2012年06月25日

江戸時代の思想【まとめ2】 お上捨象パラダイムの江戸思想は天皇制(尊王論)に収束していった

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「江戸時代の思想」【まとめ2】です。
江戸時代には、イエという経営体(共同体)を母胎して観念追求がなされ、既成思想(仏教・儒教)を否定した、様々な思想が登場しました。
しかし、それは「お上捨象」というパラダイムの中にあったため、お上捨象の産物である天皇制と尊王論に収束していったのです。
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共同体を喪失した中国の科挙官僚の私権観念=儒学が、共同体質の日本に輸入された。
徳のある人物が徳のない大衆を導くべきである。
そして、徳のある人物とは『四書五経』を勉強して科挙試験に合格した官僚である。
これが中国の支配観念となった儒教の中核であり、儒教とは科挙官僚制による支配の正当化観念である。
科挙官僚制は6世紀の隋代に始まるが、長きに亙る戦乱と強制移住の末に共同体(と自主管理)は失われているので、科挙官僚制によって中国を統合するしかなかった。
同時に科挙官僚制は、彼らの出身母体である地主階級の私権獲得(大衆からの収奪)を認めることとセットになっており、その正当化観念になったのが儒学だった。だからこそ地主階級の子弟は必死になって勉強したのである。
問題は、共同体が解体された中国における地主⇒科挙官僚の正当化観念(儒学)が、共同体が残存し共同体質が色濃く残る日本に輸入されたことである。
その結果、どんなことになったのか?
イエという経営体(共同体)を母胎に観念追求がなされた江戸時代
古代宗教も近代思想も現実否定に立脚した観念体系であるが、日本の江戸時代はあくまで現実世界を肯定した上で、仏教や儒教などの輸入思想の方を組み替えていった。
町人や百姓も、それぞれの世俗生活に即した独自の思想を作ってゆくが、根本にあるのは、代々の暖簾を守るとか、先祖伝来の田畑を守るというような職業倫理としてのイエの観念である。
日本のイエとは、経営体・生産体であり、共同体の末裔である。そこで何よりも大事なのは家業が存続し発展することであって、血統は二の次である。これが、父系の血縁の存続を絶対課題とする西洋や中国・朝鮮の父系観念と全く違う点である。
江戸時代の思想は、共同体イエを存続し発展させてゆくという現実の課題意識と直結していた。そのためにも安定した社会秩序(統合)が保たれなければならない。従って、社会を統合する観念の追求が最先端課題となる。
これが江戸時代の思想探求の源泉であり、実際、江戸時代の思想家のほとんどが観念思考の専門家ではなく、生業の傍ら思想を追求していた。
江戸時代の思想家たちは、まず仏教や儒学といった既成観念から学び始めるが、既成観念を次々と全否定してゆく。
仏教を否定し、朱子学→神道と社会統合観念を追求した山崎闇斎
山崎闇斎は社会統合の役に立たない、かつ特権化して庶民から嫌われていた仏教を否定し、より社会統合観念になりそうな朱子学に収束し、最後は庶民が信仰している土着信仰に近い神道に傾斜していった。
これが後の尊王論となり、尊王攘夷論となり、倒幕→明治維新と社会変革を先導するイデオロギーとなってゆく。
京都町衆の中から生まれた伊藤仁斎の思想(朱子学を全否定して現実の人間関係の充足を観念化)
江戸時代の京都の町衆は、イエという経営体(単一集団)の元に商売しているだけではなく、京都という巨大都市を実質的に自主管理し運営していた。従って、町衆による自治組織を統合する観念(思想)が必要になる。
伊藤仁斎が最初、学問(朱子学)を志したのは、町衆自治を統合するための思想を形成するという課題意識だったであろう。彼は、当初は朱子学を学んだものの、その現実からの断絶に気づき、朱子学を全否定する。
朱子学は抽象的な正義や真理を振りかざして人に強いるが、その理想や理屈の背後には、常に自己を正当化する動機が潜んでいる。従って、人間関係の充足を破壊するからである。
そして、朱子学を否定した仁斎は孔子や孟子に遡る。
そして辿りついたのは、孔子や孟子の思想の中核にある「仁」であり、それが人間関係にとって最も重要な心の在り様だと仁斎は説く。つまり、仁斎が獲得したのは、現実の人間関係の充足こそが共認統合の原点であるという認識であり、そのためには肯定視や相手発、充足基調こそが最も重要ということを仁斎は提起したのである。
市場拡大に歯止めをかける制度を構想した荻生徂徠の思想
京都町衆の中から登場した伊藤仁斎は、市場を前提とした上で「共認」の土台となる充足・肯定性といった「心の在り様」を大切にし、それを共認統合⇒社会統合の原点として観念化していった。
それに対して、荻生徂徠は、江戸の市場拡大が人々の共認と秩序を破壊してゆくことに危機意識を抱き、市場拡大に歯止めをかける制度を構想した。
貨幣・商品・市場の力が浸透して、伝統的な人間関係が解体し始めた。
例えば、譜代の関係が、いつのまにか金銭を媒介とした短期の契約関係になっていて、それが気苦労のない快適なものだと意識されている。武士が都市生活者となったから、箸一本でも金で買うことになり、貨幣・商品・市場の力が増長した。また、武士が農村からいなくなったことが農村の治安を悪化させ、武士の統治責任を曖昧にさせている。
