2013年10月03日

裏天皇の正体4 南朝を支持したのは市場勢力。それを統括していたのは秦氏

前稿「裏天皇の正体4~裏天皇は南朝発。孝明天皇は偽装崩御して、裏天皇になった」で発掘された論点は次の通りである。
【1】明治天皇が長州奇兵隊の大室寅之祐(南朝の末裔?)にすりかえられたのは事実であるが、孝明天皇と陸仁親王が殺されたというのは嘘である。孝明と陸仁は生きており、そのまま堀川御所で裏天皇となった。
【2】天皇のスリカエは明治天皇だけではない。南北朝時代にスリカエられている。北朝に統合されたことになっているが、北朝とされている崇光天皇は実は南朝の後醍醐天皇の皇子護良親王の息子である。つまり、北朝とされている皇統は実は南朝にすりかわっていたのである。
【3】その崇光天皇から枝分かれした伏見殿(伏見宮家)が裏天皇であり、表の皇統が絶えた時に天皇を出せるバックアップシステムとなった。と同時に、表の皇室と国事分担して海外活動を専管し、国内でも諜報機関と測量機関を配下においていた。
【4】幕末の伏見殿が朝彦親王であり、朝彦親王が作り上げた京都学習所は尊王攘夷論の拠点となった。
南朝・北朝それぞれの支持勢力がいて、両者は対立していた。それが南北朝の対立である。南朝・北朝の支持勢力は何だったのか?
南北朝の背後にはそれぞれの対立する勢力がいたということであり、

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『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著)「第4章 大塔政略と伏見殿」を要約する。

●南北朝の秘密統合(後醍醐と文観が建てた「大塔政略」
「大塔政略」とは、南北朝の秘密統合を実現するために、後醍醐天皇と律僧文観が建てた幾つかの政策と戦略の集合体のことです。その建策は嘉暦三(1328)年に始まりました。この年、在位満十年を迎える大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統との間でなされていた両統迭立の約束により、早々に退位して皇位を持明院統に明け渡さねばなりません。
後醍醐の第三皇子大塔宮護良親王も、この年に早や二十一歳に達してしまいます。不世出の英資により、大覚寺統は謂うまでもなく、対立する持明院統からも、今後の皇運・国運を担う唯一の大人物として期待されていた大塔宮は、両統迭立という不純・非合理な政治慣行により立太子を阻まれ、今後は僧籍に入るしかない状況でした。
折から国内では、旧来の大荘園主たる大社寺および平安貴族と、平安末期以来台頭してきた荘園護衛の武士階層との荘園支配権をめぐる構造的対立が深まり、さらに想定外の国難であった元寇の残響として、武士階層の中に恩賞を巡る不満が蓄積していました。
本当の問題は、貨幣経済の浸透により商品経済が伸張し、流通・商工業者による資本蓄積が始まって金融業が生まれるなど、日本社会の経済的構造が変化しつつある状況それ自体にありました。
つまり、古来の律令制度は言うに及ばず、摂関公家による荘園制も崩壊に瀕し、新興の武士による幕府体制ですら対応できない時代に差し掛かったことにあります。
ところが、鎌倉末期に始まった皇位継承をめぐる持明院統と大覚寺統の争いに鎌倉幕府が介人したことで、両統迭立という愚かな方式を半ば制度化したため、日本国憲法の衆参両院制の下で二大政党が並立した時と同じような、「決められない政治状況」が続くことになりました。
この状況に憂慮したのが、般若寺で修行した律僧で真言密教の醍醐寺を本拠にする文観です。奈良時代の行基の流れを受け継ぎ、非人救済事業に携わってきた西大寺流律宗の現場にいた文観は、荘園の隙間に生まれた自由空間すなわち「散所」における貨幣経済の到来と、商品流通経済の進展を眼前に見ました。

