2011年06月21日

次代の社会統合の場を考える5~市場は社会を統合する機能を持たない~

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国家という肥大化した集団の統合は、力の原理を背景とした「身分」という評価指標を万人が共認(追共認)することによって成立してきたことと、しかしながら、力の序列共認による統合には限界があることを「シリーズ①②」で紹介してきました。
また、力の序列統合=闘争(能力)適応の限界を突破する為に、抜け道としての「共生(取引)適応」である市場が登場し、その市場の中では、「お金」という評価指標を万人が共認することで、私達の社会は何をするにもお金がかかる社会となってきたことを「シリーズ③④」で紹介してきました。
つまり、私達は、国家という集団では「身分」を評価指標とし、その抜け道としての市場という場では「お金」という評価指標を共認しながら社会生活を営んでいることになります。
今回は、この2つの評価指標に着目しながら、国家統合の前提になっている「身分」という指標と、市場での評価指標となっている「お金」との関係はどうなっているのか?について述べられている記事「超国家超市場論11」を紹介していきたいと思います。

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「身分」も「お金」も、評価指標として夫々の社会で固く共認されており、その共認圧力が夫々の社会での最大の圧力源=活力源にもなっている。しかし、この両者には大きな違いがある。
その違いは、根本的には、身分を作り出す国家が闘争圧力に対応した「集団(統合)適応」の存在であるのに対して、お金を作り出す市場は闘争圧力からの抜け道としての「共生(取引)適応」の存在である点に由来している。
身分(という評価指標)は、肉体的に備わった統合原理である力の序列共認を下敷きにしており、それが上から下まで貫通する身分という観念に置換された事によって、社会全体を統合する機能を持ち得ている。
それに対してお金は、私的な交換の場での評価指標にすぎず、交換の行われる局部・局部では統合機能を持ち得ても、社会全体を統合する機能は持ち合わせていない。
「闘争(能力)適応」や「集団(統合)適応」なら、その最先端の闘争機能や統合機能は、闘争圧力に対応する最先端機能であるが故に、全体を収束⇒統合することが出来る。しかし、もともと市場は、「共生(取引)適応」の存在である。共生(取引)適応は、あくまでも闘争圧力からの抜け道に過ぎず、共生適応の最先端機能たる取引⇒お金では、(闘争圧力が消えて無くなった訳ではないので)闘争圧力に対応することが出来ない。つまり、共生(取引)適応はあくまで抜け道機能しか生み出さないのであって、それは闘争圧力に対する真の最先端機能ではない。従って、全体を収束⇒統合することはできない。
これが、市場が社会を統合する機能を持ち得ない、究極の理由である。

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①「身分」とは、社会(集団)統合を実現する為に必要とされた観念(指標)であり、力の序列を基に成立している。
②「お金」とは、社会(集団)統合とは関係なく、私権を確保していく為の指標であり、抜道⇒取引の道具である。
つまり、私達の社会で使われている「身分」と「お金」は、そもそもの目的から成立の背景まで、適応様式としてまったく異質なものであり、「お金」がつくる市場には、最初から社会を統合する機能を持ちえないということがわかります。
例えば日常生活の場面でも、名刺や名簿などに記載される情報は、大抵身分(役職や学暦)などを記載しますが、さすがに年収を示すような人はほとんどいません。
これは、社会空間で見ず知らずの人と関係を図るとき、「身分」の相互認識は必要ですが、「お金」の量を相互認識する必要性はないからなのでしょう。逆に必要になるときは私的な取引が発生するときに限られます。
また感覚的にも「お金」という指標は私的な臭いや、私益追求の臭いが付き纏っている=社会空間ではおおっぴらにしづらいことを、誰もが感じ取っているからなのではないでしょうか?
いずれにしても、集団にかかる闘争圧力は脇において、私権獲得するには?⇒抜道⇒取引⇒お金!では、個体の私権は充たされるかもしれませんが、集団にかかる圧力は何も変わっていない。結果、集団として適応できない=統合できないのは、当たり前ですね。

事実、市場は社会生活を営む上で不可欠の社会基盤(道路や港湾や上・下水道etc)さえ、決して自らの手で構築しようとはしなかった。それどころか、自ら(=市場の拡大)が作り出した貧困(⇒福祉)や戦争さえ、その遂行と尻拭いの全てを国家に押し付てきた。そして自力で拡大することが出来なくなった今では、自分自身の拡大さえも国家(国債)に押し付け、国家(地方を含む)は700兆もの借金で首が廻らなくなって終った。
ここまで来れば、市場が国家の寄生物でしかないことは、誰の目にも明らかだろう。
要するに、市場はどこまでも私権闘争の抜け道でしかなく、従ってそれ自体では決して自立して存在できず、国家に寄生するしかない。だから、市場は、云わば国家というモチに生えたカビである。カビがどんどん繁殖すれば、やがてカビ同士がくっつく。世間では、それをグローバル化などと美化して、そこに何か新しい可能性があるかのように喧伝しているが、それも真っ赤な嘘であって、市場が国家の養分を吸い尽くせば、市場も国家も共倒れになるだけである。国債の暴落をはじめ、その可能性は充分にあると見るべきだろう。

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確かに、道路や空港、港湾整備やライフラインの整備は国家任せとし、その基盤の上で各企業が私益競争に邁進してきたのは明白ですし、私権の確保に陰りが出ると、公共工事や補助金事業だのと、国家の借金に依存し自らの私権拡大を維持してきたのも事実です。
また、市場拡大により万人に私権獲得の道が開かれていくなかで、村落共同体が崩壊→核家族化していき、本来「お金」が発生しなかった人間関係のあり方までが、福祉事業などのかたちで、「お金」のかかる取引関係に置き換わり、国家の負担増大の要因になってしまっているのです。
昨今の、大銀行や大企業の不始末に対する公的資金での保護や、市場による経済活動を優先するあまり、国益(領土問題や国防問題)を損なう外交や、今後おそらく国家が尻拭いをするであろう原発事故なども、まさに市場が、国家に寄生し、国家の養分を吸い尽くしている現象として上げられるでしょう。
結果現在、寄生する市場が増殖し、国家の負債は1000兆を超えてしまう段階にきています。
マスコミなどでは、市場が成熟していけば景気も回復し、より良い国家に変わっていくなどと真っ赤なウソを流布してますが、そもそも市場は社会統合の機能を持たない。という認識が欠落しているのですね。

次回は、このまま市場が拡大を続けていくと、国家はどうなってしまうのか?
そして、その状況に備えて私達が思考しなくてはならないテーマはなんなのか?について考えていきます。

List    投稿者 kentaro | 2011-06-21 | Posted in 14.その他3 Comments » 

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コメント3件

 norge hermes handbags | 2014.02.02 4:25

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 Pandora Charms | 2014.03.12 5:59

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