2009年01月30日

日本支配の構造22 皇室財産は長州勢による特別資金?

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皇室財産を巡ってこの間追求してきましたが、今回はその使途について検討してみたいと思います。なお、前回日本他の中央銀行制度の出資金に皇室財産が使用されたことに触れましたが、今回もその続きとなります。

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最初に明治期から満州中央銀行設立までの年表を確認します。
〔年表〕
1874年(明治 7年)台湾出兵
1880年(明治13年)横浜正金銀行開業 福沢 大隈
1882年(明治15年)日本銀行条例公布。 松方正義
1882年(明治15年)10月10日 – 日本銀行開業。
1884年 (明治17年)大蔵卿松方正義の建議によって日本銀行・横浜正金銀行の政府保有株を皇室に献上。
1886年(明治19年)自由民権運動激化
1887年(明治20年)日本郵船の政府保有株式を皇室に献上 松方正義
1898年(明治31年)頃にそれまでの官有林(国有林)は大部分が御料林にされ、他の形でも国の財産が皇室財産に大規模に転換された。
台湾総督府兒玉源太郎 台湾総督府民生長官 後藤新平
1899年(明治32年)台湾銀行開業
※1899年度の全国102社の5000株以上の大株主98名が所有する株式総数の約11%、約23万株を皇室が所有しており、これは日本最大のブルジョワジーである三菱財閥の岩崎家の約19万株を超えていた。こうした所有株式は銀行・船舶・鉄道に集中しており、皇室は日本銀行・横浜正金銀行・日本郵船の筆頭株主であった。(中村政則「階級構成」、大石嘉一郎編「日本の産業革命」)。
1905年(明治38年)伊藤博文韓国統監府初代統監就任
1909年(明治42年)大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人からの資本金で韓国銀行条例(韓国法)に基づく中央銀行・韓国銀行が設立。
1911年(明治44年)朝鮮銀行法(日本法)に基づく特殊銀行として朝鮮銀行と改称された。
1932年(昭和 7年)3千万元の資本を張作霖管理下にあった東三省官銀号・吉林永衡官銀銭号・辺業銀行・黒竜江官銀号の四行を合併して満州中央銀行設立。
【皇室財産の使途】
皇室財産の使途は色々調べましたがなかなかはっきりとしません。しかし上記年表のうち、1984年の日銀、正銀株の皇室への謙譲と、1899年度の大株主所有の11%23万株を所有し、日銀、正銀、郵船の筆頭株主が皇室であったこと、1909年の韓国銀行に皇室が出資していることは、恐らく事実だろうと思います。
そもそも日本の富国強兵政策は、農業国であった日本国内に止まらず、台湾、朝鮮、満州へと続く対外政策とともに進展していきます。特に対外政策の最終結果である満州国では、様々な国家事業が満州国傀儡政府を通じて展開され、後の電通体制や米国間接支配体制における人材を多く輩出しています。
満州国とは、1932年(昭和7年)建国当時、広さは日本の3倍で人口は約3,500万人。国家予算規模は1932年度一般会計1億1千万円余り、特別会計4100万円余りが、1942年(昭和17年)には一般会計8億2千万円余り、特別会計が18億2700万円余となっています。僅か十年余りで、国家予算が一般会計で8倍、特別会計で44倍余に急成長しているのは驚くべきことです。更に、昭和11年の日本の国家予算が27億円ですから、満州国は相当大きな予算を動かしていたことになります。
満州国予算における特別会計とは、現在の日本と同様に政府事業による歳入歳出です。特別会計で大きいのは、国債金3億8千万余、専売事業(阿片、塩他)3億8千万余(ともに1942年度)となっています。
なお、満州国の国債は、当初は日本の貯蓄銀行=1口あたり5円(現在の10万円程度)以下の零細な預金をも引き受ける金融業者、が中心となって引き受けていたようですが、戦時経済化する日本本国からの投資は細り、最終的には全てを満州国幣で引き受けざるを得なくなって、満州中央銀行が特別会計の操作(国債金)を経て引き受けることとしていたようです。
