)に染まっていったのだろうか?幾つか原因がありそうです。
1.共同体から離れ、都市(市場)で遊民と化していた武士
共同体やイエという経営共同体に立脚した思想家達(伊藤仁斎など)にくらべ、武士は共同体を失い都市の遊民と化していた。彼らは生産基盤を持たず、江戸初期を除いて社会的な役割も喪失していたのだ。
彼らは、生産基盤や共同体を失ったが故に、真っ当な判断力を失い、一面的な理想像(西欧のプロパガンダ)に惑わされ、西洋の騙しの思想に収束していったのではないだろうか?
2.理想化教育
武士階級は、社会的役割を失っていた分、それを教育によってカバーしようとしていた。君子関係の理想的なあり方を教える儒教によって。
一方、江戸時代の農民の子供は親と一緒に仕事をしていた。また、村同士の争いなどの情報も子供も知っていた。江戸時代の大多数を占める農民・商人の子弟は大人の世界に巻き込まれて育っており、だからこそ大人になって必要とされる能力が身についたのである。
ところが武士の子供はそうではない。武士の子供が受けた教育の中心は、儒学(論語や四書五経)であるが、そこでは専ら君子のあるべき理想像が教えられ、それと正反対の大人の醜い世界(出世競争や陰謀)は子供には隠し、いわば現実世界の圧力から隔離された温室空間で理想主義的な教育がなされていた。(この武士の子供に対する教育が、現在の教育制度の原型。)
この実態を伴わない理想教育・観念教育が、観念の騙し性に気付けさせない、かつ本質が見抜けない、純粋培養的な教育だったことが輪をかけて西洋の理想主義に収束させたのではないだろうか?(かつ、その後彼らが無味乾燥な近代学校教育を制度に取り込んでいく下地が、江戸時代の武士教育にあったのだ。)
※この上記「1.役割不全」と「2.理想教育」は、下級武士だけではなく、武士全体に共通する構造です。彼らが西欧に理想像を求め、役割不全から新たな役割を議会制や市場の制度(福沢や新島のように学校の創設)に求め、明治維新後それらを実行し役割を担ってていったことと符号してきます。
3.貧しい下級武士
特に下級武士は、俸禄は毎年一定の米しかなく、市場の発達と共に貨幣が必要になるのに、俸給は上がらず、かなり生活が苦しかった。商人に比べ身分は上だが、年々相対的に貧しくなっていたのだ。そのために体制への不満が高まっていた。
ex福沢諭吉は、“封建性は親の敵なり”と言っていた。下級武士は、上記の構造に加え、幕藩体制への否定意識をも強く持っていたと考えられます。
以上から下級武士が、体制を転覆して明治維新を遂行し、その後西洋思想に基づく社会制度を構築していったことがよく分かると思います。
★下級武士による西洋思想の導入としての明治維新・・・そしてどうなったか?
彼らは、西洋の思想と制度を取り入れ、明治維新を遂行した。それは日本史上かってなく、根本的な改悪だった。農地など土地の私有制を取り入れ、私有させた上で、貨幣での収税を強要した。政治は議会制とし、官僚制度を大々的に取り入れた。庶民にも学校制度が強要された。
その結果社会秩序の基礎にあった村落や地域の共同体が破壊され、個人に課税→貧困化した人々は、都市に流れ込み、個人の出世競争や貧困から戦争に可能性収束するような社会が出来上がった。まさしく金貸し(金融資本)が望む世界が出来上がったのだ。 
参照:江戸時代の思想【まとめ1】 共同体に立脚した江戸幕府と、共同体を破壊した明治国家
明治維新を遂行した元々の下級武士達は、政府・議会や学者や官僚、大学の経営、マスコミなど、西洋思想を流布する教宣機関に陣取り、特権階級となっていった。
こうして現代日本のような、金貸しとその下僕たる、政治家・官僚・学者の支配する世の中へ基本的な枠組みが出来たのである。西洋思想を錦の御旗に日本を占拠する特権階級の源流は、幕末期の下級武士にあったのだ。

List    投稿者 ihiro | 2012-07-03 | Posted in 04.日本の政治構造3 Comments » 

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コメント3件

 siodgp | 2013.09.07 3:31

政府がケッシュ財団から受け取った技術を使えば五輪誘致は可能である。
首相の五輪誘致発言は、このことを踏まえてのことなのだろう。
政府がケッシュ財団から受け取った
http://www.onpa.tv/2013/05/13/789-3
これらの方法で汚染水問題も完全に解決できるし、そうすれば安全なオリンピックも実現できる。一刻もはやくこれらの技術を使って問題を解決し、オリンピックを開催すべきだろう。

 けん | 2013.09.17 22:22

私も、西式甲田療法を実践しています。
半日=18時間断食、一日二食。
完全生菜食。調子いいですね。
なれるまで大変で、まだ完全にそのとおりというわけには
いきませんが。

 URL | 2013.10.17 20:49

立て直せ!!狂った医と食  7.『あなたに巣くう細菌が、あなたを救う』

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