2012年02月28日

江戸時代の思想5 プロ(科挙官僚)であるが故に、旧観念(儒学)を捨てられなかった朱熹

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「科挙」
朱熹は、それまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、性即理説(性=人間の持って生まれた本性がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ思想として体系化した。
では、何故、このような思想体系を朱熹は構築しようとしたのであろうか?
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まず、朱熹の経歴をまとめる。

1130年、官僚の子に生まれる。9歳にして『孟子』を読破し、19歳で科挙に合格し、官僚になる。
この時の席次は合格者330人中278番だった。この頃は高宗の信頼を受けた秦檜が権勢を振るっており、秦檜は金との講和に反対する者を弾圧していた。科挙にもその影響がでており、講和に反対するような答案を提出したものは点が低くなった。朱熹が低い席次であるのにはそうした理由があると考えられている。
1151年 それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたのだが、李延平の禅宗批判を聞いてその考えに同調し、以後は禅宗を捨てて儒学だけを志すようになる。
1170年 崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。王安石の青苗法を参考にしたと思われる。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などで農民が窮乏した時に低利で貸し付けるというものである。こうした貸付は地主も行っていたが、利率が10割にも及ぶ過酷なものであり、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。
1179年 南康軍(軍は州の下、県の上の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者に教育を授け、太宗によって作られた廬山の白鹿洞書院を復興させた。また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に言上している。
1180年 凶作が酷かったので、主戸(地主層)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合には厳罰に処すると明言し、受け取った側が後に供出分を返還できない場合は役所から返還すると約束した。この施策により、凶作にもかかわらず他地域へ逃げる農民はいなかったと言う。
1181年から、積極的に官僚に対する弾劾を行い始めた。
とりわけ、台州知事の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行っており、その内容も非常に詳細であった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。これは朱熹を嫉視した官僚たちによる冷遇と見ることも出来るが、朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて妥当であったかどうかも疑問視されている。朱熹の弾劾文で指摘されている唐仲友の悪行が事実だとしても、当時の士大夫階級の官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪辣であったのかどうかは疑わしい。朱熹がなぜ唐仲友だけをこれほど執拗に弾劾したのかは不明である。
結局、唐仲友は孝宗によって軽い罪に問われただけであった。これに不満を持ったのか、朱熹はその後の何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。
(祠官とは道教の祠を守るための役職であるが、実際に現地に赴任する必要が無く、俸禄だけが貰える役職である。功績があった者に対する恩典、あるいは優れた学者が学問に専念できるように与えられることが多かった。)
『ウィキペディア』「朱子」

この経歴から考えて、他の科挙官僚たちが特権を乱用し民衆から好き放題収奪していたことに朱熹が批判的であったのは間違いない。実際、官僚批判を上奏しているし、自らも官僚として貧民に食料を分け与えるなどの施策を行っている。
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「王安石」と「朱熹」
実際、北宋~南宋の官僚の腐敗ぶりは凄まじかったらしい。
北宋の官僚王安石(1021~1086)は新法を実施し、政治(官僚)改革に乗り出す。その政策は地主・豪商・皇族・官僚など特権階級の利害と衝突し、猛烈な反対を受けた。彼ら特権階級(旧法党)は、『資治通鑑』の著者司馬光、『赤壁の賦』で知られる蘇軾といった巨人をリーダーにいただき、王安石の改革に真っ向から反対した。
旧法党の考えを示す話がある。ある日、北宋の皇帝神宗は旧法党の老臣に「民衆は改革を喜んでいるのに、官僚には不評なのか」とたずねた。すると、老臣からは「陛下は士大夫(官僚)と共に天下を治めるのであって、百姓を相手に天下を治めるのではありません」との答えが返ってきた。王安石に比較的好意的であった官僚蘇軾も、「官僚は故郷を離れて都でがんばっているのだから、ちょっとばかりもうけたいと思うのも当然の感情だろう」と言っている。
そして、王安石・司馬光の両巨頭亡き後の新法派と旧法派の争いは醜い党争に堕し、どちらかの派閥が勝利する毎に法律も一新されることが繰り返され、大きな政治混乱を生むことになる。この政治混乱が北宋滅亡の大きな原因とされる。
北宋滅亡後、残党が中国江南地方に逃れて建てたのが南宋であり、そこで朱熹が登場する。官僚改革を図った王安石と同様、朱熹も南宋の地主階級→科挙官僚の腐敗と収奪を改革しようとしたのであろう。
朱熹の場合は、科挙官僚たちの拠り所とする観念(儒学)の体系化に取り組んだ。

