幕府側から見た明治維新
明治維新から150年、
明治維新は学校の教科書や司馬遼太郎、大河ドラマetc様々に美化されてきた。
勝てば官軍で、勝った側が好きなように歴史を捏造し、都合の悪い事実は封印するから当たり前である。
これは古代に遡れば、大化の改新(乙巳の変)によく似ている。それまで政権を持っていた蘇我氏が悪者にされ、大きな改新を行ったように見せた。そして日本書記が編纂され、正史とされた。
似ているのは、勝者による歴史の捏造だけではない。勝者になる過程も驚くほど似ている。
手段を選ばないテロだ。
・・・ここに幕府側から見た貴重な証言がある。
少し長いが、重要なので転載させていただく。
※事実は大英帝国を基盤とする金貸しが、世界戦略の一環として日本に触手を伸ばし、薩長・貴族の不満分子が飛びついた。それ以来、日本の支配層は金貸しの忠実な下撲となった。現代の日本政府は、このテロリスト集団の末裔にあた、明治以来売国政策を繰り返している。現在も安倍・麻生という山口の田布施一味と古代からの朝鮮閨閥がいまだに日本を牛耳り、日本人を染脳支配している。
「美化されすぎた明治維新」~明治維新以後150年の歴史が大きな節目を迎えている~ 地方からの情報発信さんより
「維新正観─秘められた日本史・明治篇」蜷川 新著については、批評社の紹介文をそのまま紹介する。幕府側から見た明治維新を知る事のできる貴重な本である。以下。
「維新」の名は美しく世人には響くけれども、事実は極めて醜悪に満ちている。われわれが国定教科書で教えられたことの大部分は、偽瞞の歴史である。その真実の究明から、新日本の「民主」を推進したい。(「序文」より)
尊皇攘夷の旗の下、幕府の開国政策に無謀な異議を唱え、孝明天皇の毒殺をはじめとする奸策と狡知によって、倒幕・権力詐取に成功したのが、薩長の奸賊集団であった。幕末維新史の実相を、史実に即して、大胆にしてかつ独自の視点から「正観」した明治維新論。類まれなる名著の翻刻版である。
幕末・維新史に関する文献は、さまざまにあり、さまざまな視点から分析されているが、この本ほど当時の事実に即して書かれた本は珍しい。なぜなら著者は明治6年生まれで幕臣小栗上野介の縁戚(甥)にあたる人物だからである。
徳川幕府の開国政策は、ペリーが東インド艦隊を率いて、1853(嘉永6)年6月3日(7月8日)浦賀沖に来航し、開国を求めるアメリカ大統領国書を提出したことによって大きく進展するが、老中阿部正弘らを中心に、諸大名から庶民まで幅広く意見を求めて、開国への準備を進めていた。翌1853(嘉永7)年1月(1854年2月)、ペリーは再び浦賀へ来航し、3月3日(3月31日)に、日米和親条約が結ばれ、下田と箱館を開港したのに続けて、8月には日英和親条約が、12月には日露和親条約がそれぞれ締結されて幕府の開国政策は大きく進展したのであった。また、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のために、万延元年(1860年)1月、大老井伊直弼の発案により、正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順(上野介)をアメリカから回送されたポータハン号と幕府の軍艦咸臨丸の2隻の軍艦に乗ってアメリカに向けて品川沖から出帆した。使節団一行は、アメリカの地で大歓迎を受け、さらにヨーロッパに向けて見聞を広めて帰国したのだが、その間に、大老井伊直弼は、桜田門外で暗殺されてしまった。
このように幕府の開国政策に無謀な異議を唱え、「尊皇攘夷」という時代錯誤も甚だしいこの攘夷運動に決起したのが薩長土肥の勤王志士と言われる謀略集団であった。
孝明天皇は頑な攘夷論者であったが、孝明天皇の妹和宮と第14代将軍家茂の結婚によって、公武合体を推進し、攘夷派の無謀を譴責して倒幕の愚挙を排撃し、長州藩と公家の7卿の処分を宸筆の勅許をもって公式に伝えたのである。これに憤激したのが薩摩の西郷吉之助、大久保利通、長州の木戸孝允(桂小五郎)、井上馨と公家の三条実美、幽閉されていた岩倉具視ら下級公家の陰謀集団である。彼らは薩摩藩や長州藩とは関係ない中で、倒幕へ向けてさまざまな陰謀、奸策をめぐらし、暴力や毒殺による暗殺などあらゆる策謀を図ったのである。
