2013年09月27日

新概念を学ぶ16 共認回路と自我回路-共認こそ原点であり意識の統合者である-

これまで「新概念を学ぶシリーズ」では16回をにわたって、生物の進化過程において生命の誕生から哺乳類、猿への進化をたどってきました。
その過程で生命は外圧適応態として、可能性に収束し、逆境を迎えるごとにそれを乗越えて進化を続けてきました。中でも私達人類に通じる種の進化として、弱者ゆえに性闘争を極端に強化した哺乳類が登場し、その中でも齧歯類との生存競争に敗れた原モグラから原猿が登場しました。そして、原猿は本能を超えた不全という逆境の中で、新たな進化機能である共認機能を獲得し真猿へと進化したのです。
いよいよ、これからは、共認機能を獲得した真猿から、人類の誕生へと進みます。今回はまず、近代社会にまで続く共認機能のしくみやその影に潜む重要な概念、「自我」の誕生について明らかにしていきます。

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それではまず『実現論』「第一部 前史 ホ.サル時代の雌雄分化」から引用します。

だが、共認機能は決して完璧ではない。それは、必然的に自己の破壊回路を生み出して終う。期待・応望回路は、役割充足欠乏(=期待に応えている充足の欠乏or 期待され認められることの欠乏)を生み出す。とりわけ評価共認は、期待・応望回路の周りに「与えられない期待や評価」に対する欠乏の塊を生み出し、そこから他者否定と自己賛美(正当化)を目的とする自我回路が形成される。(前述した-捨象+収束の+=ドーパミン快感回路で形成されている。)この自我回路が形成するのは、全て「与えられない期待や評価」の代替物であり、従って全てが実在しない幻想である。また「与えてくれない」相手や集団に対する他者否定と自己正当化の塊なので、共認の敵対者とも破壊者ともなる危険性を秘めており、言わば共認機能が生み出した鬼っ子である。

ここでの鬼っ子「自我」とはいったいどのようにして生み出されるものなのでしょうか。また、必然的に生み出される共認の破壊回路とはいったいどんな回路でしょうか。相手の期待に応えようとする真猿の期待・応望の流れにそって考えていきます。
(1)自我は共認の否定 
 
真猿が仲間の期待(課題や役割)に応えようとする際(雌が首雄の期待に応えようとする際も同じですが)、まず頭の中に充足イメージ(応合のイメージ)を描き、それを活力源とも先導力ともして、応合行動をとっています。この充足イメージの大部分は過去の体験記憶を元にしていますが、その記憶には自分の体験だけでなく、仲間たちの体験も含まれています。更に一部は願望=幻想です。とりわけ、-捨象・+収束のドーパミン回路によって描かれた評価の充足イメージは、幻想性が強くなります。 従って、自分で頭の中に描いた期待や評価の充足イメージと、現実に周りから与えられる期待や評価(それらは、周り=仲間によって共認されています)との間には、ギャップが生じます。しかし、ギャップが生じるからと云って、必ずしも自我が生じる訳ではありません。同じドーパミン回路を使って充足イメージで+統合し、その実現に向けて努力すれば良い結果につながります(その場合、自我は生じません)。 問題は、周りから与えられた期待や評価を(頭の中の充足イメージとの対立から)不満視or否定視した場合です。その時はじめて評価(≒共認)捨象・自己陶酔の自我(回路)が形成されます。とは云え、彼は皆の評価共認の全てを否定→捨象している訳ではなく、むしろ自分(と特定の否定対象)に対する評価以外の、大多数の仲間たちに対する評価は自分も共認しています。ただ、自分(と特定の相手)に対する評価だけは認めたくないので、捨象して頭の中の+幻想イメージへと収束する訳です。
概ねは共認しながら自分に対する評価だけは捨象するというのは、何とも都合の良い身勝手な回路ですが、この様に自分だけを特別化→絶対化しようとする意識であるからこそ、後に、人類によってそれは「自我」と呼ばれるようになったのでしょう。
(2)近代思想(教育)は自我を原点にすりかえた(結果として社会は崩壊寸前)
 
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それでは自分だけを特別化し、共認捨象・自己陶酔をまねく「自我」の意味についておさえておきましょう。
  
実現論に書かれた「自我」は一般的に言われる「自我」とは少し違います。辞書を繙くとこう書いてあります。
  

じが 【自我】 〔英 self; (ラテン) ego〕 (1)〔哲〕 自分。自己。意識や行為をつかさどる主体としての私。対象 (非我)・他者(他我)から区別されるが、他我もまた一個の自我である。人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。⇔非我 (2)〔心〕 (ア)自分自身に関する主体としての意識の総体。自我意識。 (イ)精神分析で、イド・超自我とともに人格を構成する心的領域。イドと外界の現実や超自我との間で現実原則に従って調整をはかるもの。エゴ。 【 大辞林第二版 】

 
一方で「実現論」で使用する「自我」はそれ自体は幻想や妄想であり、時として共認の否定が生み出してしまう「まぼろし」として捉えます。このまぼろしとも呼べる「自我」は真猿に限ったことではなく、現代社会に生きる我々人類の中でもその発展と共に自己賛美、自己正当化のもとその中核にあるのです。これまで、私達は人格形成の中核を「自我」と呼び、それを確立することこそ、人の成長としていますが、実は共認形成、共認の確立にこそ人の成長はあるのではないのでしょうか。
 
