社会可能性の直感・・・我々は認識を武器として生きてゆけるか!シリーズ-6~新パラダイムの点検4 物を考えない状態と物を識った状態(思考の源泉)
こちらから拝借しました。
前回、社会可能性の直感・・・我々は認識を武器として生きてゆけるか!シリーズ-5~新パラダイムの点検3 可能性or不全の源を対象化し続ける源泉では、可能性や不全の源を対象化し続ける源泉は、実は同じで、共認機能や観念機能が持つ充足機能にあり、人々は開かれた可能性や立ち塞がる不全を潜在思念の直感によって捉え、それらを実現or突破していくという必然構造を明らかにしてきました。
今回は、点検シリーズの最後:『新パラダイムの点検4 物を考えない状態と物を識った状態(思考の源泉)』 を紹介し、まだ残る課題に対する答えを検証していきたいと思います。
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その課題とは、冒頭に掲げられる以下の内容
☆しかし、大多数の人々は、社会or人々の意識を対象化する必要=認識の必要に気付いていない。
認識の必要に気付いていないということが、物を考えない状態を生み出している。この物を考えていない状態とは何か?
●物を考えていない(or物を識らない)状態とは、(多くの人が、小中学生の頃はそうだったのではないかと思うが)家族や仲間や学校という身近な世界しか知らず、その外or他の世界を知ろうとも思わない。
これら同類圧力の中で形成された人並みの欠乏と、性格に規定された唯一の方法で、意地になって(根性だけで)もがいている状態。
上記の例でも分かるように、物を考えていない状態とは、対象世界が狭く、よって、狭い(目先の)同類圧力にしか反応できなくなっており、それゆえに、本来生きていく上で必要な社会的な同類圧力、つまり、人々の意識にまで意識が及んでいない状態をいう。
これは、なにも小中学生に限ったことではない。
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’70年貧困が消滅すると、【国家私権の衰弱】→【’95年企業私権の衰弱】→【’03~’08年家族私権の衰弱】という具合に、私権意識はどんどん衰弱するばかりでした。
今日サロンでみんなと思考レンジを歴史的に振り返ってみると、なんと、その私権意識の衰弱とまったく比例して、私たちの思考のレンジ(対象の幅)もどんどん狭くなってきていることに気づいたのです!!
【国家繁栄のため、社会みんなのため!】→【自企業の利益第一、モーレツ社員】→【マイホームパパ、子育てパパ、モンペ】(→ここまでくると自分のことばかり・・・)
これって、私たちは私権圧力にしか反応してないってこと?
そこから外れてしまえば、思考するという行為自体を放棄してしまうってこと?
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『私権圧力に代わる圧力掴み取らないと、私たちの思考停止は続く!』
このように、市場拡大以降、人々は私権獲得にしか反応しなくなり、その私権意識も70年以降急速に、企業→家族→個人レベルへと対象を狭めていっている。これが、人々が物を考えなくなった第一の原因。
●物を考えれば(or物を識れば)、一気に世界が拡がり、より効率的な方法も見つかる。何より、価値観念に導かれて本源回路が顕在化し、統合されて、強いエネルギーが生じる。
この、対象世界の拡がり(外識機能)とエネルギーの高まり(内識機能)、そして効果=充足度(方法論つまり実現回路)が、思考の引力となる。
以上のように、本来であれば、
という図解のようになるはず、しかし、それを疎外するものがある
●但し、現実の選択に迫られて物を考えた場合は、現実の欠乏etc潜在思念と直結して強い力を生み出すが、その観念エネルギーを持続させる為だけに都合の悪い現実を捨象してきた者は、単なる一人よがりで終る。言うまでも無く、現実否定の倒錯観念だったからである(旧世代の観念派に多い)。
現実の選択に迫られて思考する場合でも、現実否定の倒錯思考、つまり旧観念に固執し、その自身の内なる価値観念の正当化のためだけに、思考するタイプの人間は、上記図解でいう対象世界が内なるものに限定されるため、充足も得られず、(対象世界を獲得しようとする)思考の引力には結び付かない。
●また’80・’90年代の一部の若者の様に、現実の選択に迫られてではなく、関係非充足から逃避する場として観念世界がある場合、心(潜在思念)は死んでおり、力は出ない。
80年~90年代、旧観念忌避から無思想・無関心に陥った若者は、そもそも、現実の選択に迫られることがなく、仲間世界をいかに生きるか?という実践思考があれば事足りる状態となった。仲間と上手くやっていけない関係非充足タイプの人間は、その現実を否定し、自己正当化の観念世界に逃避する。先の事例と同様に、対象世界への欠乏を遮断したこのタイプは、思考の引力を生み出すことができない。
☆私権に収束できず、何をすれば良いのか分からない現在の状況は、誰もが現実に生き方の選択を迫られているとも云える。
家族私権の衰弱の後、残るは個人の私権意識だけとなった現在、一方では、企業も国家も自我国家アメリカ:オバマさえも、社会の(人々の)ためを公言しなければ、(人々に受入れられない→)生き残れない時代。現実の生き方の選択は、僅かながら残された自我・私権意識に固執するか?、社会の同類圧力(人々の期待)を対象化して生きてゆくか?に絞られてきた。人々が対象世界の獲得に向うことは自明といえる。
次回は、現実課題について扱っていきます。
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コメント4件
あーさん | 2010.08.17 1:38
今回の記事は全面的にボツにして書き直した方がいいね。
国債は家計の金融資産との関係じゃないから。
ダメだよ、今回は。
匿名 | 2010.08.17 19:02
(本文より)
現在までは、家計と企業の余剰資金が銀行に預けられ、銀行は自己資本比率を守るため、かつ投資先が無かったこともあって、国債に投資してきた。だからこそ、1100兆円もの国債発行が可能だったとも言える。
きき | 2010.08.18 8:54
円建ての国債であれば誰が買おうと問題ないように思いますが。
r | 2010.08.17 0:15
兵器は、こわれるまでそれを使えるというものではない。
五年ぐらいすれば、それはもう旧式になって、使いものにならなくなる。
それでどんどん新式の兵器を買わなければならない、ということになるのだが、その点にまた、独占資本が軍需生産に魅力を感じる理由があるわけだ。
こうして日本国内でも、平和生産というものをやめて、軍需生産に税金をそそぎこんでいく。
その結果は、ふたたび破滅がくることはもうあきらかなのだ。
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/teposodo01.htm
軍需生産は何も産まない。
そういう軍需生産に世界の経済力をそそぎこんでいくということは、経済制度としてはそれだけ「ゼロ生産」になっていくわけだ。
「自主防衛」とは、アメリカの武器を買うことだ。
ここで、日本の国民をなんとか軍需生産のほうにひきつけておく、戦争のほうにひきつけておく必要が生まれるのだ。
軍需生産はやめろ、地方財政に、福祉にまわせと、日本人が騒ぎださないようにしておく必要がどうしても生ずるのだ。
自主防衛とか、軍備拡張とかいう考えが、もっともらしく宣伝されることになるのは、こうした理由からだ。
御用評論家が、そのお先棒をかつぐことになる。