2008年05月09日

日本支配の構造 8 日欧米「金貸し」のせめぎ合い

Masuda_Takashi.jpg
益田孝(Wikipediaより)
シリーズ「日本支配の構造」では、これまで日本の金貸し「三井」「台湾からつづく日本の阿片」など、あまり人に知られない明治以降の歴史事実を検討してきました。引き続き、これらのテーマを掘り下げるべく、今回は日欧の金貸しについて解明して行きたいと思います。
ブログランキングよろしくです。
 

にほんブログ村 政治ブログへ


【年表にしてみました】
〔1832年〕
・中国の広州にイギリスの貿易会社、ジャーディンマセソン商会(ロスチャイルド)設立。アヘン貿易で冨を蓄積。
〔1861年〕・ジャーディン社の長崎代理店としてグラバー商会設立。後に、討幕派の伊藤博文井上馨、後藤象二郎、岩崎彌太郎らが出入し、同社は薩長へ武器や艦船を売却。また幕府も第2次長州征伐に当たり大砲の購入を試みたが、鳥羽伏見の戦いにも間に合わなかった。
〔1863年〕 
・井上聞多(馨)、伊藤博文らとともにイギリスへ密航。これまでの攘夷支持を改めて開国派へ。彼らを密航させたのは英資本。
・長州藩が関門海峡を封鎖、航行中の米仏商船に砲撃。米仏軍艦が長州軍艦に報復の砲撃。
ヘボン塾(現明治学院大学)に学んだ益田孝が父とともに渡仏。
 ※ヘボン塾には高橋是清も在籍し、英語を学んだという。塾生は通訳として重用された。
〔1864年〕
・海峡封鎖で損失を受けた英国は、報復措置をとることを決定、仏、蘭、米三国に呼びかけ艦船17隻の連合艦隊を編成し、馬関(現下関市)、彦島の砲台を砲撃、占拠・破壊した。
〔1865年〕
・英領香港に香港上海銀行(HSBC;オーナーはロスチャイルド系統のサッスーン卿)設立。
〔1867年〕
・大政奉還。各藩が外資に行なった借金の400万円のうち280万円を明治政府が肩代わり。
〔1872年〕
・益田は井上馨の勧めで大蔵省入り。
〔1876年〕
三井物産設立とともに、益田は総轄に就任。益田は中外物価新報(現日本経済新聞)も創刊。
〔1878年〕
HSBCから三井銀行に70万ドルの貸付。
・團が米MITの鉱山学科を卒業。
〔1880年〕・HSBCから三井銀行に100万ドルの貸付。
〔18881年〕
・グラバーと土佐商会(三菱)が高島炭鉱買収。
〔1889年〕・三井が「三池炭鉱社」を設立、團琢磨を事務長に。高島炭を圧倒。
〔1900年〕・台湾製糖(三井)設立。
〔1909年〕
・三井合名会社設立。
因みに合名会社とは、「社員は原則として業務執行権を有する(590条1項)。これは合名会社の社員としての権利でもあり、義務でもある。また会社の基本方針は、組合と同じく、原則として総社員の過半数によって決する(590条2項)。無限責任とは有限責任に対する概念で、会社が負った債務を会社財産では弁済しきれなかった場合、社員が自己の個人財産からその債務の弁済をしなければならないことを言う。これは保証契約に似ており、いわば、会社が主たる債務者で、無限責任社員は保証人である。」Wikipedia
 