1文観が洞察した「非人経済」の興隆
文観は鋭い経済感覚と、人権に重きを置く公正な社会感覚の持ち主として、さらには有史以来の頭脳を持った、史上稀に見るすぐれた宗教指導者でした。
鎌倉時代に入り、南宋帝国および元帝国から個々と流入する銅銭により、貨幣経済が急速に浸透しつつある時勢を凝視した文観は、貨幣使用により活発化した物資の取引が、商品の生産と流通を促し、これに携わる非人(無籍非農業民)の生活が格段に向上し、さらに進展を遂げることで社会を大きく変えつつある将来を洞察しました。
荘園よりも荘園を取り巻く外側に在って散所(産所)とか別所と呼ばれた地区や、物資と旅客が行き交う街道を根拠とする非人(非農業民)社会の方が構造的に変化していることに注目したのは、文観と後醍醐だけではありません。宗教界では鎌倉新仏教が正にそれで、密教全盛時代の荘園依存と鉱物資源採取による寺院経営から脱皮するために、大衆済度による個人献金に収入源を求めたのです。
こうして社会構造の著しい変化に着目した文観は、宋学により国家統治者としての意識を高めた後醍醐天皇と出会い、今後は荘園社会が停滞するのに引き換え、商品流通社会が到来するという「非人史観」で完全に合意しますが、「非人経済」がやがては「荘園経済」を凌駕して日本を支えるとの両所の見方は、後年ズバリ的中します。
 その流れは今日にもおよび「非人経済」系統の商工業者が今日の「経団連」となり、「荘園経済」系統の自作農民が「農協」を構成して対抗しているのです。
国際的な資本主義の進展により、日本が輸出立国の国柄となってからは前者の旗色が勝ることはご高承の通りです。後者は専ら地方の保守勢力を牙城とし、一票の格差を活用して保守政党の大票田となり、議会政治を通じて国政に影響を与えてきました。
荘園経済の後身農協と、非人経済の後身経団連は、今やTPPを巡って力の限りの綱引きをしています。その中にあって現時の代議政党は、往時の公家よろしく、南(非人)に具せんか、北(農協)に加担せんかと、綱引きの帰趨を見守っています。これが現代における南北両勢力の対立なのであります。

●散所とは何か?
「散所」の語は天平十九(七四七)年の文書に初めて見えるそうです。正式な場所を意味する「本所」の反対語の「散所」は、語義として領主の直接的支配の及ばない場所と、そこに棲む人を指すとされています。平安時代から室町時代にかけての散所は、荘園内の特定地域ですが、ここに定住を認められて年貢の代わりに雑役を負担した非農業民を意味しました。
散所の淵源は、街道沿いの「宿」や港湾の「津」、大社寺の門前および「別院」、有力者の居館などの近傍で、様々な非農業役務の従事者が、俗に非人と呼ばれて集住した地区です。
貨幣の浸透により進展する「非人経済」を、大寺院などの荘園領主が「田畑経済」に取り込む目的で、年貢免除などの保護を与える代償として各種の役務を課す特定地域を、荘園内に設定しました。これが散所で、後世の現業職公務員の原型となる「散所の民」が、ここに発生したのです。
荘園内に設けられた散所は、先行して発達した「宿」や「津」などの非農業民居住地域と、機能的には同じような地域となりますから、本稿では学術的定義に捉われず、これらの一切を総称して「散所」と呼ぶことにいたします。

