2012年05月21日

江戸時代の思想15 江戸時代のお上の「民の生活第一」とは、民の自主管理に任せること

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前回は国学の大成者として日本の思想史に大きな足跡を残した本居宣長(1730年~1830年)の思想について紹介しました。
「江戸時代の思想14 日本人の共同体質(古の道)を追求した本居宣長→尊皇論は縄文体質の肯定」
今回は、

農民の規範を元に幕法がつくられていた、江戸時代の庶民は「お上捨象」で、支配者は「民の生活第一」という世界でも稀な特異な体質が下にも上にも形成されていた
という真相を<庶民>と、<支配者(お上)>
からの2つの視点から探りたいと思います。
まず、その思想の概要を『騎れる白人と闘うための日本近代史』(著者:松原久子、文芸春秋刊)から引用します。
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■江戸時代のお上の「民の生活第一」とは、民の自主管理に任せること

<支配者(お上)>
農民、職人、商人の自治権を十二分に認めた
閉鎖された国の内部に発生するすべての問題をできる限り安穏に解決しなければならなかった。
でないと内乱の連続となり、自滅への道をたどることになる。
だから幕府は、階級間の調和を長期的な展望の上で保とうとしていた。
この課題に対処するために、幕府はすでに述べた通り、国民の大半を占める階級、すなわち農民、職人、商人の自治権を十二分に認めたのである。
少なくとも十三世紀から十四世紀の初頭には、国民にできる限り多くの自治の自由を与えた方が、国民を容易に操作できるということに、日本の統治者は気がついていたと考えられる。
この認識に基づいて地方自治のあの驚くべき民主的な制度が生まれたのであった。
どの集団も地方での草の根民主政治の恩恵を享受し、自分が属している地域に対する責任感が大いに高められた。
だから幕府は日常の歯車の中に介入する必要がなかった。
地方自治の制度のもと、色々なことが上から指示や命令を与えるよりはるかに円滑に運ばれたのである。

【江戸時代のお上の「民の生活第一」とは、民の自主管理に任せることでは?】

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写真:江戸時代の農民の様子
“>こちらからお借りしました。
<庶民><支配者(お上)>
民の『お上捨象』とお上の『民の生活第一』という日本人の特異な体質
この幕府のやり方は人間の本性に対する深い理解から生まれたものである。
がんじがらめの法律や上からの非情な命令で、国民を満足させ、幸せにすることは不可能である。日本人はそれを知っていた。
民の『お上捨象』とお上の『民の生活第一』という日本人の特異な体質」に、「庶民は「お上捨象」で、支配者は「民の生活第一」という世界でも稀な特異な体質が下にも上にも形成されたのは、日本人の縄文体質(受け入れ体質)の結果である」とありますが、江戸時代のお上の「民の生活第一」の中身の一つは、民の自主管理に任せるということだったのではないでしょうか。

【江戸時代のお上の「民の生活第一」とは、民の自主管理に任せることでは?】

■商人は幕府から存在を軽視された
自主自立思考で社会秩序を形成し、既に欧州に勝る商システム、流通網を整備したようです。

<庶民>
商人たちの自主的な運営
商人階級は、幕府が彼らを重要視しなかったことによって、農民よりもさらに徹底した自主自立を享受することができた。大名がやってきて、税を要求することなどなかった。京都、大坂、長崎、堺、新潟などの直轄領では、蕃府が行政官を派遣していただけで、事実上商人たちによって自主的に運営されていた。行政官の主な任務は、これらの都市が幕府の法律を遵守しているか、不穏分子による反政府的な動きがないかを監視することにすぎなかった。
京都の商人と手工業者は町ごとに町内会のような自治組織を設置し、約四千人の世話役(行政官)を選出した。彼らは、京都ほどの大きさの都市には必ず生じる様々な任務を遂行した。大きな神社仏閣も、この自治組織に参与する権利を持っていた。町は、消防隊を運営し、警察も維持した。様々な重要な係があった。例えば戸籍簿を作成する戸籍係とか、公正証書や遺言の執行に関する問題を処理する登記係、道路や橋の建設、修理などを担当する土木係などである。町内会は、種々の同業者組合と合意の上、営業税を取り決めた。これが町の最も重要な収入源で、この税収によって全ての公共的な事業が負担された。
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写真:江戸時代の商人の様子
こちらからお借りしました→
江戸時代の日本は欧州と比較すると貧富の差は少なかった
格差が極端になると、その社会は不安定になります。
<庶民>
どこの民族にもない特徴
日本ほど貧富の差、上層と下層の差が極端でない国は、世界のどこの国、どこの民族にもないということである。住民の間で個々の集団の格差があまりにも極端になると、その社会は不安定になるというのは、古くから日本人の考え方に深く根ざしたいわば常識のようなものである。鎖国時代においては、この考え方が国の基本指針にさえなっていた。
【江戸時代の日本は欧州と比較すると貧富の差は少なかった.。.:*☆格差が極端になると、その社会は不安定になる☆.。.:*】

