2013年02月20日

天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)のまとめ4 ~蘇我滅亡→近江朝→白村江の戦い→壬申の乱の真相(百済人減らし)~

前回は、
【1】350年頃、強大化する高句麗の南下圧力に備えるべく、徐福→葛城ネットワーク(大和纏向政権)が傍流の伽耶の王を大王(崇神)として招き入れた。これが第一期大和朝廷であること。
【2】次いで391年~400年代には高句麗の広開土王・長寿王の南侵と475年の北百済崩壊を見た葛城は、百済と手を組んで高句麗に備えようとした。そして、百済の王族を大王(応神)として招き入れた。これが第二期大和朝廷(河内王朝)である。
【3】しかし、葛城にとって大きな誤算があった。
475年、高句麗による北百済の崩壊以降、百済人が次々と移住し、しだいに百済系の勢力が大きくなってゆく。とりわけ500~600年代には、532年金官加羅滅亡、562年の任那滅亡、660年百済滅亡に伴って伽耶人・百済人が大量に流入した。中でも百済人が増えすぎて共認統合が困難になってゆき、葛城+亡命百済人体制が混乱に陥ってゆく。

百済人の大量亡流による共認統合困難化→体制混乱に対して、葛城はどのような手を打ったのか?
600年代には、646年中大兄(後の天智)と中臣鎌足(後の藤原)が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変と大化の改新→663年白村江出兵を経て→672年の天武が政権を簒奪した壬申の乱といった一連の政権交代劇が連続しているが、このクーデターも百済人が増えすぎたことによる体制混乱の表れである。
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今回は、この一連の政権交代劇の真相を明らかにする。

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●乙巳の変による蘇我本宗家滅亡の真相
蘇我は百済の官職を持つ、伽耶の任那の王族であったと言われており、そのことから考えて、もともと葛城一族であった可能性が高い。葛城ネットワークは伽耶にも拠点を確保していたからである。そこに派遣されていたのが蘇我であろう。
その後、蘇我は、葛城地域を拠点とし権勢を振るったことも、蘇我が葛城の一族であったことの傍証であろう。
そして、蘇我は、532年金官加羅滅亡、562年任那滅亡に伴って伽耶から亡流してきた欽明を立て、継体朝から欽明朝へのクーデターを首謀した。その時、葛城一派である大伴金村は朝鮮半島政策の失敗や百済から賄賂を貰ったことを理由に失脚させられた。
その後100年近く蘇我が実権を握る。
『るいネット』「ヤマト王権より優れた生産力を確保する為に、新羅・伽耶の支援を仰ぐ大和王朝が誕生する」より引用する。

五世紀末から六世紀にかけて、列島の盟主はおろか畿内を束ねる存在もいなくなった。その頃、朝鮮半島では新羅が急速に台頭し、半島は激動期を迎えようとしていた。
押され気味の百済や伽耶諸国は、新羅を牽制するためにも強力な日本の王権を求めていた。
また、朝鮮半島に進出している西日本諸勢力も、情報を集積し的確に判断する権力中枢の存在を必要としていた。さらに、日本列島全体においても、スムーズな交通の確保のためには安定した権力の存在が必要とされていた。
大和の王権の再建が求められることになる。何といっても、外交を制御し、朝鮮半島から安定的に技術を移入する能力がなければならない。
さらに、五世紀には多くの渡来人が日本にやって来ているから、彼らを組織し、王権のもとに再編する能力も必要であった。
そのような役割は、本来は葛城氏のものであったが、葛城氏という首長権力はすでに解体していたと思われる。しかし、その葛城氏の下から台頭したのが蘇我氏であった。
蘇我氏は、葛城氏の遺産である外交権を継承するとともに、葛城氏のもとに定住していた渡来人集団を掌握して大和盆地の指導者としての地位を確立することになったのである。

『天子降臨の夢 藤原不比等プロジェクト』(大山誠一 NHK出版)「第4章 王権の諸問題 一 王権の成立と展開5」より

このように、増えすぎた渡来人、とりわけ、その主勢力である百済人たちを統合するために、抜擢されたのが蘇我氏である。
そして、蘇我は滅亡した伽耶王族(欽明)を招き入れてクーデターを起こし、葛城+百済の連合(河内王朝)から、百済+伽耶の連合へ政権交代させた。これは増えすぎた百済人勢力の力を削ぐためであろう。
次いで、蘇我氏が増えすぎた百済人を統合するために打った手が、氏族連合から中央集権国家化である。
蘇我馬子の時代のには、氏族連合から中央集権体制(律令国家)への移行が始まっている。その橋渡しをしたのも蘇我氏である。蘇我氏は高句麗の恵慈を招いて官僚機構(冠位十二階)を整備し、国史編纂事業を行い、「日本」国の名称を使い始めた。そして、610年隋が亡び、百済・高句麗との協調路線に転換。孫の入鹿の手で律令制度を導入し始めている。
蘇我氏本宗家が滅ぼされた乙巳の変→大化の改新以降、白村江の大敗北をはじめとする唐や新羅の侵略圧力に対抗するために中央集権化が始まったと学説では考えられている。
『るいネット』「日本の政治の中央集権化は大化の改新後に出来上がる」
しかし、それ以前から中央集権化は始まっており、その推進役は蘇我氏である。
そして、蘇我氏が中央集権化を推進したのは、増えすぎた百済人を統合するためだったのではないか。
実際、当時の百済は氏族連合は解体し中央集権国家(私権国家)に移行している。
中央集権国家百済から流入してくる百済人は氏族連合では統合できないので、中央集権化が必要になる。また、蘇我氏が仏教を導入したのも百済人を観念統合するためだったと考えられる。∵各氏族の守護神(祖霊)信仰では百済人は観念統合できない。