当時の儒学は、科挙官僚たちが己の私利私欲追求を正当化するために都合のよい部分をいい所取りして使っていたために、ばらばらの学説や書物が出され矛盾を孕んでいたのであろう。それを万人が共認できる普遍的な体系として再構築する。これが朱熹の課題意識であったと考えられる。そして、当時中国で浸透していた陰陽五行説や道教・仏教(禅宗)を批判しながら取り込んで、朱子学という体系を作り上げた。
ところが、朱熹は儒教のパラダイムを捨て去ることができなかった。すなわち、「徳のある人物が徳のない大衆を導くべきであって、徳のある人物とは『四書五経』を勉強して科挙試験に合格した官僚である」という儒学の根幹はそのままにして、体系化しようとしたのである。
朱熹が儒学のパラダイムの枠内でしか追求しなかったのは、彼が当時の中国の観念のプロ、すなわり官僚=試験(科挙)エリートだったからに他ならない。
科挙官僚は儒学をメシの種にして生きているので、決して儒学を捨てることは出来ない。もし捨てれば、たちまちその地位を追われてしまう。また、儒学が科挙官僚の自己正当化観念である以上、強固な「自分」観念が形成され、その「自分」観念を崩すことは自己の崩壊を意味することになるので、「自分」観念を疑うような根本追求に対する忌避回路が形成される。そうである以上、朱熹も儒学の根本パラダイムを根底から覆す観念を構築しようとはしなかったのである。
ここに、王族と地位を捨て追求の道に入った釈迦や流浪しながら追求した孔子をはじめとする本物の求道者との大きな違いがある。

有史以来、求道者たちは、同類期待(=みんなの期待)を深く感取し、それを自らの課題として根本から徹底的な追求を重ねることによって、新観念を生み出してきた。しかし、現代の専門家=試験エリートは、子どもの頃から近代観念を植え付けられ、その上、同類期待も真っ当に感取できなくなっているので、かつての求道者のような本物の追求課題を持ち得ていない。
『るいネット』「専門家は根本追求に向かえない」

科挙官僚であった朱熹も、この試験エリートの構造に完全に嵌っていたのである。
その結果、科挙官僚の支配の正当化観念である儒学の部分改良に止まった。それだけではなく、道教や仏教をも取り込んで普遍的に体系化された結果、朱子学は明・清で王朝の正統哲学(科挙の模範解答)に指定され、科挙官僚支配を一層強めることになってしまった。
つまり、朱熹は科挙官僚の改革を志したが、彼自身がプロ(官僚)であったが故に、儒教の根本パラダイムを否定することができず、単に官僚の正当化観念を強化しただけに終ったのである。
科挙官僚支配を前提とした強力な観念体系、ある意味非常に厄介な観念体系が、共同体質を色濃く残す江戸時代の日本に輸入されたわけである。日本の儒学者たちは、朱子学を真剣に学べば学ぶほど悩むという矛盾に直面してゆく。
それは次稿以降、扱う。
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「文化大革命時、孔子の像を壊す紅衛兵」
画像はこちらからお借りしました
●とはいえ、中国では相次ぐ戦乱と強制移住によって共同体が失われたにもかかわらず、西洋のように万人が自我・私権が肥大しなかったのは、その支配観念(儒学と道教)による所が大きい。