1「大塔政略」の根本は「荘園史観」から「散所史観」への転換
領主から保護を受けた散所には、公領からの逃散百姓をはじめ、半島を経由して陸続と渡ってきた渡来民など、様々な浮浪民が流入しました。ことに、南満洲から朝鮮半島にかけて住んでいたツングースなどの族種には、元来南下衝動が潜在しているのか、大和政権時代から鎌倉・室町を経て江戸幕府が鎖国するまで一千年に且り、多数の単純労働者と非職能民が渡来して、散所の民となりました。
こうした無籍民の流入による人口増大と、折からの「非人経済」の進展で、散所の経済規模は大きく拡大し、それがまた浮浪民を吸入します。こうした循環によって、スパイラル的に拡大した「散所経済」は、やがて荘園経済の外壁を突き破り、外界と連結しながら中世都市へと発展します。
散所内における商工業の進展拡大に伴い、散所じたいの都市化が進む一方で、古都に流入した散所非人も商工業人化し、その多くは都市住民に転化していわゆる町衆になりました。
散所の地に新たに流入した芸能民ら半定住民・漂泊民は、本来荘園の片隅に定住し、農業や雑業の合間に荘園の外に出て行商や芸能を業としていましたが、都会における芸能需要の拡大に応じて散所に異動してきたのです。
散所に集住して行商や芸能・雑業を始めた彼らは、既に商工業人化か進んで町衆に脱皮した、かつての散所非人から賤視を受けることとなりますが、そこで身分が固定した者が近世の非人(筋目非人)になります。

さて、「散所経済」に注目して、その将来を見通した後醍醐天皇には、社会構造の変革に取り掛かる前に早急に解決しなければならない政治問題が横たわっていました。すなわち、皇位継承に関する両統迭立の政治慣習です。鎌倉時代から朝廷の宿病となったこの階習の解消を図った後醍醐天皇と文観は、政治的策略として両皇統強制統合の奇策を建て、さらに社会改革策とその実現のための政治的戦略を総合した壮大且つ緻密な基本計画を立てます。
それが本稿の謂う「大塔政略」です。
「大塔政略」の二大要素は、政治面では「南北両朝の強制統合」、社会面では「散所経済の発展誘導」に尽きますが、その根本にある歴史観は、幕府と公家ら荘園領主が拠り所とする「荘園史観」に対して、商工・サービス業の勃興を必然と考える「散所史観」なのです。

南朝(後醍醐天皇)の支持勢力は、散所、つまり非農業民の市場勢力あった。
それに対して、北朝の支持勢力は、武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力であり、貴族をはじめとする荘園領主であろう。

日本において、こうした市場勢力や芸能勢力が登場したのは何故か?
【1】大陸・朝鮮からの流入は百済の滅亡後~鎖国まで続いた。彼ら流入民が散所(市場)の住人となっていった。
その需要源となったのは、支配階級の消費需要である。だからこそ、市場(散所)は平安京や平城京の近くにできた。この支配階級の消費需要が市場拡大の源泉であったという点は西洋の市場が拡大した理由と共通する。
西洋市場はそれに加えて金貸しがけしかけた戦争需要によって拡大したが、日本の古代市場は戦争需要による拡大という側面が非常に希薄であるという違いがある。
そして、朝鮮からの流入民を受入れ、統括していったのは秦氏だと考えられる。
それは秦氏の出自が朝鮮半島経由でやってきた交易部族であったからである。

『秦氏の研究』(大和書房刊 大和岩雄著)によると、
「漂白芸能民や白比丘尼が秦河勝・秦道満を祖とすることからみて、古代の日本列島へ渡ってきた朝鮮半島の才人白丁は、秦氏の統制下に入るか、自ら秦氏に結びつこうとしたかの、どちらかであったと推測される。」 
「散所は、中世前期まではそれほど差別的な意味はなかった。しかし、中世後期になると、散所という語は、非人・乞食など被差別民を指す言葉となる。」
「秦氏は、平安京造営のスポンサーになり、藤原氏とも血縁をもち、彼らが祀る松尾大社は上賀茂・下賀茂神社と共に平安京の守護神となっているが、一方では、被差別の対象にもなっている」
【2】国内でも、農業で喰えなくなった農民たちが逃散し、都市の市場に流入した。
それは平安貴族の収奪と寒冷化によるものである。