ところが、646年中大兄(後の天智)と中臣鎌足(後の藤原)に命じて入鹿を暗殺し、蘇我氏本宗家を滅ぼした。これが乙巳の変であるが、その後、藤原不比等が編纂した記紀では、蘇我は徹底的に悪者にされ、蘇我馬子の功績は全て抹殺され、聖徳太子という架空の人物の功績に摩り替えられた。
この蘇我滅亡という政変(クーデター)の真相は何か?
その真相を解明するために、蘇我滅亡後に何が起こったのかを明らかにする。

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白村江の戦(画像はこちらからお借りしました。)
 
●増えすぎた百済人を減らすために、近江朝→白村江の戦い→壬申の乱を起こした
600年代百済は、唐と新羅の連合軍に圧迫され、660年に滅亡する。その前から大量の百済人が日本に押し寄せてきた。ここで葛城が打った手が百済人減らしor百済勢力の弱体化である。
①まず、百済人の一部を近江に移住させ、天智に近江朝を開かせた。大和・飛鳥・葛城の地から百済人を近江に隔離したのである。
②それと共に、(百済人の要請を受けて)663年負けると分かっている白村江(相手は唐)に出撃させた。この目的も百済人減らしである。
③そして、天智が没するや天武(おそらく葛城一族)を擁して壬申の乱を興し、近江朝を滅ぼした。これも百済人減らしである。
実際、西国の豪族(その主勢力は百済人)は白村江の戦いの動員で疲弊し、近江朝廷への不満を強めた。そして、西国の豪族(百済人)たちは壬申の乱の時には近江朝の大友皇子(天武の敵方)の動員には従わなかった。
つまり、白村江の戦いも壬申の乱も、百済人を減らすと同時に百済勢力の内部対立を引き起こすことで、その弱体化を狙ったものである。
そして、この百済人減らしが始まった契機は乙巳の変による蘇我本宗家の滅亡である。
このことから逆照射して考えると、蘇我が滅ぼされたのは、百済人減らしor百済勢力の弱体化という葛城の統合路線に従わなかったからではないか。
実際、蘇我は、百済侵略→朝鮮出兵には最後まで反対していたが、それは百済人減らしに抵抗していたのである。
ところが、百済人減らしを目論む葛城ネットワークの路線に従わなかった蘇我本宗家(蝦夷・入鹿)は粛清された。これが蘇我滅亡の真相である。
こうして、百済勢力の弱体化に成功した葛城は、その支配下にある=百済人の勢力が及んでいない東国(美濃・尾張)や畿内の豪族の支持を受けて、天武が藤原京を建てる。
そして、乙巳の変→大化の改新以降、中央集権化の流れもさらに加速する。
『るいネット』「日本の政治の中央集権化は大化の改新後に出来上がる」

この蘇我王権の時代を経て、大化改新以後の中国的な中央集権国家の形成が始まるのであるが、そこで行われた改革は、官僚制、公民制の形成に関しては一定の成果をあげ、中央・地方の官制の整備と対応して、大化期の国・評(こおり)・里=五十戸制から天智朝には全人民を対象にした庚午年籍が編成されている。
中国の皇帝という概念は当時の日本人にとっては異質なものであった。
問題は、それをどのように処理して中央集権国家を構築するかであった。大化改新彼の不安定な政治過程を経て、白村江の敗北ののち、ようやく結論らしきものに達したのが、先に見た天智十年の官制である。
これにより、先述のごとく国政の最高機関として太政官が成立し、天皇は国政審議の場から外れる。しかし、国家の最終的意思決定には詔勅が必要であり、何よりも、人事権により太政官をコントロールすることができる。こういうシステムが成立したのである。
『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』(大山誠一著 NHK出版)
「第Ⅱ部 天孫降臨の夢 第一章(天皇制)成立への道 一、皇帝になれなかった大王1」より。

つまり、600年代の百済人の大量流入に対して、近江朝→白村江の戦い→壬申の乱によって百済人を減らし、百済勢力を弱体化した上で、中央集権によって統合する。
これが、葛城-天智-中臣の百済人統合戦略である。

それ以降、天武・持統-藤原体制が確立する。
次回はこの体制について追求していくので、楽しみにしていてください!

List    投稿者 yoshi23 | 2013-02-20 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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