この様な意識構造の違いは、夫々の思想の違いに典型的に現れている。同じ二六〇〇年前頃に、西洋ではユダヤ教(→その後キリスト教)、東洋では儒教が登場するが、西洋の観念信仰が自我に基づく極めて独善性・排他性の強い唯一絶対神を非現実世界に構築したのに対して、東洋の儒教は残された本源規範に基づく仁・義・信など、現実世界を導く関係規範に収束した。本源集団・本源共認を破壊して自我に収束した西洋人は、非現実の世界に失われた本源価値を(架空観念として)再構築するしかなく、かつそれが自我に基づくものであるが故に独善的・排他的な絶対観念(ex. 唯一絶対神)への思い込み信仰となるしかなかったのに対して、本源的集団と本源的共認が残存している東洋人の方は、本源規範を私権秩序と整合させることによって現実世界を律しようとした訳である。
『実現論』「ロ.私権文明を問い直す(東洋と西洋)」

中国では、共同体が失われたにもかかわらず、支配観念が西洋のような自我を正当化する架空観念(騙し観念)ではなく、支配層は現実世界の関係規範に立脚した観念(儒学→朱子学)で、民衆は自然の摂理を観念化した観念(道教)で統合されたからこそ、(心底では私権欠乏を孕んでいたにせよ)自我・私権肥大が抑制され、西洋のような略奪(戦争)や騙し(市場)による飽くなき私権追求→自我肥大にはならなかったのである。
これは、人間の意識に対する観念の支配力は絶対であることの典型的な事例であろう。

観念機能は、人類の最先端機能であり、本能や共認機能が感取した問題情報は、常に観念機能に先端収束する。
最先端に位置する観念(言葉や文字)は、その一つ一つが下部意識にとっての羅針盤の役割を果たしており、定着度の高い不動の観念が下部意識を支配する力は極めて強力である。
「大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機」

もし、現代中国の支配層が儒学的観念を捨て、民衆が道教観念を捨て、自我・私権の拡大を正当化する(民主主義をはじめとする)西洋近代観念に支配されれば、中国は現在の覇権路線を超えて侵略路線に暴走し始める危険性が高い。近代西洋がそうであったように、支配層も庶民も自我・私権の拡大に邁進するからである。
1966年の毛沢東による文化大革命で、中国における儒学観念や道教観念は一旦は全否定されたが、今の所、中国政府の指導部(共産党)は、儒学観念のパラダイムを残しているようである。すなわち、「徳のある人物(エリート)が徳のない大衆を導く」というスタンス(観念)は未だ変わっていない。共産党の一党独裁体制とは、大衆を支配するエリートが科挙官僚から共産党官僚に変わっただけにすぎない。また、民衆の道教信仰は未だ根強く残っている。
『縄文と古代文明を探求しよう』「道教から中国の可能性を探る」
今後の中国の動向を読み解く上で、中国支配層の儒学観念・庶民の道教観念が残り続けるのか、それとも民主主義をはじめとする西洋近代観念に支配されるのかが、決定的なカギを握っているのではないだろうか。
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List    投稿者 staff | 2012-02-28 | Posted in 04.日本の政治構造2 Comments » 

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コメント2件

 駿河国住人 | 2013.03.01 12:28

藤原不比等は百済の皇子扶余豊章=中臣鎌足の子供で、壬申の乱で政権を握った反百済勢力派の天武時代は冷や飯くいであった。だが天武の死後、天智の娘であった持統天皇の即位を助け、持統をアマテラス大神に擬し、その子孫が天孫として皇統を継ぐ者としたのが「記紀」です。天武の後継者は反藤原となったため(聖武、称徳天皇など)都を平安京に移し以降、桓武天皇など天智系天皇にした。だから天皇の菩提寺には天武系の位牌はない。これが事実です。

 cancerkiller173のブログ『AD173丁目』 | 2013.03.07 1:27

雛人形とフジテレビとTPPと表現規制賛成派の偽善

TPPには表現規制問題も含まれているのに

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