2013年12月22日

裏天皇の正体6~裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報ネットワーク

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画像はこちらからお借りしました。
「裏天皇の正体4 南朝を支持したのは市場勢力。それを統括していたのは秦氏」で紹介した論点は、次の通りである。
【1】南朝(後醍醐天皇)の支持勢力は、散所、つまり非農業民の市場勢力(非人経済)であり、北朝の支持勢力は、武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力、つまり、貴族をはじめとする荘園領主であったこと。
【2】日本における市場勢力の源流は2つある。一つは百済の滅亡後~鎖国まで続いた大陸・朝鮮からの流入民であり、彼ら流入民が散所(市場)の住人となっていった。もう一つは、百済系の北朝の収奪と寒冷化によって農業で喰えなくなった農民たちが逃散し、都市の市場に流入した。
【3】彼ら市場の住人となった非農業民たちは、非人・河原者と呼ばれ、差別の対象となっていったが、そのまとめ役を担ったのが秦氏であり、秦氏が支配する市場勢力こそ南朝の支持勢力である。
【4】そして、この南北朝の秘密統合(強制統合)と市場(散所・非人)経済を拡大するために、後醍醐天皇と律僧文観がたてた政略が「大塔政略」である。 大塔とは、後醍醐の第三皇子大塔宮護良親王を指す。

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『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著)「第七章 伏見殿と天海大僧正」「第八章 国際ウラ天皇=伏見宮海外ネットワーク」から要約する。