平安貴族が如何に農民から収奪したかは『暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族』http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.htmlに詳しい。
また、この時代、1200年代後半から100年間、地球は「1300年イベント」という著しい気温低下に見舞われ、ヨーロッパ北部では大規模な飢饉が起きている。
鎌倉時代末期~南北朝時代はその真っ最中であり、日本でも飢饉によって大量の流民が発生した。

北朝の支持勢力は荘園領主、つまり武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力であり、その主力は百済勢であろう。
北朝(百済勢)の収奪や寒冷化で喰えなくなった農民や朝鮮半島からの流入民が市場の住人(非人、河原者)となったが、そのまとめ役を担ったのが秦氏であり、秦氏が支配する市場勢力こそ南朝の支持勢力である。
(倭人勢力である葛城はどういう関係にあったのか?)
長州(山口県)に明治の元勲や戦後の首相を輩出した田布施という朝鮮部落があるが、明治天皇にスリカエられた大室寅之祐もこの田布施の出身である。
この田布施は秦氏の拠点か?それとも百済勢力の拠点か?

List    投稿者 staff | 2013-10-03 | Posted in 04.日本の政治構造1 Comment » 

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コメント1件

 國體奉公衆 | 2016.10.20 10:58

貴殿の「落合本要約」に注がれた情熱は評価しますが(笑)、最後の「田布施〜」は明らかな鬼塚ら反日勢力によるプロパガンダによって洗脳されているので、正確なところをお伝えします。

「田布施システム論」のデタラメ

(1)鬼塚英昭の正体

明治維新の目的は単なる倒幕だけでなく、「皇統二元体制」を敷くことで、❶南朝皇統の復活(政体化)、❷廃藩置県による國體の強化、❸欧州王族間通婚への対応、❹南朝系海人族(縄文海人族+物部氏ら)政権の樹立、❺皇位継承者バンクの設立、などです。

が、 このような深慮を知る事もなく、一部の反日勢力が「田布施システム論」と称して、「明治天皇すり替え」だとか「明治天皇は朝鮮人部落である田布施出身だ」 とか、果ては「安倍晋三総理も田布施出身だ」とか、根拠のない捏造話を拡散していますが、その”反知性主義”には呆れるばかりです。

私も山口県出身ですが、「田布施は朝鮮部落」などという話は子供の頃から聞いた事がなく、また従兄弟は山口県の職員で田布施支所に長年勤務していましたが、同じく「そんな話は耳にした事がない!」と呆れていました。

そこで、「田布施システム論」なる捏造話の出元であるノンフィクション作家・鬼塚英昭について明らかにすると、大分県別府市生まれ、大分県立別府鶴見丘高等学校卒業後、中央大学法学部に入学するが学費が払えず中退。故郷の別府で家業の竹細工職人となる。2016年1月25日に78歳で没。

鬼塚の代表作「天皇のロザリオ」を読んだ感想は、❶史料の中から自説に都合良い部分だけ引用している、❷総じて、歴史的事実と妄想、願望的記述が混在している、❸「天皇教」などという違和感のある用語を何度も使用している、❸司馬遼太郎を熱烈な天皇教徒とレッテル貼りしている、

❹共産主義者だったハーバート・ノーマンの文書からの引用が多い、❺「不敬罪はけしからん」、「治安維持法は国民を弾圧するためにあったから廃止されて良かった」、「共産党は合法でなければならない」と共産党を擁護している。

結論として、鬼塚本人はノンフィクション作家のつもりでいますが、著作は歴史書としての要件を満たしていないばかりか、それ以前に鬼塚自身、所詮"竹細工職人”の域を脱しておらず、到底”作家”というレベルに達していない唯の反日思想の共産主義者である可能性が高いと言えます。

また、「DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』成甲書房」の内容を引用し分析すると、鬼塚は「2006年の10月、山口県の柳井市にいる松重楊江という人を訪ねて行きました。松重は「ここのそばの田布施川を渡って、山の向こうから大室近佑という老人が野菜を売りに来ていた。

