2008年06月16日

日本支配の構造10 三井合名会社と明治政府

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三井本館
 
 明治政府とともに大陸進出の実業を担った三井物産について、当時の政府の要人との関係がどうであったのか、改めて整理してみました。
 
(本稿は、小林正彬氏「戦間期 三井・住友の多角化」を参考としています。)
 

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1668年 紀州徳川家二代藩主徳川光貞は江戸赤坂邸一部消失、同年紀州旱魃などで、幕府から十万両を借りるとともに三井家からも借入。
・1859年 益田孝(大蔵省造幣権頭→三井物産)は、麻布善福寺のアメリカ公使館に勤務。生きた英語を学び初代米国公使ハリスに接して影響を受けた。
1862年 ヘボン塾(ヘボン博士による英語教室)開校。益田孝、高橋是清が学ぶ。
1863年 益田は遺仏使節父・鷹之助の従者として渡欧。同年 伊藤博文、井上馨は英国へ密航。
1865年 薩摩藩士 森有礼がグラバー商会の船で英密航。
1867年 大政奉還
・益田は明治維新後米ウォルシュ・ホール商会のクラークに。
1872年 益田が井上の勧めで大蔵省入り。
 
益田孝、井上馨が三井家に関係し始めたのはこの頃で、
1873年 井上は渋沢(栄一)、益田とともに大蔵省を辞職。井上は、小野組の破綻を三井に、また自ら大隈、伊藤に注進、三井擁護の必要を説いて廻った。その結果三井は倒産をまぬかれたと言われる。渋沢は、「井上は三井個人の利益のためではなく国家の経済のためと考えた」と井上を弁護している。
1874年 小野組破綻。この頃、ロンドンにいた井上は、中上川彦次郎に出会い彼の能力を評価、帰国後は部下として重用。(中上川は豊後中津藩出身,福沢諭吉の姉の子で慶応義塾出身)
 
1876年 益田孝らが三井家の支援を得て三井物産設立。社主は三井武之助高尚と三井養之助高明。社長は、経営の実権を全面的に委任された益田孝。監査役に三野村利左衛門。
 
1890年 三井銀行に32%強の不良貸出が発覚。
1891年 中上川は井上の要請で三井銀行救済のため三井財閥に入る。
 
(中上川は、三井に入ると三井改革のため三井家仮評議会を設置して主宰。翌年,益田を三井物産社長から降ろし,三井物産を三井家財産に組入れ,三井養之助を社長に据える。次に物産から鉱山を切離し,三池・神岡その他を三井鉱山合資会社として統合,社長に三井三郎助を当てるとともに,益田を副社長とした。)
 
(中上川は、三井銀行に抵当に入っていた桂太郎(長州,当時陸軍中将)の実弟が借金の邸宅や,松方正義(薩摩)の実兄の旧薩摩屋敷跡地を処分,3年間で不良貸出の全部を整理した。これらは井上の不興を買い,次第に支持を失なっていった。また渋沢が第一国立銀行に持っていた株さえ,従来の関係を無視して売り払った。)
 
1892年三井銀行、三井物産は合名会社、三井鉱山は合資会社に改組。
1893年三井組は三井元方と改称し,三井同族会を設置,大元方を廃止。
 
1898年井上は,伊東巳代治,渋沢栄一らとともに三井家憲を作成。
 
このとき三井家総理事中上川彦次郎は家憲にしばられるのを良しとせず、家憲制定をできるだけ引伸ばそうとした。中上川に対する暴露記事が出回り始めた(家憲制定を巡って中上川を追込む三井内部の策動との見方もある)。
 
1901年2月に死んだ福沢諭吉の後を追うように,同年10月,中上川が47歳で病死。
・中上川が三井銀行に入れた慶応出身の人材の多くが去っていった。学歴のない商業主義の益田のせいという説もある。
・三井11 家の位置づけを,株式会社を輩出している明治末期のこの段階でどうするかが,益田孝の最後の仕事となっていた。益田は本家三井三郎助と欧米視察へ、その際ロスチャイルドに接見。5分間の立ち話でロスチャイルドは有限責任を勧める。
 
