法の序列権力が有罪を決める
ジャパン・ハンドラーズと国際金融資本に「事件をつくりたがる警察・検察、悪のりするマスコミ。」という記事がある。
ここでは、警察官や検察官といった法を生業とした官僚組織の特性・権力が述べられており、一方でマスコミ等による人々の意識(認識)を操作できるという権力に関して伝わってくる内容がある。
しかし・・・
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~以下上記記事を部分抜粋~
一方、痴漢事件のえん罪被害者の手記は、ある日突然、犯罪者に仕立てられたサラリーマンが上告審を棄却されて、服役するまでを描いている。彼の弁護団や妻は、彼の身体的特徴から、彼自身が、被害者として登場した女子高生が警察や検察に対して謳った、「作文」としての調書に書かれた犯行時の状況が起こりえないことを立証しようとしたにもかかわらず、その証拠は一切採用されなかった。控訴も棄却され、憲法違反について争う上告も門前払いを受けた。
この本の後半は、裁判における調書の引用が多くなるので、少々読みづらい。だが、私が重要に思うのは、逮捕されて、警察に取り調べを受けている場面、検察の取り調べを受けている部分だろう。
警察官と検察官は、犯人が有罪だという前提で取り調べを行う。これは、もう間違いないだろう。真実の究明は裁判でも行われない。日本の刑事裁判は有罪率9割だったろうか。つまり、逮捕された時点で、推定有罪になるということである。
つまり、逮捕したことが間違いであれば、警察の責任につながるから、それではメンツが丸つぶれになるので、何が何でも事件化するのだ。担当者がだれであるかという運の問題もある。運が良ければ、あるいは警察官や検察官の虫の居所が良ければ、起訴されない場合もあるだろう。
それと、重要なことは、司法関係者の間では当たり前のことだが、警察・検察の調書はすべて彼らの「作文」であるということである。これはある意味で聞き取りして調書を作成するのだから、やむを得ない面もある。しかし、この本で取り扱われている事件では、被害者の女子高生を誘導尋問した可能性が高い。この場合、被害者が誘導に乗るばかりではなく、積極的に謳ったばあいは、もう逮捕された被疑者側にはなすすべがない。だから、警察の取り調べについては、すべてをビデオ収録するような運動が少しずつ起こっている。
この本の中には取り調べの様子が、筆者の回想や作成された調書を全文掲載する形で、詳しく再現されている。警察という組織の中の様子がよく分かる。権力を持っていれば振りかざしたくなるのは人情で、それゆえに取り調べのビデオ収録が必要なのだ。そのことがよく分かった。
つまり、警察というのは、暴力を持った官僚組織である。日本では、権力がむき出しの形で現れたりはしない。佐藤優氏の言葉を使えば、「柔らかい暴力」がこの国を支配しているというわけだ。
~引用終わり~
確かに、法という権力(暴力)をふりかざし、それに悪のりするマスコミの権力(存在)は許せない。いずれも存在基盤(警察は有罪にする事で存在意義をアピールし、マスコミはそれを審判する立場を持って存在基盤としている)を危める事はしないだろうし、マスコミがへたに煽るがゆえの問題だ。
しかし・・・ここに更に大きな欠陥がある。
「法を生業としている者は、法という序列に従わざるを得ない」という絶対ループである。
事実、官邸→法務省→裁判官・検察・・・という序列は存在している。
序列(現在で言えば市場原理)に替わる新たな社会全体の評価軸の構築が必要だ。
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シャコンヌ | 2007.01.26 2:16
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視聴率を上げる為なら手段は選ばない。今度は納豆のダイエット効果をめぐる番組を捏造した関西テレビ。NHKにせよ民放にせよテレビ局に対する不信はつのるばかり。