ところが時々『うちの爺ちゃんは明治天皇や』と言うんです。それで萩の郷土史家を連れてきて調査し、彼とともに山口県の郷土雑誌に『変な老人の話で・・』というようなことで記事を書いた。そしたら、それを読んだ鹿島昇という弁護士が訪ねて来て、

『私は大室近佑の言う話を信じるから、二人(鹿島と松重)で本を出そうじゃないか』言った。それから私も彼らの本に刺激をされて『天皇のロザリオ』『日本のいちばん醜い日』に、彼の話を引用する形で出版したわけです。

田布施という町ははっきり申しますと朝鮮部落です。なぜかと言いますと、歴史的に山口県は長州藩になる前に大内藩だったんです。大内家は本人たちも言ってますが朝鮮人です。ところが、毛利が侵入して負けたため家臣たちが散って部落民にされるわけです。

この過程は上智大学の神学部の教授が『遥かなる高句麗』という本の中に書いています。また、2006年10月6日か8日号の週刊朝日に李策(イ・チャク)という記者が書いた『家政婦は見た!安倍晋太郎研究』という記事で、

岸と佐藤栄作の直系の一族安倍晋三の父の晋太郎が死んで棺に入る時に、家政婦をやっていた久米うめという女性が『死ぬ時初めて分ったが日本人の体型ではない。朝鮮人の体型だ。晋太郎は生前いつも”俺は朝鮮人だ”と私に言ってた』と書いている」と。

が、まず、安倍晋三総理の実家は田布施とは真反対の山陰側にある旧大津郡日置村にあります。その出自は、物部系加茂氏(南朝系)の流れを汲む安倍晴明の子孫・季任が、 天智系天皇(後の北朝)呪詛の罪で肥前国(佐賀)に流罪となり、「松浦党」頭の娘婿・松浦三郎大夫実任として平家で活躍。

その娘も平知貞に嫁いだため平家滅亡後、”天下人”源頼朝の迫害を免れる為に安倍姓を名乗り長門国に落ち、旧大津郡日置村(現在の長門市湯谷町)で家業の醤油屋を営み、現在に至ったのが真相です。

また、安倍総理の直系の祖父・安倍寛氏は旧大津郡日置村の村長をして、”昭和の今松蔭”と伝えられた程のカリスマで、農村改革や山林事業など数々の改革を実行、噂を聞き付けた岸信介(当時、東条内閣の商工大臣)が面会に来た位の有名な人物でした。

ちなみに、安倍寛氏の妻は西南戦争で活躍した大島義昌陸軍大将の孫娘でしたが、奢侈なため「家風に合わん」と実家に帰され、実家にいても退屈な息子の晋太郎氏は、夏休みで帰省した際には我が家に遊びに来ていました。なお、我が実家も安倍家とは鎌倉時代以来のお付合いです。

次に、岸氏の実家である佐藤家は、室町時代に大内家の動きを監視するために京都から派遣された佐藤甚平(平清盛の親友でもあった西行法師こと佐藤義清の後裔)の直系であることは、京都皇統に保管された「月読暦(裏の皇統譜)」に記されていることは落合莞爾氏の著作でも紹介されています。

この佐藤甚平の後裔が、佐藤市郎海軍中将、佐藤(岸)信介、佐藤栄作の三兄弟で、佐藤栄作の話では「私達三兄弟は、頭の良さは上からだよ」と言わせたほどの秀才だった佐藤市郎は海軍兵学校、海軍大学校ともに首席で卒業しましたが、

同じ首席でも過去に例を見ない高得点であったという言い伝えがあります。佐藤中将と海軍兵学校36期の同期生には沢本 頼雄、塚原二四三、南雲忠一の三人の海軍大将がいましたが、頭の良さは佐藤中将が抜きん出ていたことは衆目の認めるところだったといわれています。

