2012年12月03日

葛城の正体 三国志の呉or秦代の徐福が伊豆を拠点に、関東・中部東海~近畿~出雲を支配

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「伊豆葛城山」
画像はこちらからお借りしました。
「天皇制国家の源流10 百済発の応神勢力と手を組んだ葛城勢力」によると、ヤマト王権と手を組んだ葛城氏の力の基盤が海運力と外交力、そして鉄資源を押さえたことにあった。
今回は、葛城氏の出自を明らかにします。
「謎の小説家・未来狂冗談(ミラクルジョウダン)氏のHP【葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説】の要約です。
古代史の常識を覆す、非常に興味深い説です。
(「引用・転載する時は、必ず出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。」とのことなので、リンクしておきます。)
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●葛城の本拠は伊豆にあった
日本列島に於ける単一日本民族の成立過程で起こった経緯が、渡来系の加羅族(農耕山岳民族)と呉族(海洋民族)、現住縄文人(蝦夷)三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合(ヤマト)である。
日本列島の西日本は初代神武大王の下に漸く統一を見るが、ただしこの統一大王と有力部族国家の連合体で、大王は各部族王の認証による最高位に過ぎなかった。
そこで、両者統合の後に民意を掴んで台頭して来たのが、海洋民族・葛城氏族(賀茂氏族)である。
古事記・日本書紀によると、五世紀後半頃の葛城氏(賀茂族)は神武朝に心服した大豪族(臣王)で、神武朝に葛城族から嫁を出す誓約(うけい)の形式を採って居たようである。
また、古事記や日本書紀では葛城氏(賀茂族)は、大和葛城の地に本拠を置いていた古代豪族と言う事に成っているが、この説には符合しない事実が、伊豆半島の「伊豆葛城」や「賀茂郡」に存在する。
伊豆半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、枚挙に暇の無いほど古代王城(都)の地(紀伊半島内陸部・奈良盆地一帯)と所縁の同じ地名が点在している。
葛城氏の初期の支配エリア(本拠地)は、この伊豆国である。
その都は、伊豆半島の中央を流れる狩野川(古い名前は賀茂川または葛城川か?)が生み出した田方平野の一角、伊豆の国市大仁の「田京」である。
田京の西正面に見えるのが、伊豆葛城山である。葛城山は王城の山で有り、奈良飛鳥の西正面にも同じ奈良・葛城山がそびえている。
この伊豆大仁・田京が飛鳥京のモデル(原点)である。

●三国志の呉or秦代の徐福が脱出して伊豆に流れ着いた。
秦の始皇帝時代(紀元前二百二十年頃)に中国沿岸部に、「海人族」として倭人(ワィ)と呼ばれる部族が存在した。
徐福は、始皇帝の不老不死願望に期待を抱かせる事に成功すると大船団を編成、大勢の技術者や若い男女ら三千人を伴って渡航、まんまと新天地に移住した。
この徐福の航海を可能にしたのが、中国沿岸部に居住していた倭人(ワィ)と呼ばれる部族(海人族)が持つ大航海技術だったのである。

倭人(ワィ)と呼ばれる部族(海人族)は、その大航海技術を駆使して黒潮の海流に乗り、朝鮮半島や日本列島に進出、各地に移住して行く。
黒潮は、日本列島の北太平洋側、鹿児島沖、四国沖、紀伊半島沖、伊豆半島沖を掠めて北上する幅が狭く強い流れの暖かい海流であるが、この黒潮は、気候変動と連動して広い北太平洋を時代時代で流れを変えながら日本列島に近寄ったり離れたりする。
魏帝国(三国志時代)の「魏志倭人伝」にみえる倭国内の国々の一つである伊豆(伊都)国が成立する少し前の黒潮は、比較的日本列島からは離れて流れていた時代だった。
同じく三国志時代に呉帝国から新天地を求めて船出した海の旅人(賀茂・葛城の前身となる呉族系氏族の一群)は九州島・鹿児島沖、四国島沖、紀伊半島沖、伊豆半島沖の陸から遥か遠い位置を航行、辿り着いたのは伊豆半島沖・伊豆諸島の三宅(宮家)島だった。
つまり伊豆の国の始まりは、黒潮に乗って北上してきた海洋民族の葛城氏族(賀茂氏族)が、伊豆諸島に辿り着き、次に伊豆の白浜に上陸して序々にその範囲を拡大して行った事になる。
葛城氏族(賀茂氏族)は、やがて田方平野に辿り着き、田京を中心に王国伊豆(伊都)国を成立発展させて行き、中部・東海~畿内へと西に向かって進出してゆく。

