2010年01月02日

法制度をどう改造するか?~不可侵化された「検察の正義」 造船疑獄における“指揮権発動(=検察捜査強制中止)”は検察の策略だった!?~

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検察は刑事司法において大きな権限を独占しているが、重大事件については、法務大臣が指揮権を行使できるように定められている。
しかし、戦後に起きた「造船疑獄」での犬養法務大臣の指揮権発動後、実質的に法務大臣の指揮権発動はタブー視されており、検察の権限は絶対不可侵化されている。
この問題についても、郷原信郎氏の著書「検察の正義」を参考に考えてみたい。

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造船疑獄は、多くの人に「政治の圧力」が「検察の正義」の行く手を阻んだ事件のように認識されているが、そこには重大な誤謬がある。元共同通信記者の渡邉文幸氏の著書『指揮権発動』(信山社)では、当時、法務省刑事局長だった井本台吉氏が事件から40年経って初めて語った証言などを基に、捜査に行き詰まった検察側が「名誉ある撤退」をするために、自ら吉田茂首相に指揮権発動を持ちかけた「策略」だったことが明らかにされている。
 そして、2006年6月14日付朝日新聞夕刊の「(ニッポン人脈記)秋霜烈日のバッジ」(村山治編集委員)では、上記の井本氏の証言に加えて、当時東京地検特捜副部長だった神谷尚男氏の「あのままでは佐藤を起訴するだけの証拠がなかった」との証言、当時、一線の検事として捜査に加わっていた栗本六郎氏の「捜査は行き詰まっていた。拘置所で指揮権発動を聞き、事件がストップして正直ほっとした」という証言のほか、「日本の検察には『正義の特捜』対『巨悪の政界』という単純化された構図による呪縛と幻想がある」との渡邉氏の指摘も紹介している。造船疑獄における指揮権発動が検察側の策略によるものだったことは、ほとんど疑う余地のないものと言ってもよいであろう。
 造船疑獄での佐藤栄作自由党幹事長への容疑からすると、検察の捜査が行き詰まっていたというより、最初から、この事件は、ほとんど無理筋だったように思える。容疑とされた事実は、海運・造船に対する助成法案に絡んで、海運業者から自由党に政治献金が行われたことについて、当時の佐藤自由党幹事長が海運会社から請託を受けて、第三者である自由党に賄賂を供与させたというものだが、そのような請託があったとしても、与党の幹事長に与党としての法案のとりまとめを依頼したということであって、国会議員の職務に関する請託とは言えないであろう。
 もし、このような事実が第三者供賄になるとすれば、具体的な法案実現を目指す政党への政治献金はすべて賄賂ということになる。贈賄側とされていた飯野海運の社長の当初の逮捕事実は、このような政治献金の資金捻出のために造船会社からリベートを受け取ったことが商法の特別背任とされていたものだったが、この事実については、後日、一審で無罪判決が出て確定しており、それを含め、この造船疑獄で起訴された事実の多くが無罪となっている。
 造船疑獄の検察捜査は、「暴走」を通り越して「爆走」に近いものだったと言わざるを得ないが、そのような検察捜査によって、当時の吉田首相の自由党政権に対する世論の批判が高まり、ついに首相退陣に追い込まれるという重大な政治的影響が生じることとなった。しかし、佐藤幹事長に対する容疑事実が有罪を得ることすら困難なものだったことは、世の中には全く知られていない。
 また、飯野海運の社長が全面無罪で確定したからと言って、世論が検察捜査を批判したわけでもないし、それで、責任を問われた検察幹部はいない。「検察捜査の当否は裁判所が判断すべきものであり、検察は裁判外で説明責任を負わない」という理屈が全く通用しないことは、この造船疑獄の史実から明らかである。
「検察の正義」p.157~p.159より

【参考】
<造船疑獄(ウィキペディアより)
 
造船疑獄において、検察は自らの暴走によって招いた失態に対して、法務大臣の指揮権発動を仕掛けることによって、世間の目を欺くことができた。
そればかりか、法務大臣の指揮権発動は、悪を暴く検察の邪魔をする政治権力の濫用であるという印象を作りあげた。
この事件を通じて、検察は自らがもつ権限を不可侵化することに成功したと言える。
 

