1万年前~3500年前の中国の歴史年表
画像はこちらからお借りしました。
「中国の部族移動の歴史」シリーズが始まった。
その参考に、1万年前~3500年前の中国の歴史年表を掲載する。
作成にあたっては、『図説 中国文明史Ⅰ 先史』を参考にさせていただいた。
いつも応援ありがとうございます。
●1万年前~ 温暖化が始まる。
新石器時代の前期。
華北、長江中流域、華南などの地域で定住生活が始まり、農耕、家畜の飼育、土器の製作などが始まる。石器は打製石器から磨製石器へ変化。
●8000年前~6000年前(最温暖温暖期)
人口増加→単位集団分割によって、中国の大部分が母系氏族共同体社会に移行。婚姻制は群婚制。このことから考えて、おそらく南方モンゴロイドの社会。その特徴を最もよく表しているのが仰韶文化。
伝統的な精霊信仰に加えて、男根崇拝や龍信仰も。専業的なシャーマンが出現し、卜占活動に従事。
●7000年前~5000年前
長江流域の河姆渡文化では稲作農耕が発達。黄河中流域の仰韶文化、黄河下流域の大ブン口文化、長江中流域の大渓文化の3つの勢力。
その中で仰韶文化の勢力範囲が最大。仰韶人の骨格はモンゴロイドの東アジア型の特徴を持つ。母系制群婚制であることから南方モンゴロイドの社会か?
同時期の中国東北地方は現在の遼南や河北の気候とほぼ同じで、狩猟や草原での遊牧に加えて農耕も。
『古代で遊ぼ』「中国と半島の始祖伝承」によると、
7000年前(BC5000頃)に吉林省や黒龍江省でバイカル民(沿海州のユウ婁など)とモンゴル民(鮮卑など)が葛藤しており、後に日本に大きな影響を与える「扶余」が半島北部に誕生しています。北部では鮮卑と扶余、東岸では扶余とユウ婁の影響下にあって、西岸や南岸では「古倭民」系譜だったでしょう。
また、この温暖期のチベット高原は、比較的温暖湿潤で十分な降雨量があり、草木が茂り動物も多く、人間にとって非常に良好な環境だったらしい。
●6000年前~5000年前 寒冷化が始まる
母系氏族社会の後期、父系氏族社会への過渡期。
黄河流域と長江流域で防御性の高い城堡が出現。
長江流域の太湖地域の良渚文化では、権力の象徴である祭壇と貴族墓地が出現。このことは、神権と軍事統率権を集中した部族連合の首長の出現を示唆。
●5500年前 寒冷化
黄河中流域の仰韶文化は凋落、仰韶の住民は西遷し、甘粛・青海に移動し、そこで彩陶文化を広める。甘粛・青海はチベット族の拠点であり、そこで南方モンゴロイドの仰韶人とチベット族が混血か?
山東半島の大ブン口文化(東夷)は強力で西に向かって中原へと勢力拡大→山東龍山文化へ。
また、長江中流域の江漢平原の勢力(大渓文化→石家河文化≒三苗族?)は北へ進出。
●5500年前~4000年前
新石器時代後期。私有制を伴う父系氏族社会。婚姻制は一夫一婦制の族外婚で、男が私有財産を掌握・継承。
黄河流域と長江流域は相次いで首長制の都市国家的な原始国家へ移行。城塞が林立し、酋邦の間には常に略奪性の高い戦争が発生した。
伝説の五帝はこの時期の酋邦の首長である。黄帝、炎帝(夏族)、蚩尤(東夷←大ブン口文化)の間では、現在の河北省張家口一帯で戦争が起きる。
同時期のチベットでは、カロ文化(チベット語で「砦」)。
『古代で遊ぼ』「中国と半島の始祖伝承」によると、中国最初の夏王朝の始祖である炎帝神農は羌姓(キョウ)、つまりチベット系であったという。
チベット自治区、青海省、甘粛省付近は古代遊牧民テイ羌氏族の活動領域(羌は羊と人の合成文字)。炎帝神農は甘粛省天水付近に住み、黄帝は四川省西部金沙江(通天河)に住んでいた。甘粛省の遊牧民は敦煌や楼欄経由で、金沙江の遊牧民は通天河経由(遊牧回廊)で西方文化やチベットインド文化と接触して力を蓄えます。
これが事実なら、夏王朝を建てたのはチベット系遊牧部族(と南方モンゴロイドの仰韶人が混血した部族)の可能性が高いだろう。
●4500年前~4000年前 寒冷化
4000年前の甘粛と青海地方で青銅器・黄銅器文化が出現。より西方のイラン系遊牧部族から伝わったものと考えられるが、イラン系とチベット系が接触したことを意味する。正確にはイラン系遊牧部族にチベット系遊牧部族が押され始めたと考えるべきだろう。
東南沿海部では大ブン口文化(東夷)から発展した山東龍山文化。
黄河流域と長江流域では父系氏族共同体が瓦解し、夏族、殷族、周族と夷、蛮などの文化が相互に交錯し、軍事的な衝突も発生。城塞集落が大量に出現。
当時、山東地方発の東夷(地理的にみて北方のツングース族?)と西方から中原に移動したチベット族→夏族、および長江中流域の三苗族が主要な三大勢力で、相互に争っていたことが伺える。
北方系の部族(東夷)は寒冷化・乾燥化による南下と考えられるが、チベット族はイラン系の遊牧部族に押された結果、中原に侵入してきたのではないだろうか?
●4200年前
夏族の首長大禹は治水に成功し、夏族の勢力が強大化して、黄河流域の大部分を統治。
●4070年前
禹はその地位を子の啓に譲り、世襲制の中国最初の王朝夏を建てる。夏王朝初期には、夏と東夷が激しく争う。
●3600年前
殷族(商族)の長である湯が商族を率いて夏を滅ぼし、殷王朝を建てる。
『のぶさんのアジア通信』「資料 第3章 民族と歴史」によると、商族は東夷の出らしい。当時の乾燥化→旱魃が夏滅亡の引き金になったらしい。
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コメント2件
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