2012年08月28日

天皇制国家の源流1 日本では仏教は部族連合共通の守護神信仰(呪術)として導入された

江戸時代の思想【まとめ4】 日本の支配体制は天皇制と律令制度or近代制度の接ぎ木?において
 
古代の律令国家も近代の明治国家も、天皇制と律令制度や近代制度の接ぎ木されている。この天皇制と輸入制度の接ぎ木が、日本の支配体制の基本構造ではないか?
 
という視点を提起しました。今回この構造を解明するために、天皇制国家の源流とその統合観念についてまとめていきます。
まずは、7世紀末に天皇制観念が確立する前の支配観念がどうだったのかを見ていきます。
 
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写真は日本最古の仏像 画像はコチラからお借りしました。
 
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『概説 日本思想史』(佐藤弘夫他 ミネルヴァ書房)より引用します。
 
 

○倭国の「文明開化」
 
自然物・自然現象崇拝は日本列島において最も古くから見られる信仰であり、「倭人」社会においても一般的信仰であった。そしてそれは今日まで日本宗教の底流たり続けている。ただこの信仰は、もともと生活圏にある自然物や現象を崇拝対象として成立している。崇拝対象を具体的に認知している地域以外には、流布する性格のものではなかった。豪族層においては、加えて祖先祭祀を核とする氏族神信仰が形成されていくが、これも各氏族大王家の祭祀が、支配下においた氏族の祭祀に包摂して肥大化する現象は見られるようになる。だがそれが地域的・氏族祭祀総体を緩やかに維持・管理する存在であっての生活圏を越えて流布するものではなかった。大和朝廷が広域支配勢力となるにつれて、大王祭祀は倭国の統一祭祀ではなかった。外来宗教の流入が顕著になる以前の倭国は、豪族層では大王祭祀を含め個々の氏族祭祀と地域の自然物・自然現象崇拝が、民衆においては地縁・血縁共同体の自然物・自然現象崇拝が、まばらなモザイク状に分布していたのである。
 
5世紀から7世紀にかけて様々な宗教・思想・制度が流入する。倭国の「文明開化」の始まりであった。それら大陸文化は先進的な魅力にあふれていたばかりでなく、受容者の資格を問わない普遍性を持っていた。そのため速やかに支配者層に流布しつつ、在来の思想・信仰の枠組みにも大きな影響を与えていく。すなわち氏族・地域を超えた「日本」ないし「日本人」という新たな枠組みをもたらして、「日本思想」の形成を促すのである。
 この「日本思想」の黎明期において、担い手たる中央豪族の文化水準は飛躍的に向上した。約200年の間に中央豪族社会は、中国文人と対等に交流しうる「日本」知識人を生み出すほどに「開化」するのである。だが一方で民衆の「開化」は極めて遅く、わずかながらもその影響が現れ始めるのは奈良時代のことになる。倭国の「文明開化」はそれまで比較的近接していた支配者層と民衆との文化的・思想的距離を一気に拡大する役割も果たしたのである。

 
日本思想の黎明期は、朝鮮から来た支配層の守護神信仰(各氏族の祭祀)と民(縄文人)の精霊信仰が並存していました。
 
部族同士が接触し連合し、部族連合の長として大王が立つようになり、さらに接触が続き大きな国となります。それが大和朝廷です。
 
大和朝廷が大きくなる部族連合を統合していく上で、各氏族の守護神信仰では統合できません。
より普遍性の高い統合観念が必要になってきます。
そこで、支配層は出身地(故地)である中国・朝鮮半島から統合観念として宗教・思想・制度を輸入し始めます。
 
では、輸入した思想・制度はなんだったのか?つづきを引用します。
 
 

○外来思想の影響
 
この「文明開化」の思想面において、主導的役割を果たしたのは仏教である。
 仏教に先んじて,5世紀には儒教が伝来していた。だが元来治世の規範思想である儒教は、古代においては、中央豪族や官人の政治思想における教養的規範以外に影響範囲が広がることはなかった。その受容は、儒者や経典によらない間接的・断片的摂取に多くを負うなど、体系的でも組織的でもなかった。このため流布した領域はきわめて限られており、倭人の間に広く浸透するには至らなかったのである。
 
