2008年11月04日

日本支配の構造14 皇室財産

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「日本支配の構造」シリーズでは、明治維新から敗戦までの日本の支配構造=明治政府の対外進出、阿片戦略、日欧金貸しの検証などを行なってきましたが、その過程で必ず囁かれる「天皇家の蓄財」について調べましたので報告します。

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鈴木正幸著 「皇室制度」岩波新書より引用します。

皇室財産を設定しようとする動きは1876年(明治9年)に宮内省費と皇室費の分離を決定した頃から、木戸孝允によって検討され始めた。又、自由民権運動が隆盛に向かった78年には、民権運動に対抗して皇室の基礎を固めるため、皇室財産論が登場する。

しかしながら、政府において皇室財産設定が急務中の急務とされるようになったのは、やはり明治14年政変後であった。政変直後の81年11月から翌年にかけて、政府要人の建言が相次ぐ・井上毅(参議)・伊藤博文(参議)・山田顕義(内務卿)・西郷従道(農商務卿)、山県有朋(参議兼参事院議長)、そして参事院(政府内の法律規則審議機関)の議官で地方の実情を調査していた福羽美静・安場保和らであった。

彼らの上げる皇室財産をを必要とする理由を整理すると、次のようになる。第一に、地租改正で人民に土地私有権を与えた以上、皇室も私有地を持つべきであること。第二に、立憲政体に移る前提として、皇室私有財産と国家財産と区別すべきであること。第三に、皇室が社会においてその権威を確立するために、皇室が慈善恩賞、学術文化育成に力を注ぐ必要があり、そのためには皇室財産が必要であること。しかし、最大の理由は、皇室が独自の財産を持たないと、国会が開かれた場合、国会や政府が皇室費を左右したりして皇室が立法行政機関から超然としていられなくなることへの警戒であった。

 
一方Wikipedia「皇室財産」では、

大日本帝国憲法下での皇室財産;大日本帝国憲法下で皇室財産は御料あるいは御料地と呼ばれ、帝国議会の統制外にあった。御料そのものは憲法制定以前から存在し、明治維新後に木戸孝允・徳大寺実則・元田永孚らによってその充実を求める意見書が出されていたが、大部分の御料の形成は憲法制定に深いかかわりがあった。日本における国会開設と憲法制定は、自由民権運動への譲歩という側面を持ち、そこでは国家予算が国会の承認を要することになった。これを嫌った岩倉具視は、国会開設前に国有財産の相当部分を皇室財産に移し、国会から遮断することを考えた。そこで、1898年(明治22年)頃にそれまでの官有林(国有林)は大部分が御料林にされ、他の形でも国の財産が皇室財産に大規模に転換された。また、1884年に大蔵卿松方正義の建議によって日本銀行・横浜正金銀行、続いて1887年には日本郵船の政府保有株式を次々と皇室に献上されている。

皇室財産の管理については法律ではなく皇室令という法形式をとる皇室財産令が規定した。御料は世伝御料と普通御料に分かれ、世伝御料はその名の通り代々受け継がれるべきもので、(旧)皇室典範第45条により分割譲与を禁じられた。

 
とのことです。
 
どうやら明治政府が貨幣制度や銀行制度を整備していく過程で生じた政府所有の有価証券などの取扱を、国会(帝国議会の統制下)に置くのか、その外(皇室財産)とするのかの葛藤が明治政府内であったようです。
 
このころの政府内の対立は、

木戸を頂点に担ぐことでかろうじて統合されていた薩長土肥の明治政府は、開明派と守旧派、漸進派と急進派という二重のねじれた権力闘争の結果、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・井上馨・山縣有朋・黒田清隆・松方正義たちに代表される、開明的で漸進的な、第二の薩長同盟の如き薩長政府と、土肥の板垣退助・大隈重信たちに代表される、薩長政府から政権を奪取せんとする権力闘争的で急進的で開明的な民権活動家グループ(のちの政党活動家グループ)へと分離していく。

Wikipedia 木戸孝允
 
  
 ここでいう「民権活動」とは、政府の中心に座る薩長に対立する土肥勢力による「自由民権運動」です。自由民権運動は、薩長vs土肥の権力闘争に利用されてもいたのです。民権活動側は国会(帝国議会)開設を建言しますが、帝国議会に管理されることを嫌った薩長勢力が、政府資産を「皇室」に避難させたのが実体のようです。
そもそも、倒幕~明治新政府とは、西洋金貸しの支援をうけた薩長反幕勢力によるクーデターであり、その後ろ盾となったのは幕府との二重統治に甘んじていた朝廷=皇室勢力でした。徳川家は大政奉還して政治から去り、明治天皇の王政復古の大号令で薩長勢力を中心とした明治新政府が誕生します。明治の政府要人は下級藩士の出であるものも多く、何らの正統性を持たないゆえに公家である岩倉を通じて天皇と結びつき天皇を擁する政治体制を構築しました。その実情は新政府と皇室は政体として一体であることを容易に想像させます。
更に薩長を中心とする明治政府の中心勢力は欧米主義を強め、天皇ですら欧米の立憲君主制を踏襲するかのような動きを見せていました。
先の「皇室財産」より再び引用します。

