2012年11月28日

天皇制国家の源流10 百済発の応神勢力と手を組んだ葛城勢力

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つぬが君(画像はこちらからお借りしました) 
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ツノガアラシト(画像はこちらからお借りしました)
前回【天皇制国家の源流9 高句麗や新羅に対抗する百済・加耶連合が大和朝廷を支配した】の論点は以下の通りです。

広開土王の時代の朝鮮半島は、高句麗・新羅連合VS百済・加耶連合の争いだったことです。
この百済・加耶の連合という構造は、そのまま日本列島に持ち込まれ、大和朝廷の支配階級を形成した。つまり、応神以降の大和朝廷は、百済・加耶勢力の連合だったのではないかという仮説を提起した。
朝鮮半島で高句麗or新羅が百済・加耶を滅ぼすと同時に、百済・加耶勢力が日本列島に逃れてきて、その度に大和朝廷の支配者が交代している。

4世紀末 高句麗広開土王の南侵 ⇒応神(百済)+葛城(加耶?) 
5世紀  高句麗が北百済を滅ぼす⇒継体(百済)+大伴(加耶?)
6世紀  新羅が伽耶を滅ぼす  ⇒欽明(加耶)+蘇我(百済) 実は蘇我が大王
7世紀  新羅が南百済を滅ぼす ⇒天智(百済)+藤原(加耶)

 
つまり、朝鮮半島において高句麗・新羅と対抗すべく百済・加耶連合が形成されましたが、日本においても百済・加耶連合が大和朝廷を支配したのではないか。

今回記事では「4世紀末 高句麗広開土王の南侵 ⇒応神(百済)+葛城(加耶?)」の検証を行います。
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『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)第七章「応神の謎解き」を要約します。

●南百済の応神勢力は、大和の加耶(崇神)とは別の加耶勢力と連合した
謎の多い応神、継体と深い因縁がある敦賀は、日本海に面し、潮流と地理的関係で古来以来、韓半島と頻繁に行き来があったところです。韓半島の南海岸または東海岸に浮かべた船は出雲地域の島根半島に引っかからなかったら、敦賀に近い能登半島に着きやすい地形なのです。
敦賀一帯は、韓半島に因縁のある古墳、神社が多いことでも良く知られています。また敦賀は低い山をひと越えすれば湖(琵琶湖)、そして川(宇治川・木津川)を利用し、奈良(大和)へもたやすくつながります。
とくに加耶と深い因縁のある崇神時代に、額に角のあるひとがそこへ着いたという伝承があり、角鹿の音を取り、敦賀と名付けたといわれています。彼は、「大加耶の王子で、名前がツヌガアラシトという」とされ、気比神社の摂末社の神様になりました。
このことは、崇神勢力はこの地域まで力が及ばず、独立的な豪族に支配されていて、畿内のものとは違う別の加耶勢力があったことを示唆しています。要するに気比神社の神様(豪族勢力)を中心にした独立勢力が綿々と続いていたのです。
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気比神社(画像はこちらからお借りしました)
そして、『古事記』では、応神が敦賀気比の加耶勢力と連合したことを暗示する話がある。
武内宿禰と応神王子は敦賀の気比神宮に禊に行った。気比神宮の神が現れ、応神と互いの名を交換しようと言うので、応神は受け入れ、互いの名を交換し、応神はその後ホムタを名乗る。神は、名を交換したお礼に贈り物をしたい、明日の朝浜辺に準備しておくと言った。翌朝、浜辺には数多くの鼻の欠けた海豚が砂浜に横たわっていた。
鼻の欠けた海豚とは崇神王朝を倒すことを意味しており、気比の神が名を変えたお礼に海豚の贈り物をしたとは、応神勢力が前王朝を倒すのを気比勢力(崇神とは別の敦賀の加耶勢力)が助けたことを意味する。
このように、加耶発の崇神王朝を倒したのが、百済発の応神王朝である。
実際、ここで大王の呼び名が変わっている。
応神以前の崇神王朝では大王の尊称は「すめろぎ」だった。“すめろぎ”は加耶の王子の名、ウシキと同じ。
ところが、応神以降は百済語の大君「おおきみ」と呼ばれるようになる。
ちょうど“奈良”と“国”のように、同じ意味を持つそれぞれ別の系統の言葉が共存していると同じ。このおおきみが登場した時期に皇太子“おおえ(大兄)”の名称も一緒に登場した.。
この呼び名の変化も、加耶(崇神)王朝から百済(応神)王朝への交替を裏づけている。
ちなみに、天皇という呼称を使うようになったのは天武天皇以降である。

日本列島に逃げ延びてきた加耶勢力は一枚岩ではなく、大和に侵出した崇神勢力以外にも、各地に加耶から脱出してきた勢力が割拠していた。
百済から脱出してきた応神勢力が、崇神勢力を打倒するために、各地の加耶勢力と手を組んだのである。その一つが敦賀の気比勢力である。
応神勢力が手を組んだ勢力は気比勢力だけではない。最強の組み手が葛城勢力である。