また卑弥呼の「鬼道」は措くとしても、各地で発掘されている三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)や道教的呪術文様から窺われるように、道教も4世紀には流入していた。6世紀には百済からの仏教供給に随伴して「呪禁師(じゅごんし)」「遁甲方術(とんこうほうじゅつ)」がもたらされ、さらに斉明朝から天武朝にかけてはその呪力に大きな期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。付随する神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに止まらない浸透を見る一方、民衆社会にも流布しており、「日本書紀」「風土記」「万葉集」に見える浦島子伝説、羽衣伝説等々の神仙伝説にその痕跡を残している。だがそれらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には射至らなかった。断片的な知識や俗信仰の受容に止まったのである。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく。残ったのは、様々な領域で形成されていく古代日本思想の部分要素としての道教「的」断片だったのである。
 それに比して仏教は、まずは呪術として受容されたものの、そこに経典・僧侶・寺院といった核となるセットの移植を伴っていた。道教においては見られなかった、思想の体系的理解も模索されていった。その結果一定水準の理解に達するのに200年を要したものの、日本における仏教は、拡散した知識や呪術の断片にはとどまらず、体系的思想の周囲に独自の呪術・施設・装置、さらにはそれに随伴する様々な現象を随伴した「日本仏教」に成長する。完結した宗教としての姿を保ちつつ、他とは比較にならない影響力と射程を以って「日本思想」を形成していったのである。
 
○仏教公伝
 6世紀に国家仏教の最盛期を迎えていた百済は、高句麗・新羅から軍事的圧力を受けて倭国との関係を強化しようとしていた。ここに538年(欽明7)、聖王は仏数を通じて倭国と親密な関係を構築すべく、仏像・荘厳具・経典を欽明大王に送った。
 
倭国の豪族達は、まず仏を「蕃神(となりぐにのかみ)」と理解した。正しい修行によって人間が到達する理想人格たる仏は、人間ならざる在来神とは本来異質の崇拝対象である。だが彼らは、これを在来神と同列の、祈って供物を捧げれば大きな利益をもたらしてくれる「蕃神」として理解したのである。
 
日本人の多くはもっぱらこの大きな御利益を期待して仏にも神にも同質の信仰を捧げ続けてきたのである。
 
僧尼に期待されたのも、求道者というよりは「蕃神」に仕える巫者(ふしゃ)の役割であった。こうした状況は、遣隋使等によって中国仏教の情報が直接伝わった推古朝末年でも容易に改まらなかった。
 
 
 こうした「蕃神」信仰として倭人の前に登場した仏教だが、在来神と同質の神と解されたがゆえに、受容については朝廷で一部氏族の反対を惹起することとなった。在来「国神」の嫉妬を買って祟りが起こるというわけである。反対が出たのは当然である。
 
豪族達の維持・繁栄は、旧来各氏族の「国神」を祭りその意を迎えることによって保証されるとみなされてきたからである。大王家をはじめ現に有力な地位を占めている氏族の多くにおいては、「蕃神」を積極的に受容する理由は、公伝時点では存在しなかったのである。ただ、蘇我氏にはあえて「蕃神」祭祀導入を推し進める理由があった。百済外交を主導する蘇我氏は、協力な呪力を持つこの「蕃神」祭祀について、他氏をはるかにリードできるからである。こうした状況下で欽明大王が出した結論は、受容に賛成した蘇我氏等に試験的に奉祀せしめる、つまりは状況を見守るというものだった。したがってこの後「蕃神」祭祀が公認を得るには、在来祭祀を凌駕する呪力や有用性を示すことが必要だったのである。そして仏教は、そうした宗教であった。

 
日本において最初の統合観念として受け入れられたのは仏教でした。
仏教伝来に先んじて、4世紀には道教、5世紀には儒教が伝来していましたが、庶民においては全く受容されず、支配層においても断片的受容に止まり、統合観念にはならなかったようです。
※道教や儒教が支配層にも広まらなかったことは別途追求が必要です。
注目されるのは、仏教がまず呪術として受容されたことです。
元々の人類集団では祭祀長が部族長だったのですが、闘争圧力が上昇したことにより、戦闘隊長が部族長に昇格し、その下or横並びに祭祀長(シャーマン)が控えるという形に逆転しました。
原始時代~採集生産時代は自然圧力に適応することが集団の成員の期待であって、それに応えるために長には祭祀能力が求められました。
同類闘争圧力が高まり戦争が始まると、防衛や闘争勝利が大衆の期待となり、それに応えて武装勢力の長がリーダーに変わったのです。
 
しかし、日本では、朝鮮から来た支配階級にとって、縄文人は信じられないくらい素直で従順であり、ほとんど戦争をすることなく、支配体制が受け入れられていきました。世界の常識では当たり前の、力の原理に物を言わせて従わせるということが、縄文体質の世界では全く不要だったのです。
 
戦争圧力のない日本では、大和朝廷の時代においても、大王に求められたのは武力ではなく、祭祀でした。かつ、氏族の守護神信仰を越えた普遍性をもつ祭祀が必要だったので、仏教が祭祀・呪術観念として選ばれたのです。
但し、従来の氏族神信仰がなくなったわけではありません。
朝鮮渡来の支配層(豪族)においても、仏教の「仏」はそれまでの守護神と同列の、祈って供物を捧げれば御利益をもたらしてくれる「蕃神(となりぐにの神)」と理解されていました。
つまり、部族連合共通の守護神信仰(仏教)と各氏族固有の守護神(氏神)とが併列していたのです。
従って、僧尼に期待されたのも、求道者ではなく巫者の役割であったようです。
 