こうした動きがある中で、大老井伊直弼は、安政の大獄といわれる粛正を断固として敢行し、尊皇攘夷派を抑え込みながら開国へ向けて大きく舵を切って行ったが、その反動とも言える事件が勃発し、さらにその後に孝明天皇の毒殺という一大事件が勃発した。まさに暴虐の連鎖による内乱へと突き進んで行ったのである。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外で大老井伊直弼が水戸徳川家の家臣によって斬殺され、慶応2年7月20日(1866年)、大阪城内で第14代将軍家茂が毒殺されたが(同年8月20日まで伏せられた)、著者の父親、蜷川左衛門尉親賢は当時小姓組頭で将軍家茂に近侍していたため極秘事をよく知っていたのである。
さらに宮中においては岩倉具視が妹を女官として宮中に潜り込ませ、孝明天皇の毒殺を試みたが、一度目は失敗し、二度目に孝明天皇を毒殺したが、岩倉の妹女官は薩摩に連れて行かれ斬殺されたという。
一般に、孝明天皇は1866年12月25日に天然痘で亡くなったことにされているが、一度目の毒殺は失敗に帰し、12月11日頃から症状が出始めていたが、17日から便通もあり、食欲も回復し、熱も順調に下がり始めていた。二度目の毒殺で、21日から膿が出始め、23日には膿の吹き出しも収まって、全快に向かっていた。病状が急変したのは、25日。激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血という激しい死に様だったという。
「風評では(孝明天皇)崩御の原因は天然痘といわれたけれども、幾年かのちに、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝は毒殺されたのだと教えられた」(遠山茂樹著『明治維新』211頁)。当時の武士には武士道の矜恃がまだ残っていたが、薩長の反幕集団には、武士ではなく郷士という武士階級(士分)の下層に属した人々が多く、「尊皇」の志もないまま、損得利害だけで天皇毒殺という大それた犯罪もそれほどの抵抗なく行われた。
その端的な事例は、西郷吉之助らが江戸市中に放った500人近い組織的強盗団である。無頼の徒と化した強盗団は、放火、掠奪を恣にして50万両にのぼる江戸市民の財物を強奪したという(この記録は残っている)。この強盗団による謀略を誘い水に幕府を挑発し、江戸薩摩藩邸への攻撃を誘い出した。西郷は谷干城(たにたてき)に「戦端開けたり。速に乾君(板垣退助)に報ぜよ」と放言したという。西郷は幕府を内戦に引き込むための策謀をめぐらし、そのためだけに無頼の徒と化した強盗団を放ってあらん限りの掠奪を繰り返したのである。西郷という人は、謀略、奸策長けた人で根が陰湿なせいか、江戸無血開城をめぐって幕臣の勝海舟と密談した際に、奥羽越列藩同盟諸藩への武力攻撃を江戸無血開城と引き替えに断行する脅しをかけた節がある。勝は優柔不断な人で幕臣であるにもかかわらず、西郷の脅しに屈服してしまったらしい。
江戸無血開城は、いかることがあっても慶喜の首を取るまでは、と言い張った西郷がイギリス公使パークスに脅されて中止させられたのである。徳川慶喜が恭順の意を示し、謹慎、平伏しているのに、江戸武力総攻撃とは何事か、とヨーロッパ社会の掟(倫理)を楯に抵抗され、もし総攻撃するならイギリスも黙ってはいないと脅されたからである。
その後に続く混乱のなかで、西郷、大久保、木戸、岩倉等、薩長の無頼の徒が偽造した私文書でしかない「王政復古の大号令」「倒幕の密勅」「会津、桑名の藩主誅殺」の勅や鳥羽伏見の乱で幕府方を驚かせた錦旗の偽造(京都の染物屋が作った)によって、「尊皇攘夷」という時代錯誤の王政復古運動を倒幕、権力奪取へとすり替えて行ったのである。したがって、権力掌握後の薩長は、恥も外聞もなく、舌の根も乾かぬうちに「尊皇攘夷」の衣を脱ぎ捨てて開国・欧化を一挙に推し進め、幕末・維新史を捏造していったのである。
第15代将軍慶喜は、世に言う「大政奉還」によって徳川幕府の政治統治に終止符を打ち、新たな国内体制を構築するための上奏文を認めている(書いたのは三河の幕臣永井玄蕃頭と言われている)。
「前略、当今外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出不申候ては、綱紀難立候間、従来之旧習を改め、政権を朝廷に奉帰、広く天下之公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と可並立候、云々」