『るいネット』『高句麗が百済を滅ぼすと、百済のバックアップであったヤマト王朝は衰退し、伽耶系の王朝が登場する』から転載します。

●葛城氏というパートナー
葛城の勢力の出現を四世紀中葉以後とした場合、それは、ヤマト王権と百済・新羅など朝鮮半島との外交が本格化した時期であることを重視すべきと考える。丁度、高句麗に好太王が登場した時期である。つまり、一般に葛城氏とよばれる勢力は、高句麗好太王に対抗するヤマト王権の外交担当として登場したのである。その際、留意すべき点として二点ある。
第一は、ヤマト王権との関係で、この地の最初期の新山古墳から三角縁神獣鏡や直弧文鏡を含む三四面もの鏡が出土し、同じく佐昧田宝塚古墳からも三六面もの鏡が出土している。これは鏡の全国的な分布から見ても、ヤマト王権から分与されたと考えてよい。とすれば、葛城の勢力は、その出発点において、王権から特別の配慮を得ていたとになる。
第二は、この葛城の勢力が外交で活躍できた理由は、協力者として紀伊と宗像の二つの勢力を考えられる。葛城の地は、森峠を越えて南に向かうとすぐに紀ノ川がある。この川は水道に適し、多くの物資を運ぶことができる。その下流を支配したのが紀氏勢力である。紀ノ川下流域とその北側の大阪南部の淡輪地区を支配し、讃岐・伊予・周防など瀬戸内海の南岸航路に多くの同族をもち、北岸は吉備の勢力が強かった。
葛城氏はこの紀氏と結び、遠く朝鮮へと進出し、ヤマト王権の期待に応えようとした。また、朝鮮海峡を越える航路も問題だった。メインルートというべき対馬・壱岐・博多湾は筑紫君の勢力が支配していたのである。
しかし、北九州には沖ノ島を有する宗像の勢力があった。これを味方につけ、朝鮮を目指したのである。
結局、完成したヤマト王権の構造は、東日本との関係で、本拠地は趣向に置いた。ただし、王権の拡大とともに、東へ向かう道は多様になるから、その道筋ごとに担当の豪族が出現することになった。また、ヤマト王権から東へ派遣された人物は、支配者のごとく行動し、そのとき名乗った名前が「オオピコ(大彦)」だったのではないかと思う。
一方、王権のもう二つの柱である外交を担当したのが葛城・紀氏である。彼らは、王権の権威を背景に、宗像氏の協力を得て、朝鮮・大陸まで進出したが、そのとき名乗ったのが「ソツヒコ(襲津彦)」だった。この場合、ソツヒコのソは朝鮮語の金で、黄金の男の意味だったのではないか。ヤマト王権は、オオピコとソツヒコの名において全国を支配しようとしたのである。
●ヤマト王権の発展と崩壊
葛城氏というパートナーを得たヤマト王権は、順調に発展した。
その契機は、四世紀末頃から朝鮮半島が激動期に入り、高句麗の好太王(在位三九一~四一二)が即位するや南の百済と新羅を激しく攻め、その結果、百済・新羅、とくに百済が、軍事援助を求め倭国との交流を求めてきた。
百済の阿辛王の時代、太子腆子が人質として渡来したが、このとき楽浪漢人を含む多くの技術者や学者を伴ったようであり、彼らの子孫が東漠氏や西文氏、又は秦氏となり、その後の日本文化の最大の担い手とる。ヤマト王権は、好太王の活躍のお陰で多くの技術を手に入れた。史実か否かは離しいが、葛城襲津彦の華々しい活躍はこの時代のことであった。この時期にヤマト王権は名実ともに日本列島の盟主となった。
しかし、好太王が没すると、ヤマト王権の出番はなくなる。日本の援助を必要としなくなった百済は親密さを失い、新羅はむしろ敵対的となった。
そこで、五世紀の中、ヤマト王権は高度な文化と権威を求めて、中国南朝(宋朝)に朝貢する。倭王の朝貢は、四ニー年から四七八年に一〇回ほど行われた。これにより、南朝の権威を背景にしたヤマト王権の最盛期が現出した。
ヤマト王権が中国南朝の権威に頼っている間に、国内外の政治・社会状況は大きく変わろうとしていた。その間の変化につき、以下、三つの側面から述べる。
第一は、朝鮮半島との交流についてである。
冷却化したように見えるが、実は、その間も、五世紀中以後、ヤマト王権と朝鮮半島との関係は朝鮮半島の情勢は流動的であった。高句麗の南下は止まっても、半島南部は東西に百済と新羅が対峙し、その間には数十の小国からなる伽耶とよばれる地域があり、彼らの関係は安定していなかった。
そういう朝鮮半島に向けて、筑紫・吉備などの西日本勢力、本来はヤマト王権を構成していたはずの葛城・紀伊などは、ヤマト王権の意向とは関係なく、活躍の場を求めて進出する。特に、伽耶地域に対する進出は顕著で、朝鮮半島から大量の技術がもたらされ、多くの渡来人が移住するようになった。
本来、外交を掌握し、西文化を独占することがヤマト王権の権力の源泉であったはずが、事実上解体し王権の基盤は失われつつあった。
第二に、朝鮮半島から西日本にもたらされた先進技術は、この頃日本列島の東西の諸勢力の間に、ヤマト王権を介さない交流が生じていた。これらの地域間の密接な交流を示すものであった。西日本に入ってきた技術は直ぐに東日本に伝えられるようになった。日本列島の壁の効力が薄れ始め、王権の基盤は解体しつつあったのである。
その時、決定的な事態が生じた。四七五年、それまで疎遠だったヤマト王権の南朝朝貢を保障していた百済が、突然、高句麗の大軍に襲われ、もろくも王都漠城が陥落し、国王以下が滅ぼされてしまった。百済王家は、数年後に南方の熊津を新たな都として再建されたが、弱体化は明らかであった。その直後、倭王武が最後の朝貢をした四七八年の翌年、朝貢の相手の宋朝も滅亡する。ここに、ヤマト王権の朝貢外交は事実上崩壊したことになる。
ヤマト王権が期待したのは中国南朝の権威であったから、それが消滅し、王権の存続も困難になる。事実、倭の五王の最後の武=ワカタケル=雄略を最後に、大王という存在そのものが消滅に向かっている。『日本書紀』では、清寧・顕宗・仁賢・武烈の即位を記しているが、大王としての実質は無に近いからである。そして、しばらく王権の空白ののち、新しい王朝が出現する。それが、継体新王朝であった。