例えば、日常の場面で考えてみましょう。
よく育児書などで2歳児くらいの段階で、なんでも「自分でする!」と言い始める時期を自我の芽生えとして“自己主張”が発現する時期と言っています。
しかし、これを『共認の確立』の過程ということで捉えると、まったく違った解釈ができるのです。「自分でする!」ということは自分の親や周りの大人を真似して”やってみる”という課題を設定・共認し、「見て!見て!」や「(自分でできて)すごい?」という確認行為により行動の評価を受けて充足を得ようとしているだけで、自分のやりたいことを“主張”して、“要求”を通そうなどとは微塵も考えていない、ということになるのです。
 
また、3~4歳頃は第1次反抗期、13~14歳頃は第2次反抗期(人によっては6~7歳頃を中間反抗期)と呼ばれ、一般的には「自我の芽生え」から「自我の確立」へのステップとして、自己と他者の区別を明確につけ、「自立」していく段階と捉えられています。
これも同様の視点で見ると、全く異なった事実が見えてきます。これらの時期はちょうど幼稚園、中学校(小学校)への進学する時期と一致します。当然子供の意識としては、新たな仲間との共認が第1義的な価値を持ちます。閉塞した一対婚家庭の中での共認内容とは相容れない部分が多数存在し、引力は“仲間”にあるので、親(の価値観)との対立が起こるのも必然です。一対婚家庭という狭い世界から見れば、“自己”の確立に写りますが、仲間世界から見ればあくまで“共認”の確立(の過程)でしかありません。
 
上記のように、『共認の確立』という概念で捉えると、様々な問題現象も、「ではその共認内容はどんなだったか?」と思考をどんどん対象に向けることができ、行動の正邪判断もその突破口も見えてきますが、個人(自我)に立脚した途端に、上っ面の現象認識(しかも事実誤認)にしか至らないので、結局個々の個人の価値判断に委ねられるしかないことが解ります。
 
このように、近代教育やその元になっている近代思想は自我を原点or意識の統合者にすりかえています。そして、近代社会は自由・個人・権利etcの観念による近代思想に導かれて発展してきました。しかしその結果が財政破綻・環境破壊・精神破壊であるとすれば、その責任は極めて重大です。ところが、個人主義は、これらの結果に対して、全く何の責任も取っていません。それどころか、「それは個人主義のせいではない」や「本来の個人主義は違う」など、厚顔無恥な言い逃れに終始しています。
否定視(→共認捨象)した場合・・・もっと突き詰めると、「常に」充たされない(過去に「常に」充たされなかった)場合に限り、人類の意識は「自我充足」へと収束してしまうのです。
 
(3)共認こそ原点or意識の統合者になる 
 
つまり、「恒常的な」共認不全⇒自我収束の構造であり、「自我」誕生の背景には、「恒常的な共認不全」があるのです。
また、自我はあくまで規範や評価etcの共認に対する否定を源泉として始めて成立する共認機能の副産物ですが、同時に否定に基づいているが故に共認(充足)を破壊し本源集団を破壊してゆく敵対物(共認の敵対物)でもあります。
これは、人類における人格形成の過程にも、そのまま当て嵌めることができます。実際、人格の形成は、母子や仲間との親和充足体験=期待・応合回路の形成をもって始まります。そして、期待・応合回路が発達してゆくにつれて、その先に課題共認や役割共認や規範共認あるいは評価共認etcの共認回路が形成されてゆきます。それに伴って、周りのそれら様々な共認内容に対する否定を源泉とする自我回路が形成され始めるのです。共認の敵対物たる自我は、その後しばしば凶暴な他者否定・自己正当化の相貌を露わにします。それに対して、親和共認や役割共認や規範共認etcの共認回路が自我回路を制御(一部は封印)することによって、人格は成長してゆきます。
 
ところが、近代人は人格の形成を「自我の確立」と呼び、全ての学校で「自我の確立」を善とする染脳教育が行われています。これは、事実に反するとんでもない誤りであり、霊長類の命綱たる共認機能に対する極めて犯罪的な破壊行為でしょう。事実は、『共認の確立』こそが、あるいは象徴的に云えば『規範(意識)の確立』こそが、人格の形成なのであって、もし共認を捨象して自我だけを確立させれば(自我は決して確立など出来ませんが)、分裂病その他に発狂して終うに違いありません。(現代人が多かれ少なかれ狂っているのも、その様な自我思想や自我教育の所為ではないでしょうか。)
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現在でも、かつてのような理由(絶対的な序列と私権の強制圧力)は衰弱しましたが、残存する旧観念と旧自我による自我の連鎖が残っていると言えるのではないでしょうか。
いったい自我連鎖の行方は、どうなっていくのでしょうか。
しかし、最後に忘れては行けないのは
  
「自我ではなく、共認こそ原点である」 
ということです。
  
「共認」とはあくまで相手の期待に応えたい、どうしたら応えられるか、ということが本質であり、原点であるという考えです。これは仏教で言う「無我」のような自我や個人の自己正当化観念に対する単なる批判だけではない点で全く新しい認識と言えます。そして、人類史上、画期的な認識であるとともに、最も本質的な視点と言えるのではないでしょうか。

List    投稿者 GO-MITU | 2013-09-27 | Posted in 13.認識論・科学論No Comments » 

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