 造船疑獄での指揮権発動を巡る誤謬は、「検察の正義」を神聖不可侵のもののように扱い、外部からの圧力・介入を断固排除すべきという考え方を生じさせる一方、その行く手を阻んだ法務大臣の指揮権は、検察庁法に規定されていても、実際に行使することは許されないものとして「封印」されることとなった。しかし、造船疑獄の指揮権発動の真実は全く異なったところにあった。先述の渡邉氏の著書によると、指揮権発動の背景には、経済検察と思想検察との間の複雑な派閥抗争があり、それは政治的思惑や陰謀が渦まく中での「歪んだ」検察の正義そのものであった。
 逆に言えば、この造船疑獄を巡る史実そのものが、検察の権力に対する何らかの抑制システムが必要であることを示している。そして、そういう意味での検察の捜査権限や公訴権の行使に対する唯一の民主的コントロールの手段となり得るのが、現行法上、法務大臣の指揮権なのである。
~中略~
 この「法務大臣の権限」は、行政庁としての法務省の権限をその意思決定者たる長の権限として規定しているだけで、一般の行政庁において「…大臣は」と法文に書かれているのと何ら変わらない。ところが、造船疑獄での指揮権発動についての誤謬や、検事中心の法務省の組織が検察庁と一体化していることなどから、法務大臣の指揮権について、「法務・検察」の判断から切り離された政治的意図に基づく権限行使という側面が強調されてしまった。それが、検察庁法14条但し書に対する誤ったイメージを定着させてしまう原因になった。だが、「検察の正義」が相対化され、不起訴という権限の消極面に対するチェックだけでなく、不当な捜査・起訴に対するチェックシステムも真剣に検討することが必要となっている現状においては、検察庁法第14条の指揮権は避けては通れない問題である。
 もちろん、法務大臣が、通常、与党側の政治家であることからすると、検察が、時の与党政権内の政治家に対する捜査を行うときに、その不当な妨害のために指揮権が発動される危険性があることは否定できない。
 しかし、造船疑獄のときがそうであったように、法務大臣の指揮権発動は、ただちに公表され、それが検察捜査への不当な政治介入だとして世論の強い批判を浴びることになり、かえって、それを行使した方に政治的ダメージを与えることになる可能性が高い。むしろ、これまで特捜検察の政界捜査のたびにマスコミが批判してきた「法務官僚による検察捜査への不当な圧力」が非公式に水面下で行われる(これも、実は、検察庁法14条但し書の法務大臣の指揮権を背景としている)より、法務省の組織としての検討に基づき、最終的には法務大臣の指揮という形で透明性をもって行われることで、国民の監視、批判に委ねることにした方が、はるかに弊害が少ないと言えよう。
 しかし、幹部と実務の中心となる法務官僚のほとんどを検事が占める法務省が事実上検察と一体化している現状では、法務大臣の指揮権を法務省が組織的にバックアップしたとしても、その判断自体が、法務・検察の「独善」に陥る可能性は排除できない。さりとて、政治家である法務大臣個人の判断に委ねるのも、同じ独善の危険がある。そこで、検討する必要があるのが、法務大臣の指揮権の行使について、何らかの民主的な意見の反映または専門的見地からの検証を行うシステムの構築である。法務省の事前検討に基づいて高度の守秘義務を負う諮問機関が出した結論を尊重して、最終的には、法務大臣自身が指揮権について判断するという枠組みが考えられるのではなかろうか。
「検察の正義」p.160~p.163より

 
造船疑獄によって確立された「検察の正義」の不可侵化を維持させているのが、
 ○法務省と検察庁は事実上一体化の組織
 ○検察とマスコミの共謀(情報リーク→世論操作)
という組織内外における監視圧力を排除する体制である。
 
特権官僚の暴走を止めるシステムがない
死に物狂いの世論操作
 
このように無圧力下で、ひたすら「正義の検察VS悪党」という構図を作りあげて、その構図に合致するように裁量権を振りかざしてきたのである。
※ロッキード事件はその典型
【参考】
ロッキード事件(ウィキペディアより)
 
このまま放置していては、検察の自浄作用はもちろん、検察からのリークを当てにしているマスコミがまっとうな圧力を形成することは過去の歴史事実から見ても限りなく可能性は薄い。
 
まっとうな秩序を構築していくためには、不可侵化された「検察の正義」の中身に対して、庶民から徹底して「なんで?」を投げかけて、監視圧力を形成することが急務と言えるだろう。
 
 
応援よろしくお願いします。
 
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written by G線上のアリア

List    投稿者 lived104 | 2010-01-02 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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