2012年02月27日

江戸時代の思想4 儒学を体系化した朱子学

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「朱熹」
「中国の支配観念=儒学は、科挙官僚の正当化観念である」
「共同体を喪失した中国の官僚の私権観念=儒学が、共同体質の日本に輸入された」では、
中国では相次ぐ戦乱と強制移住によって共同体が失われた結果、科挙官僚制によって統合するしかなかったが、同時にそれは、科挙官僚の出身母体である地主階級の私権獲得(大衆からの収奪)を認めてやることとセットになっており、その正当化観念になったのが儒学だったことを明らかにしました。
問題は、共同体が解体された中国における地主⇒科挙官僚の正当化観念(儒学)が、共同体が残存し共同体質が色濃く残る日本に輸入された結果、どんなことになっていったのか、ですが、
その前に朱子学の内容を紹介する。徳川時代の思想家の理解には、儒学一般に加えて、朱子学の理解が不可欠だからです。
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『日本政治思想史』(東京大学出版会)「第六章 隣国の正統 朱子学の体系」の要約。

●朱子学は南宋の朱熹(1130~1200年)によって大成された儒学の一学派である。
当初は、その原理主義的性格を疎まれ、中国政府に弾圧もされた。しかし、次第に「学問」をもって自己を支える士大夫(地主→科挙官僚)たちの信奉を得、明・清では王朝の正統哲学に指定され、科挙の解答も朱子学の立場で行うことになった。科挙に合格して官僚となり、人民を導きたい(出世したい)男たちはこぞって朱子学を学ぶことになった。
朱子学は経書、とりわけ四書の解釈学の形式をとっている。これら経書が伝える古えの聖人賢人の言行に真理は示されており、それを朱熹の注釈に従って正確に理解すればよいということである。

●存在論
(1)気
儒学者のいう天・地・人、つまり万物は気でできている。真空など存在せず、一切は何の空隙もなく連続している。従って、人間も天地と一体であり、その一部である。
気には陰陽と五行があり、この陰陽五行が様々に混合し、融合してこの世の一切の物を生成し、構成している。気はみずから動く。季節や月日や空気や生物が自ずから動くのはそのためである。
また、感覚・知覚・感情・思考等も気の働きである。
人は天地から気を受けて生まれ、それを飲食等によって補いつつ生きる。生まれ得た気を「元気」といい、元気が尽きれば人は死に、その気は散じる。人は天地に回帰する。あの世などは無い。
(2)理
朱熹の存在論には、もう一つの面がある。理である。
万物は気によって成り立っているが、そこには明らかに秩序がある。
この世のあらゆる物事にはそれぞれに在るべき様があり、在るはずの在り様がある。それが理である。物があれば必ず、その理がある。
同様に、気の連続によって一体である親子という「物」は、相互に深い愛によって結合すべき「物」としてある。それが親子の理である。
このように、「物」としてあるはずの在り方(物理)は、人がそれにどう接すべきかということ(道理)と表裏一体である。「物」とは、単なる物体ではなく、人がこの世で生きていく際に現れる一切の対象であり、それは人がその性質に応じて正しく対処すべき事柄としてある。一切の事物において、「かくあるはず」と「かくするはず」が表裏一体である。
人を含む万物は天の営みの中で生み成されているのだから、天が万物にその理を賦与している。全ての理は「天理」(大自然の理)である。そして、あらゆる物事の個別の理も、根底においては実は一つである(「理一分殊」理は一つにして、分は殊なる)。根底において一つである理が個物において具体的な形をとるのである。

●人間論
(1)性
人には人の理があり、生まれつき人の理を心に内在している。それが人の「善」なる本性であり、人は人の理に従って生きるべきである。朱子学に限らず儒学一般は、人を、親子・君臣・夫妻・友人等の、種々の社会的役割の多面体とみなす。それらを総合して「人は人らしくあるべきであり、それを「天理」と呼ぶ。この理に従って行為すれば、天命に従い、人の理に循っていることになる。朱熹は『中庸』にて曰く「天の命ずる、これを性と謂ふ。性に率ふ、これを道と謂ふ」
ところが、人が道から逸れ、禽獣のようにさえ行為してしまうのは何故か? 本性としての理は同一だから、気に問題があるのである。凡人の気質はやや濁っており、その歪みとそこから生じる物欲で理の光の発現を妨げているのである。
本然の性とは、万人の生まれ持つ理そのもの、人としての本来性である。この理は、現実には一人一人の気質に覆われて存在し、個々人の差ができている。後者の意味での人の性質を、気質の性という。
但し、凡人でも、瞑目して静座し、心の外から何の刺激も受けずに無念無想でいれば、心は本然の性に即して何の偏奇もない(「未発の中」という)。外物に接して情(感情ではなく、心の外への現れをいう)を発し、言行に表す時、人の理と対象(物)の理に即して、心から情を発して行為できればよい(「已発の和」という)。心が正しく発現する時、それは情でありつつ理に適っているのである。但し、凡人にはそれができず、その言行には過と不及(過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし)が生じ、悪も生じてしまうのである。
(2)仁
人の理の内容は五常(仁・義・礼・智・信)であるが、その中心は仁である。万人に共通する人の本性の基軸は仁であり、それが義・礼・智・信の基礎でもある。
仁が中心になるのは、天の基本的在り様の反映である。天は万物を不断に生み成しており、それが天理であるが、人もまた、物を生み、生かしめ、慈しむことを、その在り様の本質としているから、仁が基軸となるのである。