慶喜は、幕府権力を朝廷に帰一して広く天下の公議を尽くして合議制の下で協力し、皇国を保護すれば必ず諸外国と並び立つことができることを宣言しているのである。この上奏文は、五箇条の御誓文と基本的な枠組みは同じである。
慶喜の上奏に対し朝廷は、「祖宗以来、御信任厚く、御依頼在らせられ候えども方今宇内の形勢を考察し、建白の趣旨、尤に思し召され候間、聞こし召され候。猶天下と共に、同心尽力致し、皇国を維持、宸禁を安んじ奉るべき御沙汰に候事。大事件外夷一条は、衆議を尽し、其余諸大名同じく仰出され等は、朝廷 両役(伝奏、議奏)に於て取扱い、自余の儀は、召しの諸侯上京の上、御沙汰これあるべく、それまでの処、徳川支配地、市中取締等は、是れまでの通りにて、追て御沙汰に及ぶべく候事。」として10万石以上の諸侯に直ちに上京すべきことを命じたのである。
徳川親藩の諸侯や有力諸侯は、朝廷の意向に賛意をもっていたが、掠奪無頼の徒と化した集団の薩長には倒幕・権力奪取の野望しかない。
事前に行われた小御所会議でまたも岩倉具視の背後に控える薩長の陰謀と暴力によって会議は制圧されてしまうのである。尾張藩主徳川慶勝、越前藩主松平慶永、広島藩主浅野長勲、土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津忠義、岩倉具視、三条実美が列席していたが、薩長・岩倉側の旗色が悪くなるや否や、薩摩の岩下万平が西郷に相談すると、西郷は、「岩倉に向かい、貴殿の懐剣は利れるものなりや否やと問うてみよ」と脅しをかけるように伝えたという。西郷は天皇の面前でも構わずに山内容堂を刺せと示唆したのである。
慶喜は、こうした薩長の陰謀を阻止するだけの胆力も先見の明も持ち合わせていなかった。幕府軍と長州軍が戦った蛤御門の変で、幕府軍は長州軍を敗退させるが、二度にわたる長州征討に失敗し、慶喜は数十万の兵を見捨てて松平容保と共に江戸に帰還してしまった。
勘定方奉行の小栗上野介は、帰還した慶喜に薩長軍を打ち破る秘策を奉じるが、慶喜にはもはや戦意もなく、小栗上野介に胸ぐらを掴まれてもただ黙っているだけであった。将軍の器でない慶喜はひたすら命乞いのために恭順の意を示すため上野寛永寺に引きこもって謹慎してしまった。
小栗上野介は、仕方なく故郷の上野国権田村へ引きこもるために帰郷し、東善寺に寓居するが、そこへ西郷の指図で江戸市中であらん限りの暴虐を繰り返した無頼の盗賊団が押しかけ、小栗上野介には、「7000人の暴徒が潜んでいる」「7千余人を撃退する武力がある」「朝廷に反逆する企図がある」と喧伝し、発砲、放火、掠奪を繰り返した。さらに薩長軍に命令された高崎藩、安中藩、吉井藩の3藩の藩士1000人が東善寺を囲み、捕縛される理由もないまま烏川畔の河原で斬首され、挙げ句、鮮血に塗れた首を武竿の先端に突き刺し路傍に立て梟首の辱めを与えたのである。
こうしてあらゆる権謀術策を弄して権力を詐取した薩長は、血塗られた明治維新政府(藩閥政府)を樹立し、五箇条の御誓文とは似て非なる近代国家をつくりだして行ったのである。ネジレにネジレた明治維新政府は、日清・日露戦争に勝利を収め、さらなる海外侵略を目論み、朝鮮・中国への侵略を現実化してアジア・太平洋戦争へと突入し、崩壊してしまうが、近代日本の保守思想には、こうした忌まわしい歴史が底流となって流れているのではないかと思う。(引用終わり)
いろいろなご意見はあるだろうが、これほど貴重な歴史の証言はないだろう。小栗忠順の甥が書いているのだから。時間のある方には一読を勧めたい。
<蜷川 新 略歴>1873(明治6)年5月生まれ(1959年8月没)。東京大学法学部卒、同大学院国際法専攻、法学博士。ベルサイユ講和会議、ワシントン軍縮会議など、政治、外交、赤十字国際会議に列席。第1次世界大戦後、「平和時の赤十字」を提唱し、5大国代表と協議し1919年赤十字社連盟を創立した。歴史の専門家ではないが、法学的視点から幕末・維新史の特異な分析を試みる。
引用以上
by Hiroshi
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2021/08/12757.html/trackback