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●葛城は物部と同族であり、出雲まで支配していた。
古事記・日本書紀の記述によると、葛城氏(賀茂族)は、紀伊半島内陸部・奈良盆地一帯に神武東遷以前から住んでいた事に成っている。そこに神武大王(おおきみ/初代天皇)が神武東遷でやって来て、葛城氏(賀茂族)は恭順する。
そして、磐余彦尊(後の神武)が南九州から東征して来た頃、生駒山麓から奈良盆地にかけて勢力を張っていた豪族が長髄彦である。長髄彦は、物部氏の祖神とされる饒速日命(ニギハヤヒのミコト)を主君として仕えていた。
そして、葛城の主神は事代主神(大国主神の子)である。神武が熊野から大和に入る険路の先導役が八咫鳥(やたがらす)であり、その正体は、これもまた大国主の子=賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)である(山城国一宮・上賀茂・下鴨の両神社に祀られている)。
つまり、賀茂葛城・物部は同族(出雲系)である。
葛城氏(賀茂族)が伊豆半島から西に進出して本拠を紀伊半島・奈良盆地一帯に西遷(移した)以後に神武東遷を迎えた事になる。
葛城御門(葛城朝)から、職掌としての武器を管理する物部氏と神事・呪術を管理する賀茂氏が分かれ出た。物部氏の一部が紀州・熊野の地で穂積・鈴木氏として武士兼神主になった。熊野・鈴木氏は、熊野水軍の棟梁家としても有名で、伊豆・賀茂葛城氏族の海の民とも符合し、その交流も時の政権とは関わりなく相互に永く続いている。
また、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する久伊豆神社の祭神は大己貴命(大国主)であり、久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。

●葛城は崇神(神武)から大王の位を引き継いだ?
葛城氏は、大王家確立後、葛城「臣」と成るが、かつては大王家に対抗出来る最大の豪族、あるいはもう一つの「大王家」、つまり「御門(みかど)であった」と言われている。
古事記・日本書紀の記述では、五世紀後半頃の葛城氏(賀茂族)は神武朝に心服した大豪族(臣王・国主)で、神武朝に葛城族から代々嫁を出す誓約(うけい)の形式を採って居たようであり、大臣・葛城円が雄略大王に滅ぼされるまで、大和朝廷は「大王家と葛城家の連合政権であった」とされている。
それほどの力を持った葛城臣王家・大臣・葛城円が、雄略大王に攻め滅ぼされ、葛城臣王家が消滅したと言うのである。
これは謎である。
大戦なら相応の歴史的事件としての扱いがある筈なのだが、戦乱も続かず目立った分家も残らず、簡単に葛城臣王家を跡形も無く根絶やしにする。
そんな事が、現実的な状況として起こり得るのであろうか?
古事記・日本書紀は、皇統の正統性を殊更強調する事を目論んで編纂されたものである。古事記・日本書紀の編纂以前にこの葛城氏族(賀茂氏)ついての詳細が無く、どの程度皇統の正統性を脚色しているかは定かではなく、手放しで鵜呑みにはできない。
古文書には、大王家と大臣・葛城家の「連合政権」の記述や「神武朝に葛城氏族から嫁を出す」などの記述が微妙に表現されている所を見ると、両者の力関係が同等もしくは葛城氏族(賀茂氏)が上回って居る事も考えられ、神武朝から内実が葛城朝に代わっていた事も充分に考えられるのである。
「賀茂・葛城一族」は古事記や日本書紀が伝えるごとくに単なる機内の豪族ではなく、神武王朝に匹敵する相当の実力を擁した御門(みかど)だった事は間違いない。
有力王(国主)が乱立しての合議統治の時代で、未だ大王(大国主)の世襲が固まらない大和朝廷創生期の頃の事である。入れ替わっても不思議は無いのだが、その資格において継続性が重視されたのは天孫光臨(降臨)の天子として神の力で統治する建前であったから、皇統の交代を高らかに宣言する訳には行かない。天孫光臨(降臨)の建前で皇統の交代が宣言出来ないなら、「皇統を乗っ取るしかない」とは考えられないだろうか?
古事記・日本書紀に於いて、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の大王は、後に創作された架空のもの(欠史八代)とされている。
そして、第十代・崇神大王が実在した初代天皇とされている。
崇神大王の別名である御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つからである。
それでは「欠史八代」の謎をどう捉えれば良いのだろうか?
そこで登場するのが伊豆・伊都国に誕生し、勢力を拡大して紀伊半島奈良の地に新たに葛城の都を創った賀茂・葛城朝の存在である。
黎明期の大和朝廷組織がまだ固まって居ず権力が流動的で、神武朝大王から大王の位を葛城が簒奪した。つまり、元々の葛城の宮は、伊豆葛城山の麓に田京に存在した。大王が入れ替わった痕跡を消す為に、元の伊豆国(伊都国)より立派なものを大和国に葛城の地として瓜ふたつにカモフラージュ創造した。
実際、大王家には氏姓が無い。何故なら、この世に唯一無二の氏姓を授ける側だからである。
葛城氏が大王家を継いだ事で、中央からこの氏姓(葛城)が消えた事は、この氏姓を授ける側に成ったからである。
つまり、旧王朝(神武大王朝)から、伊豆に興った葛城王朝が、現実的に大王(天皇)の位を引き継いだ。
そして、当時の最有力の豪族には中臣姓から藤原姓に替わった藤原氏が居た。
また、徐福が日本列島へ住み着いた征服部族が秦氏と言われて居る。