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●修養論
(1)立志
凡人の気質は悪く、それ故、往々にして禽獣のように振舞う。しかし、凡人でも人として生まれ持った天理は完璧であり、孔子とも共通である。従って孔子のような聖人に、凡人でもなれる。ただ、「真に人らしくなるぞ」と決意し、努力を始めればよい。それを立志という。
その真に人らしくなるための努力を修養といい、学問という。信仰や啓示によってではなく、ひたすら実践によるのではなく、知的・理性的な努力によって凡人も人らしくなれるのである。
そのための方法が2つある。「居敬」と「格物致知」である。
(2)居敬とは、心がいつも天理に沿っているように、不断に天理=我が内なる本性に心を集中し、ひきしめていることである。これは、内面だけの自己規律ではない。身体(外面)の自己規律も含む。服装も整え、机の上も整頓し、常に温和で謹厳な態度で人に接する。そして、同時に、一瞬のとぎれもなく、引き締まった平静な心を保つ。そして、自分の心の動きに注意し、それが理に適っているかを不断に自己点検する。そのためには静座して瞑目するのも良い方法である。
(3)治国平天下の前提となる修身のためには心を正す必要があるが、そのためには格物致知をしなければならない。
物に格(いた)るとは、物事の窮極の所まで到達することであり、一つ一つの物事の理を窮めることである。修養・学問の根幹は、物事の理を窮めることが、朱熹の存在論・人間論の論理的帰結である。知を致すとは、自分の内なる知を発揮し尽くすことであり、事事物物の理を完全に明らかにすることである。
個々の対象の理を窮めれば、それだけ自分の内面の理も明らかになる(自覚できる)。つまり、対象を認識することと、自己の本来の知を発現させることは一事の両面である。
実際、朱熹は一木一草の理をも窮めようとして、天文・気象についても様々に理解を試みている。しかし、格物致知の中心となるのは四書五経等を読むことである。それらは、理を顕現した聖人の言行録であり、その編纂書だからである。読書し議論し行為しつつ、あらゆる物事の理を一つ一つ発見していけば、あらゆる物事に対する正しい対処法が必ず見つかる。
(4)永く努力を続ければ、ある時、からりと開けるように貫通する。これが理だと根底から悟れる、万物のあらゆる面が解り、同時に自分の心の一切が明らかになる。そうなれば聖人である。したい事=すべきこと、すべき事=したい事となり、一々思慮せずに、自ずから一切の事を正しく行えるのである。
本当に道理が解ればそれを実践できる。実践できないようなら本当に解っているとは言えない。窮理とは単なる情報の取得ではなく、自己の本来性への復帰=真の人になる過程だからである。この人間の存在構造上の本質への復帰を復初と言う。

●統治論
(1)公と義
聖人は他の人々を導くのが望ましいが、聖人はなかなか現れない。
そこで、それに近い人、修養してかなり道を知っている人が教育し統治すればよい。そして皆が天理を悟り、真に人らしくなれば、人と人の衝突はなくなり、この世の問題はすべて解決する。
道=天理とは公なるもの、普遍的で公正公平で、万人の共存を可能にするものだからである。
「天理という公、無我という公」に対比して「人欲という私、為我という私」という、「私」とは自私自利の欲望をいう。食欲や性欲は人として当然だから、否定すべき人欲・物欲ではない。人との共存を不可能にする私利私欲は本当の意味で人らしくないのである。
そこで、公なる統治者が、私に陥りがちな人民を、救い導くのである。これが仁政であり、しかも統治は教育と一体である。
朱子学では公・私と並び、義と利の弁別を重視する。
人として正しいことを正しいという理由だけでするのが、義である。ためにする所があってするのが利である。人である以上、人らしく生きてゆくのは当然であり、何らかの褒美欲しさに生きる(ex.立派な人だと思われたい)ということ自体、万物の霊としての尊厳の否定である。
従って、朱子学者は、現状が正しいと考えれば極度に保守的になるが、現状が不正であると考えれば、個人的利害とかかわりなく、孤立を恐れぬ断乎たる反対者ともなる。「無駄な抵抗」という考え方自体を拒否するのであり、朱子学者=保守的・伝統主義的というのは誤解である。
(2)太平
聖人が天子として統治している状態が理想である。天地と人間の結節点でもある天子が、天地と完全に合一している。天地の営みも何の狂いもなく、天災も飢饉もない。天子の徳の感化は天下に及び、万人みな太平を謳歌する。
しかも、誰でも聖人になれるのであり、なるべきである。凡人の小さな心も天地と直結しているのであり、この心を正しくし、身を修めれば、国は治まり、天下は平らかになり、天地の運行も整う。人たるもの、それを目指すべきである。
朱熹の語として有名なのが、「精神一到、何事かならざらん」「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」。朱熹が死の床で最後に弟子に述べた教えも「堅苦」(刻苦して一途に努力しなさい)だったという。
朱子学は、こうして、この世を超える超越者も、あの世も信ずることなしに、専らこの世に内在しつつ、存在・人間・修養・統治のすべてにわたる一貫した体系を構築し、実践を迫った。
徳川日本において儒学に関心をもった人々は、この中国(朝鮮)において圧倒的な権威をもつ思想に直面したのである。

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朱子学の創始者が朱熹(1130~1200)である。
儒教の体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。
このように朱熹は、それまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、性即理説(性=人間の持って生まれた本性がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ思想として体系化した。
朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「200年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。
『ウィキペディア』「朱子」
しかし、朱子学においても、儒学の根本部分は変わっていない。
すなわち、徳のある人物が徳のない大衆を導くべきであって、徳のある人物とは『四書五経』を勉強して科挙試験に合格した官僚であるというパラダイムである。
実際、朱子学の祖である朱熹も官僚であるし、その後、朱子学を信奉したのも地主階級⇒科挙官僚たちである。
一体、何故、このような思想体系を朱熹は構築しようとしたのであろうか?
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List    投稿者 staff | 2012-02-27 | Posted in 04.日本の政治構造3 Comments » 

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コメント3件

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