井上のしらす型統治論は、明治憲法発布の直後に行なった講演「古言」のなかで、もっとも体系的に展開された。井上は言う(大意)。
 
“国を手に入れ統治することを中国では国を有(も)つと言い、ヨーロッパでは「オッキューパイド」すなわち奪い占領すると言った。これらはいずれも国土国民を私有財産に見立てて所有する意味であった。ところが日本では、皇祖神が大国主神(おおくにぬしのみこと)に対して、お前が「うしはぐ」ところの土地人民は自分の子孫の「しらす」ところのものであったと古事記に書いてある。(略)「しらす」とは、土地人民を所有して支配する型とは正反対で、純粋に公的な統治である。(略)”

 

この「しらす」型統治論によって、天皇統治の正統性を証明する仕方は、井上が草案を書き、伊藤博文が訂正加筆して出来た公認の憲法解釈書「憲法義解」に採用された。
 
(略)
 
しかし、「しらす」型統治論による天皇統治の正当性の証明は、天皇と皇室が純粋に公的存在であることを前提としていたから、現実には井上の構想とは反する進行をたどる。
 
 まず、井上の反対にもかかわらず、1885年(明治18年)に宮内省に御料局が設置された。その前後から政府所有の有価証券(日本銀行・横浜正金銀行・日本郵船などの株券)が皇室財産に移され、その結果、皇室の「御資財本」は1873年度末には約193万円だったのが1889年には975万円にまで増加した。

御資部は預金、公債や社債・株券などの有価証券の運用をはかるところで、その資産額は1890年度には1300万円にも及び、五年後には2100万円以上になっていた。そして日清戦争で日本が得た清国賠償金3億円のうち約2100万円が整理公債の編入というかたちをとって皇室経済に編入され、御資部の資産(財本)額は一躍倍化、1907年度には1億円を突破していた。このうちの多くは株式・社債であり、1890年度には約860万円で御資部資産全体の66%、1895年度には約1450万円で全体の69%を占めていた。1899年度の全国102社の5000株以上の大株主98名が所有する株式総数の約11%、約23万株を皇室が所有しており、これは日本最大のブルジョワジーである三菱財閥の岩崎家の約19万株を超えていた。こうした所有株式は銀行・船舶・鉄道に集中しており、皇室は日本銀行・横浜正金銀行・日本郵船の筆頭株主であった。(中村政則「階級構成」、大石嘉一郎編「日本の産業革命」)。

 
第2次大戦終結後にこの皇室財産が問題視されます。再び「皇室財産」より引用します。

政府とGHQの間で憲法改正案が検討されている1946年8月5日、GHQのケーディス大佐(民生局次長)は、法制局長官らを呼び『我々としては、皇室財産の問題は、主権の所在の問題とともに新憲法の最も重要なる点と認めてい』ると語った。(外務省資料『秘/衆議院憲法小委員会の憲法草案仮修正案に関し、ケーディス大佐等と会談の件〔第1回〕』)
 
(略)
 
これに対して衆議院では世襲財産収入は皇室に帰属すべきだとという修正案が出されたがGHQの同意を得られず、結局次のように修正して可決する。
すべて皇室財産は国に属する。すべて皇室の費用は、予算を計上して国会の議決を得なければならない。

  
では当時、皇室財産の内容はどうであったか。GHQからの指令に基づき宮内省は皇室財産を報告し、GHQは1945年10月皇室財産を公表した。
  

この皇室財産の国有化は、1946年10月に成立した財産税を翌年3月に皇室財産に適用するという形で行なわれた。インフレの進行に伴い。財産申告時には評価額が約37億円となっていたが、その9割にあたる約33億円が税額となり、納税は現物納という形で行なわれて国有財産とされたのである。

 
明治政府の権力闘争により皇室に避難して誕生した皇室財産が、実際にどの程度の額を有し、何に使われたのかは定かでは有りません。皇室財産が登場した明治18年に内閣が発足、これに先立つ明治14年には民権活動に妥協して明治天皇は詔勅=国会開設の詔を発し、その通り10年後の明治23年には帝国議会が開設されます。
 
日本はその後、日清、日露戦争、太平洋戦争へと続く欧米列強との植民地闘争に突入していきます。そこでは多額の資金を必要としたでしょうし、こうした対外進出を進めてきたのは長州勢である明治政府自身です。
 
皇室財産が議会の統制を外れて何に活用されたのか?阿片などにも手を染める対外政策の工作資金と化すことも、充分に可能性のあることだろうと思います。

List    投稿者 saito | 2008-11-04 | Posted in 04.日本の政治構造1 Comment » 

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コメント1件

 austria hermes bags | 2014.02.03 7:07

hermes usa mouthpiece 日本を守るのに右も左もない | 政府紙幣は、内需主導型社会へ転換するための突破口