■江戸時代には、社会を荒廃させる権力と富の集中が何よりも警戒され排除された

<支配者(お上)>
権力を集中させない
「日本という国は数千万という国民からこよなく愛されている。政府は、専制政治を行うことも、統治者の都合の良いように勝手に法を曲げる事も出来ないような体制の上に成り立っている。正義は一個人の体面や専横に左右されることなく行われている」この幕府のやり方は人間の本性に対する深い理解から生まれたものである。
日本の統治者は国民に自治を与えたが、権力を実に巧みに分散したのである。
出来上がった統治体制は、欧米人が知っているどの政治体制とも、根本的に異なるもの
だった。将軍は最高支配者であったが、実際には発言はあまりしなかった。これは賢明なことだった。というのは、将軍職は世襲だったからである。
その後継者が狡猾・愚昧・高知的・堕落者であろうが、その決定権は限られていた。
無能な将軍が頻繁に愚行をしでかすのを防ぐために、将軍職にはわずかな権力しか与えられていなかった。こういった将軍のあり方の上に全統治体制が成り立っていたのである。
将軍は「老中」という幹部助言者の頭越しに物事を決定することはできず、少人数構成の幹部助言者たちは、政治上のバランスをとるためのクッションであった。老中は、世襲の譜代大名から成っていて、その中には、将軍と同じように、必ずしも有能な人材というわけにはいかない人たちもいた。彼らの重要な任務は、幕府の統治政策の存続に腐心することだった。
一方で、その役職に任命されて就く助言者たちもいた。その選抜は主に専門知識の有無に基づいて行なわれた。特に複雑な経済機構や河川道路問題の専門家が必要とされた。
世襲の助言者だけでは政府機能が硬直状態に陥る可能性が出てくる。それを防ぐために、選ばれた優秀な人材が内閣に加えられたのである。
もう一つの典型的に日本的な珍事は、内閣の全ての役職が二重に、三重に、場合によっては四重に占められていたということである。そうすることによって、権力が一人の人間に集中しないようにしたのである。愚行、悪行が行なわれないためでもあった。
内閣での決定は全て満場一致でなければならなかった。このことは、統治という行為を極めて効率の悪い鈍重な仕事にしてしまった。幹部助言者の中に派閥や会派を生み、他の派閥や会派と権力や影響力をめぐって争うという状況が生じる。派閥や会派は役職取り合いを、粘り強く手間をかけて舞台裏で演じる。コンセンサスが成立しなければ、何事も達成し得ない。だから折衝に際しては、相手に譲歩する準備ができていなければ、自分の意思を通すことはできないということを承知していなければならない。
欧米のように勝者と敗者が明確になる迅速で冷酷な決定は、当時も日本人の趣味に合わないのである。
大名の中で、石高の多い領地を与えられ、財政的にも裕福な者には、権力の配分を少なくする。幕府はそういった調整に努めた。
富と権力は同じ手に委ねられてはならない、という配慮からであろう。
この権力と富の集中の排除も、江戸時代のお上の「民の生活第一」の具体的中身の一つだったのではないでしょうか。
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写真:徳川家康
こちらからお借りしました→
【江戸時代には、社会を荒廃させる権力と富の集中が何よりも警戒され排除された】

■結論
明治以降、様々な法律や制度が出来上がり、その数は年々増える一方であるが、それは「民の生活」を考えて作られたものかどうか?極めて疑問です。

文字を使った観念思考は私権時代に始まったが、それは、徴税や法律に代表されるように、主要には、国家の統合者が大衆を観念統合するためである。その後、庶民発の救い期待に応える宗教や、解脱欠乏に応える文芸も登場したが、僧侶や学者や文人など観念思考の専門家は、大半が統合階級の一員となってゆき、それら庶民発の解脱観念も、国家が大衆を観念統合するための道具の一つとして組み込まれていった。
その次の市場社会では、市場を支配する金貸しによって生み出された近代観念が、学校教育とマスコミを通じて末端にまで浸透する仕組みが出来上がり、一段と観念支配が進行してゆく。もちろん、ここでも、学者や文人やマスコミ人など観念思考の専門家は、大半が統合階級の一員である。
このように、私権時代の制度や法律は大衆を支配するためのものであり、それが増えれば増えるほど民の生活は窮するor束縛される一方ではなかったか?

「8.大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機」

江戸時代までの権力者は、最低限必要な法度等を定めるのみで、後は大衆の共同体の自主管理に委ねていました。
これが江戸時代までの支配者の「民の生活第一」の具体的な中身のひとつです。
その法度も富や権力の集中を防ぐことに焦点が置かれていたようです。
制度や法律でがんじがらめにしないことが民にとっては有難かった、つまり、それこそが民の生活第一の顕れだったと考えられます。
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List    投稿者 i-ayaka | 2012-05-21 | Posted in 04.日本の政治構造5 Comments » 

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コメント5件

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