この市場拡大による人間関係の崩壊に歯止めをかけるため、荻生徂徠は武士の土着を将軍吉宗に提起する。この武士の農村土着をはじめとして市場拡大に歯止めをかける制度を構想したのが荻生徂徠である。
大衆支配のための既成観念を全的に否定し、新概念を創出しようとした安藤昌益
18世紀の江戸時代中頃、安藤昌益は、農民の側に立って私権制度や既成観念を全的に否定する。儒教の「聖人君子」とは盗人(=略奪闘争の覇者)に他ならず、既成思想は全て(儒教も仏教も)盗人による支配の正当化のイデオロギーであるとして、昌益は徹底的に批判した。
彼は誰もが稲作農耕に従事する無差別平等の社会を「自然の世」、階級社会を「法の世」と捉え、「自然の世」の回復を構想するとともに、文字および儒・仏・神(神儒仏混淆の神道)をはじめ既成の学問・思想全てが階級支配を隠蔽するイデオロギーにすぎないことを指弾する。
そして、昌益は単に既成観念を否定しただけではなく、新概念を創出しようとした。
通用の天(てん)地(ち)の文字に換え、同音でその自然的意味を表す「転(てん)」「定(ち)」の文字を用い、「男女」と書いて「ヒト」と読むことをはじめとして、様々な概念を編み出している。
観念支配こそ大衆支配の中核であり、そこから脱却するためには、全ての旧観念を捨てて、ゼロから新概念を創出しなければならない。そのことを安藤昌益は見抜いていた。そして昌益は、儒教・仏教などの大衆支配のための観念を捨て去り、観念支配を覆せば、自然の世の再生は可能であると説いたのである。
天下の台所大坂の商人たちによる統合観念追求の場=懐徳堂
大坂の商人たちは自分達で学問所や塾を作った。その一つが懐徳堂である。
そこでは数多の商人(経営者)たちが、単に商業を道徳的に位置づけるだけにとどまらず、国家制度や貨幣制度論、思想や地理歴史、さらには宇宙論(地動説や太陽暦の提唱)まで追求した。
その一人、富永仲基は仏教・儒教・神道を全否定し、「誠の道」という現実を直視した思想を提起する。真面目に働いて、よい商品(製品やサービス)を作り、それに正しい利益を乗せて、人々に販売し、世の中の役に立って人々に喜んでいただいて、暮すという、商人や町人の現実に立脚し、それを肯定した思想である。
当時の大坂は「天下の台所」=日本市場全体の要であった。そこで社会全体を対象化していた大坂の商人たちは、家業(経営)の傍らで、社会統合観念を追求していたのである。 
日本人の共同体質(古の道)を追求した本居宣長→尊皇論は縄文体質の肯定
安藤昌益は、聖人の道(仏教や儒教)は簒奪者の正当化のイデオロギーであると喝破したが、それとは異なるアプローチで既成観念の全否定したのが本居宣長である。
宣長は、人間はありのままの素直な真心で生きるべき事を説いた。そのために既成観念である仏教や儒教のフィルターを捨て、『古事記』等を通じて古の人々の心に同化しようとした。そして、カラの教えで汚される前の、日本の神代・上代の人の心の在り様こそが、全人類の模範であることを発見する。
これが本居宣長の国学であり、それは水戸藩をはじめとする尊王論に受け継がれてゆく。
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「本居宣長六十一歳自画自賛像」
●しかし、神国論・尊王論に収束したのは本居宣長だけではない。江戸時代中期・後期の潮流として、神国論・尊王論が基本的に正しいと考えられており、江戸時代の多くの思想家が神国論・尊王論に収束していった。
浅見絅斎や神道家、国学者、水戸学者だけでなく、山鹿素行、伊藤仁斎、伊藤梅宇、西川如見、松宮観山、猪飼敬所、平賀源内等、さまざまな立場の思想家が尊王論を唱えている。
仏教も儒教も(神儒仏混淆の)神道も、さらには老荘思想も法家思想も大衆支配の観念だとして全否定した安藤昌益でさえも、自然神道(神儒仏混淆以前の神道)の日本を最も優れた国として肯定し、日本の天皇を自然神道の体現者で農業の普及者として肯定した。
江戸時代の思想家のほとんど全てが神国論・尊王論に収束していったのは、何故なのか?
それは思想家だけではない。江戸時代の後半には幕府までが尊王論に異を唱えることはできなかった。
このことは、尊王論がこの時代が求める観念パラダイムであったことを示している。
(一つの時代には必ず一つの観念パラダイムしか存在しない。)
日本が平和で良い国なのは武力による王朝交代がないから、つまり天皇制だからというのが彼らの共通見解であるが、その潜在意識にあったのは縄文体質(共同体質)の肯定であり、だからこそ江戸時代の思想家たちは、輸入思想(儒教・仏教)を否定し、日本人の縄文体質とイエという経営体に立脚した新思想を生み出そうとしていたのである。
一方、日本の天皇家が存続してきたのは、秩序安定期待が第一で、天皇家を奉っておくのが、秩序安定上最も無難だったからである。つまり、お上捨象の産物である。
つまり、イエという共同体を母胎にした観念追求が尊王論に収束していったのも、お上捨象のパラダイムの中にあったからである。だからこそ尊王論を超える社会統合観念を構築できなかったのであろう。

List    投稿者 staff | 2012-06-25 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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