2013年01月09日

天皇制国家の源流14 大和朝廷の対中外交の変遷

前回、天皇制国家の源流13 東アジア史の中の「倭の五王」①では、現在の日本の支配階級の米国一辺倒の属国意識は、百済の南朝一辺倒の属国意識が源流であったのでは?という仮説をたてました。
では、今回は倭の五王の意識や対中外交から葛城勢力との関係や意識を追っていきたいと思います。
『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)第10章東アジア史の中の「倭の五王」より引用させて頂きます。

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◆中国正史に多くを占める倭の記録
一世紀から三世紀にかけて、九州北部の邪馬台国をはじめ列島の多くの小国は、北朝に朝貢使を送っていました。さらに白村江の戦い以降、その戦後処理のため日本と国名を変え、遣唐使の名で唐に朝貢使を送り、一時唐の秩序下に入っています。一方、大陸の漢、魏、宋、唐・・・など中国勢力は、倭国に対し異常な関心をみせていました。とくに、三世紀の『魏志』「東夷伝」の邪馬台に関するものと五世紀の『宋書』「倭人伝」にある倭の五王に対する記録などは、中国の韓半島の諸国に対する態度とは、大きな違いがあります。中国正史の倭人に関する記録の量は、字数からしても当時の東夷族の最強国である「高句麗伝」の1.5倍、三韓に対する「韓伝」の二倍にもなる量を残しています。
中国に近い高句麗、百済など韓半島勢力は競争対象または敵国とみなし、一方で倭は潜在的に利用できる国と考えたからでもありました。倭と新羅に対し近攻遠交政策を発動したことは、高句麗滅亡以後、唐の反新羅路線が同時に親ヤマト的になったことからもわかります。

◆応神系「倭の五王」の意識
卑弥呼時代の三世紀の対中国外交は伽耶の路線と同じで、百済・狗奴の攻撃に対する安全保障が目的でした。一方、応神王朝が南朝に対して再開した百済と同じ路線は、辰王家の直系であることの承認を求めるものでした。両者の外交目的は明らかに違います。
この外交路線の変化は、卑弥呼の邪馬台国が九州にあったことも示唆しています。
畿内にあった崇神王朝は、中国外交の必要がなかったのです。

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◆倭の五王が中国に主張したかったこと
応神系の倭の五王が粘り強く中国南朝の王に朝貢使を送ったことは、自身が倭王であることだけではなく、南韓諸国の王つまり辰王の直系であることを認めてくれということなのです。この時代の倭王は熊津出身の応神系であり、漢城百済に対抗して倭のほうが本家である、それを認めてくれと要求しているともいえます。
高句麗に対する支配権については一切主張していないところがミソです。高句麗は辰国とは別系の扶余族であり、また辰王が南韓全体を支配し、新羅の前身である辰韓王までも辰王直系の馬韓王が任命していた経緯を承知していたのです。
このような、倭王の要求に対して宋の順帝は、百済も倭の本家争いに介入するのは無意味であり、すでに百済王を将軍に任命していましたから、百済王以外ならよかろうと要求したとおりにしているのです。

◆倭王・武の上表文にただよう百済
「倭の五王が南韓の全域を支配したと主張する根拠は何か?」
倭王武の文は、高句麗が漢城百済を落させ、ケロ王を戦死させた三年後の478年に送ったものです。倭王武は、百済とその悲劇をまるで自分のことのように感じています。
倭の使節は百済を通じて渡来し、武の倭国と百済は一体であることを示唆しています。
この上表文は、昆支が日本にいた当時、倭国の百済に対する考えをよく表しています。
ケロ王が昆支を倭国に送った理由は、宋による高句麗牽制の外交関係経路を強化するためではなかったのかと考えられます。

◆倭の対中外交の流れ
①九州時代(紀元前一世紀から三世紀)
師升・卑弥呼外交は漢・魏より権威と安全保障を得る。 
②倭の五王(五世紀)
辰王の直系として、辰国の支配下にあった国の名目的な支配権の承認、官爵の要求。
③推古・聖徳(七世紀)
文化外交が主で、中国による安全保障、権威に関心はない。

●まとめ●
[1]邪馬台国が中国(魏)に対して安全保障を求めたのは、著者である金容雲氏の通りですが、倭(邪馬台国)は朝鮮半島にあった国(加耶)です。倭国大乱も朝鮮半島での出来事です。従って、高句麗や百済や新羅の攻撃に対して倭(加耶)が安全保障を求めたと考えるべきでしょう。
[2]高句麗や百済に押されて日本に脱出した加耶勢力が第一期大和朝廷(崇神王朝)ですが、朝鮮半島勢力の圧力から逃れることができたので、中国に安全保障を求める必要がなくなったので、中国外交をしなくなりました。
[3]ところが、高句麗(広開土王)に押されて南百済(熊津百済)から脱出した応神勢力は、故地奪還の夢を捨てていませんでした。そこで、中国南朝(南宋)に対して南朝鮮全体の支配権を要求しました。それが応神系の倭の五王の朝貢です。
[4]その後、葛城勢力の一部族である蘇我が朝廷権力を握りましたが、葛城(蘇我)は朝鮮半島を奪還する気はなく、日本列島の内政に注力していました。従って、中国による安全保障も、朝鮮半島における支配権の承認も必要としませんでした。従って、仏教や制度の輸入等が外交の中心になったと考えられます。
これは、高句麗を最大の脅威としていた葛城勢力が、高句麗に対抗するために国家統合を図るためだったのではないでしょうか。

List    投稿者 i-ayaka | 2013-01-09 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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