後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王は偽装死去した後、鎌倉極楽寺を経て大和国西大寺に入り、ここを拠点とした西大寺ネットワークを築いた。
古代の土師君に始まり、加茂役君小角(役行者)がはじめた非人救済事業を受け継いだ行基の流れを汲む西大寺は、非人救済事業の実績を数世紀にわたり積んできた真言律宗(西大寺流律宗)の本山である。
古代の役民および中世の非人とは律令制度外の非農業民のことである。その大宗は古代に朝鮮半島から渡来したツングース系の非定着民の子孫で、律令制度下の公領から逃散した百姓たちも混じっていた。
奈良時代から平安・鎌倉時代にかけて、朝鮮半島から陸続として渡来し、畿内諸国に住みついた雑民労務者の子孫は時を経て増加し、畿内人口の大きな部分を占めるに至ったが、多くは無籍のままだった。
大和朝廷で無籍民「役民」に対する社会政策を担当していた姓が賀茂氏支流の「加茂の役君」で、その頭領の加茂役君小角は役行者と称し、山岳信仰を究めて修験道の元祖となった。
それを引き継いだのが仏僧行基である。初めは律令制の攪乱要因と観られていた行基の民衆仏教が、律令制の制度的欠陥たる無籍民対策をカバーしてくれたことから、行基大菩薩と讃えられる。
これ以来、渡来系都市雑民の社会政策を、律令国家が行基の流れを汲む宗教勢力(律宗本山西大寺)に委託したかのような形になる。
西大寺は土木建設事業を始め、労務者の福利厚生・療養介護・環境衛生・埋葬・道路港湾など、戦前の内務省が行っていた建設・運輸・厚生・労働など広範囲にわたる行政を自主的に運営した。
これら無籍の役民(非農業民)は、傀儡のように拠点を定めず、散所と呼ばれた集落に集まり、運輸・駅逓事業や葬礼・埋葬・芸能・らい病看護・製薬行商など、様々な雑事に従事して事業収入を得ていた。その一部が彼らを管掌した西大寺に貢納されて西大寺基金として積まれた。
大塔宮の王子が北朝の光厳天皇の皇子にすりかわり北朝崇光天皇となり、その皇子の栄仁親王が伏見殿の初代となる。つまり、伏見殿は大塔宮護良親王の直系子孫であり、西大寺と伏見殿は、護良親王を父とする双子のような関係にある。
西大寺に迎えられた護良親王は、西大寺律宗の首領として全国に極楽寺のネットワークをつくり、非農業民たちの製薬・行商・救らい病事業の拠点とする。西大寺の事業は貨幣経済の浸透で莫大な収益を上げる。
北朝に対抗して吉野に立て籠もった南朝勢力は、吉野の山中に散在した自然金を採取して蓄える。吉野から高野山にかけての水銀鉱脈から採掘した水銀を製剤原料とし、河内・和泉・紀伊を本拠にして列島沿岸の海運を握る和田楠木氏に任せた。
空海は紀伊で採れる水銀を原料とした水銀製剤を伝染病の特効薬として売りさばかせ、高野山密教の主要財源としたが、南朝勢力はそれを引き継いだ形で、吉野産の水銀から伝染病・皮膚病の特効薬として製造・販売した。
その販売に当たったのが西大寺傘下の非農業民(非人)衆で、全国の散所に設けられた極楽寺を拠点に行商し、併せて大塔宮後裔の西大寺と伏見殿のために諜報活動も行っていた。
西大寺の基金は、この事業収益を集積して莫大なものとなった。大塔宮はこの資金を用いて、畿内から鎌倉に至る本州沿岸の要地に港湾を建設し、海外交易の拠点とした。これが後に伏見宮海外ネットワークになるが、さしもの莫大な基金も港湾建設事業で蕩尽した。
大塔宮護良親王の入った西大寺は、大陸貨幣の流入による散所経済の興隆に乗り、西大寺流律宗系の散所が莫大な富を築く。その資産を用いて大塔宮護良親王は、全国の街道筋に数多くの極楽寺を建てて、散所民の行商拠点とする。
護良親王は、極楽寺ネットワークによりさらに積み上がった西大寺の資産を用いて、全国各地の沿岸に港湾を建設したので、さしもの西大寺ファンドも蕩尽したが、これによって海外進出の基盤ができたので、以後の散所経済は海外進出にまで及ぶ。
西大寺配下の散所経済を継承した伏見殿は、西大寺が蓄積した資金を用いて各地の港湾施設を新設・整備した。そこで、楠木氏・名和氏ら、及び村上水軍・熊野水軍(根来水軍)・九鬼水軍らが、遠洋船隊を組織して、沿岸貿易に留まらず海外貿易にも進出した。例えば、角倉了以は河川掘削を本領とする数理科学的測量集団の要員である。このような水軍衆と測量衆は、悉く伏見殿の配下であった。
室町時代に出来た伏見殿配下の各種の特殊技能集団(高等忍者)を皇統奉公衆という。その一部は、室町時代からオランダを拠点として海外活動をしていて、毎年数人の奉公衆がライデン大学に派遣されて西洋学術を学んでいた。奉公衆の活動分野は西欧のみならず、当時全く無主の原野であったシベリアで砂金や貴重鉱物の採取をしており、日本に莫大な砂金を招来した。
皇統奉公衆には真贋の二種があり、「真」はアマテルを拝する大峰山系修験で、「贋」はスサノヲを拝する大江山系霊媒衆である。
大江山系霊媒衆という呼び名からも伺われるが、皇統奉公衆には丹波者が多く、維新直後から満州に進出して現地人と化し、馬賊になっていた者が多いと云う。
折から世界的な大航海時代に入り、伏見宮ネットワークはこれに同期して世界に広がり、オランダに恒久的拠点を設ける。伏見殿がオランダのライデン大学に送り込んだ代々の要員が採集した海外情報が常時日本にもたらされ、伏見殿を通じて天皇に届けられるルートが完成し、室町時代から江戸時代に移っても続いた。
従って、江戸幕末の皇室は、幕閣を上回る海外情報を常に得ており、これを判断基準として、列強の恐喝に屈して不用意な軽挙妄動に陥ることなきよう、幕閣の対外政策を監視していた。

まとめると、
非人(朝鮮半島からの流入民や国内の逃散農民)に対する社会政策を、加茂役君小角(役行者)を源流として西大寺が担っていた。
彼ら非農業民(非人)の収入源は専ら市場(散所)活動であり、その上納金が西大寺に貢納され、西大寺基金となった。
南北朝時代になって、偽装死去した南朝護良親王とその末裔である伏見殿(裏天皇)が西大寺-極楽寺ネットワークを取り仕切るようになる。
折からの市場(散所)経済の興隆によって、西大寺の事業は莫大な収益を上げ、それを財源として、伏見殿(裏天皇)は港湾を整備するとともに海外進出をはじめ、諜報部隊である皇統奉公衆(高等忍者)を海外に派遣する。

この説で南朝系の伏見殿(裏天皇)の諜報組織の源流となっているのは、朝鮮半島からの流入民や国内の逃散農民の社会政策を担っていた役行者(役小角)である。
役行者は修験道の開祖と云われるが、その正体は何か?あるいは修験道とは何だったのか?

List    投稿者 staff | 2013-12-22 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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