このように呪術として受け入れられた仏教がその後どのように浸透していったのでしょうか。
 
  

○仏教祭祀の浸透
 
在来祭祀において祈願されるのは、季節に応じた秩序と豊穣である。その折願内容は総体的であり、具体的・個別的要求に応える多様性には乏しい。一方仏教は在来祭祀同様の総体的祈願に加えて、富裕・治病・怨敵打倒等々の具体的現世利益、さらには倭人には馴染みの薄かった死後の安穏まで、個別の要求にいつでも応える広い間口を持っている。
そして祈願を実現せしめる呪力は、すでに中国・朝鮮諸国で実証済みである。仏像・荘厳具などの麗々しい装備、風変わりな姿の僧侶、神秘的な響きの読経といった視覚的・聴覚的アピールとあいまって、その魅力的な呪力は豪族達を急速に引きつけていった。
『日本書紀』では排仏派の頭目とされた物部氏も、実際には仏教祭祀を行うに至っている。物部氏が蘇我氏と対立したのは王位継承をめぐってであり、仏教に関しては、双方とも速やかに受容していたのである。
 
かくて豪族社会に地歩を占めた仏教は、飛鳥文化と呼ばれる異国風文化を開花させる
 
 
また大王が率先して仏教の管理・主導に乗り出した孝徳・斉明朝においても、「両槻宮(ふたつきのみや)」をはじめ様々な道教施設を建立するなど、緊迫化する国際情勢を背景に、あらゆる呪力動員に奔走している。仏教はその呪力をもって豪族層の帰依を集め、広く流布してはいたものの最有力祭祀以上の位置づけではなかったのである。
 
 一方民衆は、仏教とは全く疎遠な状況にあった。彼らが寺を外から見ることはあっても、仏像に接する機会は稀だったし、仏致の教えを聞く機会などはまず皆無だった。いささかなりとも仏教を学んだ僧尼による布教が現れる7世紀後半までは、民衆は仏教についてほとんど無知な状態に置かれたのである。

 
 

○個人救済信仰はなかった
 
 この時期まで仏教伝来=「蕃神」呪力信仰の主体は個人でも国家でもなく在来祭祀同様の氏族であった。仏教が豪族達に信仰されといっても、主たる祈願内容は氏族レベルの繁栄や安穏であり、豪族個々人の宗教的救済が求められたわけではなかった。
 本来仏教の中核である救済論は、すでに中国で一般信者向けの現世利益の外皮を厚くまとっていた。倭人社会に流布したのも、まずはこの外皮部分だったのである。本来仏教の核をなす涅槃・浄土などの救済材や救済論は、倭人社会においてはあまりに異質であった。漠然とした冥福を祈る等の形では、少しずつ救済信仰も広まりつつあったが 仏教の宗教的救済についての認識が豪族社会に浸透するには、奈良時代も後期まで待たねばならないのである。

 
奈良時代に入っても、庶民にとって仏教はほぼ無縁だったようです。縄文以来共同体→共認充足が残存している庶民にとっては、仏教など不要だったからでしょう。また、仏教をはじめとする輸入された観念や制度は、支配者が支配者をまとめるためのものであり、民を支配するために強制されることもありませんでした。
従って、支配層が受容した仏教にも個人救済信仰はなく、あくまで(より普遍性の高い)、部族連合共通の守護神として信仰されていたのです。
仏教は元々、アーリア人の征服された被征服民の救い期待から登場したものですが、元々の仏教の教義と、日本の支配層に受容された仏教は、そこから大きく変質していたことがわかります。
 
<まとめ>
【1】朝鮮から来た支配者たちはそれぞれの守護神(祖先祭祀や氏族神)を信仰していました。しかし、部族連合が大きくなってくると、より普遍的な統合観念が必要になってきます。
 
【2】また、日本では縄文人の共同体質故に戦争圧力がありませんでした。よって、日本で大王に求められたのは武力よりも祭祀(呪術)でした。
そして、よる普遍性の高い呪術(部族連合共通の守護神信仰)が必要となり、そこで導入されたのが仏教でした。
 
【3】従って仏教の内容も、仏は在来神と同列の、祈って供養を捧げれば御利益をもたらしてくれる「蕃神(となりぐにの神)」として理解されました。
そして、部族連合共通の守護神信仰(仏教)と氏族固有の守護神(氏神)が併存していました。
よって、僧尼に期待されたのも、仏教発祥のインドと違って求道者ではなく巫者としての役割でした。
【4】縄文以来の共同体(共認充足)が残っていた民にとっては仏教など不要で、支配者も大衆支配の道具として仏教を押し付けることがなかったので、民には仏教は全く流布しませんでした。
 
これが、天皇制という統合観念が成立する前段階の日本の観念の状況です。

List    投稿者 MASAMUNE | 2012-08-28 | Posted in 04.日本の政治構造5 Comments » 

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