1909年三井合名会社設立。三井合名社員は三井11家のみ。又三井銀行、三井物産、三井鉱山を株式会社化して、三井合名はこれらの持ち株会社とした。この形式は益田が欧米視察の際に接見したドイツのユダヤ人銀行家マックス・ヴァールブルグによる提案だと言う。
 
※合名会社とは、出資者全員が無限責任社員で、持株制でもあり、株式の譲渡には全員が合意が必要。
※無限責任とは、会社が負った債務を会社財産では弁済しきれなかった場合、社員が自己の個人財産からその債務の弁済をしなければならないことを言う。対して有限責任とは、株主と同じように出資した資本の範囲でしか責任を負わない(=株価が下落して損をこうむるだけで、会社の負債を弁済するものではない)。
 
・三井合名会社に対する中上川の考えは、三井同族の業務参加には信頼を置いておらず,重役会を重視していた。
 
・一方益田は,欧米出張復命書のなかで,「抑々合名会社ナルモノハ,(略)単ニ資本ヲ提供シテ業務ヲ人ニ依托シ,而カモ自ラ無限責任ヲ取ルガ如キ不合理ノ組織ニアラズ,然ルニ三井家ノ組合員中ニハ女子ノ名ヲ列ネタリ,(略)貿易,銀行,鉱山等機敏ニシテ且ツ冒険ナル事業ニ当ラントスルハ,果シテ其名家タルヲ永ク維持スルノ途ヲ得タルモノナルカ,是レ大ニ危マザルヲ得ザル所ナリ云々」
 
・三井合名会社は、重役会規定を削除し、意思決定は社員総会で,業務の執行はここで選任された業務執行社員による。業務執行社員は三井八郎右衞門(社長),八郎次郎,三郎助,高保が就任した。しかし,実務は参事團琢磨,朝吹英二,波多野承五郎,有賀長文,小室三吉の合議制で,のち,三井高棟社長,團理事長の体制に移行する。
 
※徳川に金を貸すほどの位置にあった三井家が、明治以降新政府と歩を合わせて海外進出に躍進していくのは何故なのか。また、三井家、三井合名、三井物産など、実業会社の株式会社化と持ち株会社の合名化は、独銀行家の提案を受け入れた益田によるもので、そうした過程を経て三井の各会社の実験も井上、益田以降明治政府に近い外部の人材が勤めていく。
 
仮説では有るが、明治政府の中心勢力は薩長の下級藩士たちと江戸時代は隠居していたに等しい公家たちである。彼らがイギリス仕込みの様々な工作で大政奉還を成したとしても、その後の政府運営の基盤を全く持っていなかったのは容易に推測できる。銀行制度、台湾出兵の輸送船、台湾の製糖会社、満鉄、これらはすべて三井の実業でも有る。国内政治は、近代国家へ急激に舵を取った結果極めて政治の難しい状況だっただろうと推察する。そうしたなか富国強兵策を敷き、海外進出を企て、その高揚で国内政治をも纏め上げるためには、三井の会社、資産が、政府にとって不可欠のものとなっていたのではなかろうか。

List    投稿者 saito | 2008-06-16 | Posted in 04.日本の政治構造1 Comment » 

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コメント1件

 仕事人 | 2008.10.05 0:57

いつも、色々お世話になってます。勉強になります。結局、大が小を兼ねるんじゃなくて、結果を見れば、どこかで大がより権力を増大するだけですね。
RTCは、日本で言えば近いのはRCCでしょうが、実体経済の崩壊は、いつも大資本が民間の努力で細分化したあらゆる組織を簡潔にしつつ、民を踏みにじって権力を強化するだけのようですね。日本で宗教や歴史を義務教育で深く教えないのは、ある意味、官僚様の作戦なんでしょうね。私は今、騙されて生きてきた感じがしてます。聖徳太子の「和」を世界をかき回している連中に説いてあげたいくらいです。迷惑かけんなって。

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