日本支配の構造31~岩倉使節団主要メンバー⇒派遣組と留守政府組
岩倉使節団~時代背景と国内・国際情勢
からも分かる様に、19世紀のアジアは欧米列強の進出に直面していました。
インド・東南アジア地域では、シャム(タイ)を除く各地が列強の植民地にされていきます。また、清はイギリスとのアヘン戦争に敗北。その戦後処理としての南京条約をはじめとして、列強と不平等条約を締結するなど、東アジアにおいてもそれまで長年にわたって維持されてきた体制が揺らぎ始めていました。又、当時の日本では、新政府が版籍奉還や廃藩置県といった中央への権力集中を目指した政治制度改革をはじめとして、経済、法律、社会などあらゆる面で文明開化の政策を進めていました。
このような情勢の中で、政府の有力者である岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが欧米を歴訪し各国を視察したことによって、欧米諸国をモデルとした国づくりの方向性に具体的なイメージがもたらされました。
しかし、歴史教科書に書かれてある表向きの理由であり、その背後には日本国内はもとより欧米諸国の金貸したちのとの繋がりなど、探求してみたいと思います。
先ずは、視察団に加わったメンバーと留守中の日本を預かり残ったメンバーについて着目し、史実や出来事から行った人と行けなかった人との人選理由や国内外の「裏の事実」に迫ってみたいと思います。
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■岩倉視察団
明治4年(1871)12月、誕生間もない明治政府は、新しい国家のあり方を求め、史上空前の大使節団を米欧に派遣しました。右大臣岩倉具視(47)を特命全権大使に置き、木戸孝允(39)、大久保利通(42)、伊藤博文(31)、山口尚芳(33)の4名を副使とし、各省の俊才も加えた総勢46名の正式メンバーと、使節団随従者:19名及び43名の留学生を加えた総勢108名の大集団であった。
この留学生の中には、大久保利通の次男であった牧野伸顕(11歳)や津田塾大学の設立者かつ塾長でもあった津田梅(8歳)や戦前の三井財閥の総帥であった団琢磨(13歳)やフランスの思想家ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった中江兆民(25歳)と言った歴史上に名を残した蒼々たるメンバーもこの使節団に参加しています。
■明治維新の主要な人物
明治維新のトップリダーは、岩倉、西郷、木戸、大久保らであった。
当時、欧米的文化を取り入れ「共和国家像」を抱く若手を中心とした『開明派』と明治維新を興した東洋的「道義国家像」を抱く『保守派』の2大勢力であった。
『開明派』には、木戸、大隈、井上、伊藤らがあり、三条はその上にのっている。
それに対して、『保守派』には、岩倉、西郷、大久保、板垣らがあった。
開明派の中でもより欧米的国家像を推し進めていた元気のいい若者(大隈、井上、伊藤)らは、アラビア馬といわれていた。
■岩倉視察団に参加した主要なメンバー
□公家(保守派)
・特命全権大使:岩倉具視(47) 右大臣
□開明派
・副使:伊藤博文(31) 工部大輔 長州
・副使:木戸孝允(39) 参議 長州
□保守派
・副使:大久保利通(42) 大蔵卿 薩摩
・副使:山口尚芳 (33) 外務少輔 肥前
■留守中の日本を預かった主要なメンバー
□公家
・三条実美(35) 太政大臣
□開明派
・大隈重信(34) 参議 肥前
・井上 馨(36) 大蔵大輔 長州
□保守派
・西郷隆盛(44) 参議 薩摩
・板垣退助(35) 参議 土佐
■使節団の人選理由
当初は、特命全権大使として大隈案もあった。
しかし、岩倉に決まったのは、維新の功績やその見識があり天皇の代理人としての公家の立場さらには47歳と言う年齢的なことから、特命全権大使に岩倉が決まったとされる。
副使については、
・伊藤博文は、工部省の実質のトップであり、かつ2度に渡る英米への留学出張体験があり、英語が堪能で外国事情を既に知っていた。さらに、条約改正問題の知識もあり、早々と視察団入りが決定となったと思われる。
・山口尚芳は、英語が得意であった。大隈が、自分の身代わりとして肥前代表として押し込んだのではないかと思われます。
・大久保利通は、実質首相と言う地位にありながら、自らの目で欧米を見て自らの肌で欧米文明を感じなければ、若いアラビア馬たちを制御し新政府の指導権を握って行くのは難しいと判断し、自ら視察志願したものと思われる。
・維新三傑でもあった木戸孝允は、薩摩と長州の人員バランスから長州代表として、かつ「西洋の猿真似をするだけでは心配であった」ことから自ら参加したと思われる。
元々、視察団を企画したのは、開明派の大隈ラインであった。これは、明治2年に大隈の依頼でにより、当時政府の顧問役だった宣教師ギード・フルベッキにより使節派遣の企画書が大隈に渡されていたとされる。しかし、岩倉、大久保チーム(保守派)が途中で割り込んできて相手側(開明派)の総帥:木戸を引っ張り込み若手の伊藤を案内役に使おうとした構図ではなかったか?
視察団の留守中は、西郷、板垣の保守派と大隈、井上の開明派に預けることになるが、保守派と開明派との勢力争いになった模様です。
視察団の留守中に明治政府の足枷を嵌める為に「12か条の約定」が、結ばれ重要なことは人事も含めて派遣組と相談して決めることとし、留守内閣の専横にはしないと言うことになった。
しかし、元々留守政府は、廃藩置県の事後処理を担うはずだったのだが、その役割を越えて多面的な改革に突き進んだ。
それが、徴兵令、地租改正、学制、司法改革など派遣組の了解なく進められた改革である。
これは、留守政府正院がある計画をもって推進したのではなく、各省がそれぞれ勝手に推進し、正院がそれを追認しているに過ぎないといった状況であった。
その後、派遣組と留守政府組との間で、対立し抗争へと発展して行ったと思われます。
視察以前は、派遣組、留守組夫々に開明派と保守派でバランスしていた。しかし、2年後の視察帰国時点では、視察組と留守組とで対立することになる。これは、諸外国の文化を直接肌で感じた者たちと知識だけの者たちとの意識の違いがあった様に思います。
出典;「岩倉使節団と言う冒険」 泉三郎著などを元にまとめました。
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コメント3件
匿名 | 2009.11.19 22:51
ブログやツイッターが広まっているのも、人々がネットに可能性を持ち始めたからでしょうね。
人々がネットに転換した今、どのようにネットを活用していくかは、これからの課題だと思います。
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