このように、葛城とヤマト王権が手を結んだ。
葛城は高句麗の広開土王(好太王)に対抗するヤマト王権の外交担当であり、紀氏・宗像氏の協力を得て、高句麗と対立した百済・新羅を支援し、葛城の外交力によって、ヤマト王権はその地位を築いた、という説である。

また、葛城は、加耶からの鉄資源入手ルートを握っていたらしい。
以下、『るいネット』『河内王朝を支えた葛城氏の力』から転載します。

葛城氏は、「加羅(伽耶)連邦を構成する一国の王族である。日本列島のヤマト朝廷の重「臣」でありながら、朝鮮半島内の一国の王族でもあるという二重性格をもった氏族」であった、といわれており、加羅の鉄資源を手に入れることは難しくなかったと思われます。
他の朝鮮系人に比べて、早い段階(2世紀 倭国大乱時?)で日本にやってきた葛城氏は、巨大古墳に象徴される5世紀の河内王朝を、その財力でもって強力にバックアップし、以降の蘇我氏や藤原氏のさきがけとなるヤマトの実質的支配者として、君臨していたと考えられます。
巨大な王陵が河内地域(大阪府南部)の古市や百舌鳥の地に集中して造営されたことは、外交上の必要性もあって河内が時の王権の重要な権力基盤だったことを物語るが、このことから「河内王朝」と称された。また、この時代に畿内以西の水運網を掌握して外交を主導し、執政官として強大な権勢を誇ったのが、大和葛城を拠地とする「葛城氏」であった。
葛城氏の祖といわれる葛城襲津彦(そつびこ)の娘は、仁徳天皇の后となり、履中、反正、允恭の3天皇をもうけた。また、允恭天皇の子、雄略天皇の代は5世紀後半にあてがわれるが、大和王権が専制化する政治上の画期であるといわれる。
当時のわが国は百済と盟友関係にあったが、475年から翌年にかけて、高句麗に攻められた百済は一時的に滅亡し、都を漢城(広州)から熊津(公州)に遷すことでようやく再興することができた。これは大和王権の外交戦略にも大きな痛手であったと見られるが、「倭の五王」の中国南朝への遣使が、倭王武(雄略天皇)の478年をもって途絶し、これらと相前後して葛城氏も衰亡したとみられる。
王家の姻族かつ執政官として権勢を誇った葛城氏の権力基盤は畿内以西の水運網と外交権の掌握にあったが、その衰亡はこうした外交情勢の転換に連関する可能性が高い。

葛城といえば、5世紀に応神王朝下で権勢を誇った葛城襲津彦が有名だが、葛城は日本に突如現れた(応神と一緒に朝鮮半島から日本に渡って来た)わけではなく、それ以前から日本列島で勢力を誇っていた。
その出自や力の基盤は何か?
それは次回、追求します。お楽しみに♪

List    投稿者 yoshi23 | 2012-11-28 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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