2019年04月12日

「元号」にみる、暦や時間に対する日本人の歴史性、精神性

今上天皇の譲位を前に、新元号が発表されました。

皇位継承による改元の法的根拠は「元号法」です。
私たちは、天皇が変われば元号が変わるのを当たり前に様に考えていますが、実は法制化の歴史は浅く、法文も極めて簡素なのです。

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まず元号法ですが、これは1979年に制定されており、なんとたった2項から成り立っています。

 <元号法>

第1項: 元号は、政令で定める。

第2項: 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

以上、具体的な制定手続きも、元号が満たすべき条件も規定されていません。

そもそもこの法律の制定自体が、昭和天皇の高齢化に伴い、「これからの元号どうする?」という問題意識が発端となっています。
もちろん存命する天皇の崩御を前提とした議論ですから表立って議論するわけにはゆきません。しかし、事前に法的根拠を確立しておかなければ、いざ崩御・即位の時に混乱が生じます。

 そしてそれ以上に重要なのが、当時の日本は元号廃止が本気で検討されていたという事実です。
当時の最大野党であった日本社会党は、「元号は昭和までとし、以降は西暦に統一するべきである」と、党の方針を決定していたのです。

元号が公的に使われているのは日本だけであり、日本独自の標準は世界から孤立し今後のグローバリズムに適応していない。
元号は天皇制の象徴であり、時間の連続性を切断する、というのがその理由でした。

そのような政治状況、そして、当時の世論調査でも国民の8割が元号の存続を望んでいる、という背景もあり、政府主導で早急な法制化がなされたのです。

 

今日でも私たち日本人は、西暦と元号、どちらも用いていますが、そこに混乱や違和感を覚える事はありません。日本人は状況によって両者を使い分けています。
特に生年月日や式典、記念日等は、西暦より元号を使う方がむしろしっくりくるというのが実感です。
元号は単なる「単位」ではなく、そこに日本人は時代背景や自分の人生を反射させ、時間や時代を捉えます。

 元号が日本古来の「皇歴」なら西暦はいわば「キリスト教歴」です。
キリスト生誕をもって時間が始まり、一直線に現代まで続いているという絶対的な考え方です。

さらにキリスト教世界は、いわば侵略と搾取、正当化と個人主義の歴史でもあります。
日本人は、明治維新で欧米の進んだ文明に触れながらも、一方で欧米の排他性と独善性、それを正当化するキリスト教の本質を見抜き違和感を覚えていたのではないでしょうか。

私たちが「元号」に抱く日本的な文化や精神、「西暦」に抱く無機質なイメージもそこに起因しているように思います。
「元号」や「改元」が制度的、政治的な要素として議論されることもありますが、
この機会に暦や時間に対する日本人の歴史性、精神性について考えるのも興味深いと思います。

(by:yamakow)

List    投稿者 nihon | 2019-04-12 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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