最後に、家政婦の証言についてですが、骨格学の専門家のような知識を持っていることに違和感があり、さらに、同記事には「総理大臣候補といわれながら早逝した晋太郎氏について岸氏が『惜しいことだ』と語ったとされていますが、岸氏は晋太郎氏よりも10年以上前に他界しています。

(2)松重楊江の正体

この中に出てくる松重楊江の正体については、大正14年3月30日、山口県に生まれる。小学校5年生時から松重○ナ宅で暮らすようになり柳井商業学校卒業後、1944年12月、陸軍西部第九部隊師団通信隊に入隊。中支前線に派遣後1946年3月、上海から復員し1947年、日本共産党に入党。

1948年、岩国市に移転し岩国税務署管内の農民3500人を動員して税金闘争を起こし、「六ヶ条の約定書」を取る。このあと東部地区委員長になり、労、農、商人、在日朝鮮人などの組織を作る。その後、日本共産党・県委員、県常任委員、中国地方委員候補となり「共産党大学」第一期生に。

1952年、柳井市山根西の松重家に帰り、近所から事業所の再建を頼まれ商道に入る。社名を改めて株式会社にし、事業に取り組んだところ年商7億円、社員200名になった。1968年、退職し、この頃から歴史の研究にも熱が入るようになり、平成15年「日本史のタブーに挑んだ男」発刊。

松重は『昭和天皇の母・貞明皇后の本当の名前は朱貞明』。田布施村人脈によって樹立された明治・大正・昭和・平成王朝は朝鮮王朝である。伊藤博文らが職を失った旗本の娘の中から美女を城内に入れて「遊郭」をつくり、そこに朱貞明がやってきて大正天皇の妃になった』としています。

が、しかし、この論理では、昭和天皇以降の出自を説明できても、明治天皇、大正天皇が朝鮮人であるという説明にはなっておらず、江戸の旗本が全員朝鮮人だとでもいうのでしょうか?ましてや山口県熊毛郡田布施村が朝鮮部落であることの論拠にもなっていません。

(3)宮崎鉄雄の妄言

この他、松重、鹿島と共著した「明治維新の生贄」の三人目の人物に宮崎鉄雄という音楽家がいます。宮崎氏は、「父親の和泉国伯太藩主で大坂定番だった渡辺章綱が、一橋慶喜から孝明天皇暗殺の疑いを調べるように命じられた結果、岩倉具視と伊藤博文によって暗殺されたことを突き止めた。

この傍証として、維新後、長崎に帰った渡辺章綱(平左衛門)は長崎県稲左で渡辺青年学校を設立、生徒達に一連の成り行きを話していたところ、伊藤の知るところとなって刺客を送られ、兄・渡辺魁とともに襲撃され重傷を負うも助かり、この話を父から伝え聞いたことを挙げられる」としています。

が、落合莞爾氏(「ワンワールドと明治日本」)によると、兄とする渡辺魁という人物は島原藩士で、和泉国伯太藩主・渡辺章綱とは何の関係もないことが大分地裁・家裁判事の浅見宣義氏のHPに記載されているとのこと。

また、平成7年に落合氏が宮崎氏と面談したところ、宮崎氏は「自分は90歳を過ぎている」と自称していたが、実に若々しく見え、とても90過ぎには見えなかったのは同席した水谷民彦ダイエー最高顧問と馬野周二工学博士も確認しているとも。

さらに、宮崎氏は、明治38年に男爵家の宮崎敬治の養子となり宮崎姓になったと自称しているが、「宮崎」という男爵家はないということなどから判断すると、宮崎鉄雄の父からの身の上話は”妄言”に過ぎないのではないかとの憶測に至ります。

以上からして、結論として言えることは、鬼塚らが流した「明治天皇暗殺説」や「田布施システム論」なる話は、「従軍慰安婦」や「南京虐殺」と同じ文脈の、日本國體や皇統を貶めるための捏造記事の可能性が高いといえます。

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