満州国幣(満州国で通用する紙幣)は、満州中央銀行が印刷を日銀に依頼して発行した銀行券で、同じように台湾銀行、韓国銀行でもそれぞれに通貨を発行しています。日銀が出来る以前の日本では、複数の政府紙幣が、発行されては信用を失うことを繰り返していました。これを解決するのが銀行制度や中央銀行制度ですが、日銀を設立した日本はその後統治下に納める台湾、朝鮮、満州でも中央銀行を設立していくことになります。
さて、ここで大きな問題が登場します。日銀や正銀、韓国銀行の株式を皇室が持っていることをどう理解したら良いのでしょうか?
ここでは、仮説にしかなりませんが、当初皇室財産を設定したのは長州勢の建議によるもので、その実は自由民権運動一派が議会で勢力を形成しつつある時期に、議会承認を経ない公的資金を持ちたいとの思惑が強かったように思われます。その結果として、当初の日銀、正銀の株式は政府から皇室へ譲渡されましたが、その後様々な国策会社の株式を保有するに至った皇室財産は、配当や売買益で次第に膨張し、最終的には統治国家の中央銀行に出資するだけの規模を有するに至った、ということではないでしょうか?
しかも、この経緯の発端となった長州勢と言えば、開国前に英国へ留学しロスチャイルドに学んだ先鋭となった人々です。欧米の中央銀行がロスチャイルドのような金貸しが儲けるために造ったものであることを、彼らは充分知っていたのでしょう。一方日本には彼らのような財閥はありません。強いて言えば、三井、三菱ですが、アジアではそこそこでも、世界となるとまだまだでしょう。明治維新で突如世界に登場した日本が世界の金貸しにどうしたら対抗できるのか、の答えが「皇室財産」だったのではないでしょうか?
西欧では旺盛な金貸しが出資する中央銀行を日本はどうやって作るのか?政府の資金では議会承認が必要になりますが、議会には長州勢と対立する自由民権運動一派がいます。又自由に金儲けが出来る民間は三井、三菱ですが、ここの資金を使えば下手をすると西欧と同じ金貸しの銀行となってしまう。明治政府の中心勢力である長州勢は自らの意向で自由に出し入れできる資金を最も安全な場所に持とうとしたとき、討幕運動以来密接に関係している皇室が思い浮かんだとしても不思議ではありません。
結果は上述の通り、日本、台湾、韓国、満州の中央銀行設立や満州鉄道など国策会社への出資金として皇室財産は使われました。最後に残った問題は、彼ら(長州の政治家や天皇自身)が、欧米の金貸しと同じように私服を肥やすためにこうした資金を持つに至ったのかどうか、ですが、当時の日本他では、通貨の信用不安が繰り返され、経済の混乱が続いていました。これを立て直すための中央銀行制度だったとしたら、更には資源に苦しむ日本の独自戦略として台湾、朝鮮、満州があったのだとしたら、私腹というものではなかっただろうと思われます。手法は欧米金貸しに学び、目的は日本の近代化のためと考えるのが妥当ではないでしょうか。そして、その結果独自の資金や金融で独自の経済圏を固めつつあった次に起こるのが、日中戦争、太平洋戦争だったと言えるのではないでしょうか?

List    投稿者 saito | 2009-01-30 | Posted in 04.日本の政治構造3 Comments » 

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コメント3件

  | 2009.05.26 21:20

>ロシア革命とは、富裕層による富裕層のための革命だった
イメージの大転換ですね。
社会主義といっても、私権社会の実現態の一つと思えば、さもありなん ということでしょうか。

 ぱふぅ家のホームページ | 2009.11.28 18:57

西暦1905年 – ロシア革命はじまる

1905年1月、ロシアで血の日曜日事件が発生し、ロシア革命に発展する。二月革命、十月革命を経てロマノフ王朝は滅び、ソ連が誕生する。

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