江戸から明治にかけて日本は一気に近代化を果たしますが、それまでの越後屋と言う「商店」を「会社」にしようなどと考えたのは何故なのでしょうか?一体誰に指南を受けたのでしょうか?
この答えは、銀行設立に当たって三井がイギリスを、大隈、福沢などが米国のナショナル銀行制度を範としたことや、横浜正金銀行のモデルがHSBCであったことなどから、外国資本(主に英ロスチャイルド)の手ほどきがあったと考えるべきでしょう(しかし、イギリス系の三井に対して、伊藤博文はナショナル銀行制度を支持したようですので、三井と伊藤も必ずしも一枚岩ではないこと、当時日本には英ロスチャイルドだけでなく、米ロックフェラー=ナショナル銀行の影響が生じていたことも伺えます)。
一方、三井合名会社設立に当たって益田孝は「欧米出張復命書」という欧米の資本家に面会しながら調査したレポートを三井家宛てに提出しています。そのことについて小林正彬氏の「戦間期,三井・住友の多角化三菱と比較して」から引用します。
『「欧米視察ニヨリ営業組織ニ関スル卑見」で,益田は「ロスチャイルド家ノ如ク財務及投資ノ関係ニ限リ,御同族十一家ヲ社員トスル外他ニ関係ヲ及ボスヲ禁ジ,ワルヴォルグ氏ノ説ノ如ク無限責任合名組織ト致サレ候事最モ宜シキニ相適ヒ可申歟」と意見を述べている(略)資本の力で立派な技師を使って配当を与えられれば,高く売れる。そのとき売ってしまって,他のものを買って,また良くして売る。そうすれば「国も延びる,有限責任に改めてから又たおいでなさい。無限責任では話にならぬ,さよなら」とロスチャイルドから云われた。「立ち話でたった五分間である」。「うむ,待てよ,大阪の住友なぞは別子の銅山を二百年もやって居るが,成程資本家がロスチャイルドの云ふやうな心掛でやれば国の事業は起るかと思った……退いて考へて見るのに,之れをやって居るのは,日本では安田だけであった」。』
改めて、調べに行くような関係、しかも立ち話で5分しか面談できないとなると、親しいというような間柄ではないようです。更に、その後の海外資本との関係は、
〔1921年〕
・團琢磨を団長とした英米訪問実業団が渡米、米モルガン商会のラモントは團を私邸に招き、GE社長や、クーン・レープ商会創立者ヤコブ・シェフの息子やナショナルシティ銀行の頭取、ノーザンパシフィック鉄道社長などを紹介。
〔1927年〕・ラモントが来日し満鉄の社債を引き受けるための交渉を團と開始。当時、満鉄社長山本条太郎(元三井物産)は北京に居て同じく満鉄融資について張作霖と二面外交。
とあるように、三井の総帥で有る團琢磨を米国で歓待したのは、当時まだ対立色の薄いロスチャイルド、ロックフェラー双方の関係者で、その後満鉄の融資話へ発展しています。
こうしてみると、確かに明治維新前後に海外資本や外国の干渉で、日本は倒幕⇒開国⇒市場社会へと一気に転換して言ったでしょうけれど、必ずしも英ロスチャイルドべったりと言うわけではないように思えます。確かに一部の西洋かぶれや西洋恐るべしの従英派、従米派は居たでしょうし、彼らを通じて市場社会の制度を大いに学びもしたでしょうけれど、それだけでは三井の大番頭とロスチャイルドの関係の薄さや、その後の石炭や大豆、阿片などの競争関係や満州建国や太平洋戦争への流れが説明できません。
改めて当時の日本の金融資本家は、江戸時代末期に遭遇した欧米列強のすさまじさにひるんだり驚いたりしながらも何とか彼等に抗する道を探していたとも言えるように思えるのですが如何でしょうか?
 最後に三井家について少し触れておきたいと思います。三井家は、江戸時代には既に豪商としての地位を築き、その出自は藤原氏(宇多源氏)であると言われています(家系図に疑問を持つ向きも有るようですが)。仮にそうでないとしても紀州徳川藩にあって幕府が資金の普請に来るほどですから、下級藩士の伊藤など、明治維新政府の政治家とは相当異なる地位にあったと言えるでしょう。
 そうしたいわゆる名家が、明治以降、銀行、商社へと日本の市場主義社会の中心となって行きますが、これを推進したのは、三井家当主やその血筋ではなく、井上、益田、中上川、團といった三井家の外部の洋行経験者たちです。ここにも一筋縄でいかない資本主義社会黎明期の複雑な関係構造が有るように思います。ロスチャイルドの薦める「有限責任」に対して合名会社を選択するのもそのあたりの日本的な事情と欧米市場主義の相克が有るのかもしれません。

List    投稿者 saito | 2008-05-09 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2008/05/697.html/trackback


Comment



Comment


*