●葛城の力の基盤は、伊豆の金山だった。
伊豆国は非常に豊かだった。
田方平野は、肥沃な河川平野の上に温暖な気候で稲作に適していた為、収穫が良かった事も有るが、もう一つ、地の利を得ていた。
それは金鉱の存在で、或いはこの事が秘すべき事として、賀茂・葛城朝の大王就任と伊豆国の存在を隠した理由かも知れない。
黄金の国ジパングの謎の原点は、伊豆の国の隠し金山である。
伊豆国は、往古より黄金の産出する土地だった。
そして、こうした鉱山探索の仕事は朝廷から各地に派遣された影人集団・陰陽修験者の仕事でもあった。
実は、この伊豆の金山が紀伊半島の吉野と非常に関わりがある。
学者・研究者の説では、「吉野には隠し金山が有ったのではないか」と言われている。
しかし、吉野の金山はまったく採掘の記録がないまま「手をつけては成らぬ」と言う伝承が有るだけで、表面化した歴史は無い。「吉野に金山があった」と言う伝承はあるが、未だにその痕跡すら発見はされていない。
そこで、この伊豆半島と紀伊半島の関わりについて、別の推理をした。
吉野周辺では、丹(辰砂・水銀)が採れた。
当時、水銀は大変利用価値のある産物で、まず薬として使われ次いで朱(赤色)が得られるため塗り物に使われ、日本の古くからの「**丸」の対抗として存在する「**丹」は、この水銀が薬として使われた名残である。
次に大きな注目点としては、安土・桃山期に西洋の金の精製法がもたらされる前は、この丹(辰砂・水銀)が金の精製に使われる貴重なものであったのである。
従って、当時「辰砂(しんしゃ/神砂)」の産地を押さえる事は、大きな力を得た事であった。
手に入れた力は維持しなければならない。
そうなると本当の産金地を隠し、精製に必要な丹(辰砂・水銀)を手に入れるには、紀伊半島にその本拠地を移す必要がある。
賀茂・葛城の一族は、伊豆半島に信頼の置ける同族を配置し、「特別な土地」とするとともに、紀伊半島に、故郷伊都国(伊豆国)と同じ様な地形(奈良飛鳥の地)を選び、故郷と同じ名称の地名をつけて都に仕立て上げた。

つまり二つの懸案を解決する為に、伊豆の地の賀茂・葛城の痕跡を消しながら、神武東遷物語のヤタガラス道案内神話(賀茂・葛城の協力)をでっち上げまんまと伊豆半島から目を逸らせたのである。

List    投稿者 staff | 2012-12-03 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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