2011年10月25日

カタカムナに学ぶ~適応欠乏というイノチを万象に宿す道=アラカミチ

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図はこちらからお借りしました
2011年10月11日「カタカムナに学ぶ」で紹介したように、「日本語は上古代人の言葉が現代に残っている稀有な例」です。
カタカムナ人の思念、原始人類が観じ取った宇宙の理(コトワリ)は、どのようなものだったかのか?
相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月 シーエムシー技術開発㈱発行)を元に、紹介してゆきます。
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第一章 カムナミチ(アマーカムのサトリ)
第一句

アマカムナ アマカムヒビキ
カムナガラ タカマソトハラ
オシクモネ タカマハルハラ
アラカミチ ウマシアマタマ
カムナミチ

<カムナガラノミチ>を伝える<カミカタリ>は、このような、五七調の歌詞によって長々と続けられている。各句の頭詞にある<カムナガラ>とは~「惟神」ではなく、「形や象は見えないけれども……」といふ、語りかけの言葉であった。
第一章に於ては、(カムナミチ)則ち、<アマ>に対する<カム> の関係を示す直観が述べられて居り、「<アマ>が、どのようにして<カム>から創成されるか?」といふ、「大原則」を示すものである。
第一句の概要の意味は、『宇宙球(タカマ)の外域(ソトハラ)は、人間の目にはカタチは見えぬが(カムナガラ)、立体的に拡がるクモに覆はれて居り(オシクモネ)、宇宙球(タカマ)の張り出す空間(ハルハラ)である。それは、アマ始元量を生み、始原量によって成り立つタマ(宇宙球)を生み(ウマシアマタマ)、宇宙に於けるすべてのモノを創成する場(アラカミチ)である』といふサトリの表明である。
アマとは、「アらゆる<マ>」という総称であるが、それには、「容れもの」の意味と、「なかみ」の意味があり、容れものとしては「タカマ(有限の宇宙球)」であり、内容としては、宇宙をカタチづくる構成要素の「始原量」である。そして、カム界は、そのアマ界のソトハラに拡って居る、といふ直観である。
第一章に於るカタカムナ人の直観の示しは、このように、「現象の宇宙のソトハラに、客観できない無限の拡がりの領域が存在する」といふサトリが基底になって居る。

<カ>とは、「カタチやスガタ、チカラ等の現象としてあらはれる」といふ思念であり、<ム>には「無い」とか「産す」とか「六」とかといふ思念があるから、<カム>とは、大まかに言へば、カタチの無いもの、カギリの無いもの、しかしそれは何もないのではなく、そこから万物が六方に生れ出る、といふ思念がこもって居るのである。
<カミ>とは「カタチにあらはれてくるミ(実、身、味、見、三等の思念)」とか「カムが、カタチ(現象)に見えてくる最もハジマリ(起源)」といふ思念の言葉である。
<タ>は、離れる、遠くのく、独立の思念の声音である。まづ<タマ>といへば、マ(アマ)から分離した球であり、原則的にはアメ(アマの細かく分れた状態、雨はその相似象)の集合系をすべて相似象的に指すことになるから、電子も原子も卵子も精子も、そして、ヒトも、天体もタマであるが、カタカムナ人は小さなものはマリとよび、大きなものタマとよんで居る。
<カ>はカタチを意味するから、<タカ>といへば、「現象に表はれる」といふ意味になる。則ち、<カム>が現象糸に表はれて独立することであり、従って<タカマ>といへば、アマを「宇宙球」としてとらへた表現、<タカマクラ>といへばその「天球の座」といふ意味になる。
言ひかへれば、現象界にあらはれた最もハジマリを表明する言葉がカミ(上、起源)であり、目違えるカタチを「タカミ」といふところから、よく目につく高い場所がタカミとよばれ、低地をヒクミ、そして、目に見えぬカムの<ミ>は「カムミ」といふわけである。

アマ始元量と訳して居るアメの集合系は、そもそも<カム>から発生した潜象であり、カムとは、「宇宙の外域に、無限遠に拡がる、クモのようなハラである」といふのが、カタカムナ人の直観である。
したがって、「目には見えぬ存在であるけれども(カムナガラ)」といふ言ひ方は、彼らにとって、実に、アリノママの表明なのである。
そして、その、無限の客観背後界が、現象宇宙を構成する始元量(アマ)を、創成する基礎界である、といふサトリを述べて居るのである。
この、アマ-カムの対向(ムカヒ)が、現象界にあらはれる、正と反の、相反するスガタの、あらゆる相似象の最も原型の原象(あらゆる類似のパターンのモデルの根源)である。

原子核の周りを電子が高速で回っており、その存在する確率に比例して点を打つと電子雲が描かれるというのが、現代物理学の電子雲モデルであるが、それも、アマ(有限宇宙球)とその外側に雲のように無限に拡がるカムとの対向の相似象ではないだろうか。
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カタカムナ人は、<カム>は全くの潜態で、とらへる事は出来ないけれども、<アマ>は潜象ながら、宇宙を構成する現象系のモノとしてとらへて居たから、そのアマの変遷する様相については、それぞれの用語を示して居る。
先づ、「アマの細かく分れた状態」を<アメ>と言ひ(雨はその相似象)、<マリ>といふときは、そのアマの細かく分れたモノが、「次第に結球するスガタ」としてとらへた思念である。
そしてその潜象のマリが、次第に集合し凝縮し旋転して、電子にも、原子にも、変遷するといふ直観である。又、潜象のマリの「素量」の状態は、<イカツミ マクミ カラミ>(ミツゴ モコロ)等とよんで居る。
そして、そのように、マ(アマ)と、マリ(マから離れたもの)とで、大小さまざまの森羅万象が構成されてゆくことを、<マトマリ>といふわけである。そして、大きなマトマリを<タマ>とよび、チタマ(地球)、タカマ(宇宙)、ハコクニ(原子)などとよんで居る。
現代科学が時間空間を「元」とする一方、カタカムナ人には、時空を「元」とする思想はない。「トキ トコロのマリ」が、時間空間とよばれる現象の「本質」であり、時間空間をはじめ、あらゆる現象事象の発現するもとを、「アマの元」に統括して居る。
そして、電気、磁気、光等の現象をあらはす「電磁波」や「プラズマ」等をはじめ、生物無生物、生命質や物質、有機物無機物等とよばれる「物質」を構成する「諸元素」も、すべて、この、アマ始元量の「変遷」と観じたのである。

▼宇宙の森羅万象をカタチづくるアラカミチ(カムナミチ)
<ウマシ アマタマ カムナミチ>とは、「アマタマ(宇宙球)を産むのは(ウマシ)、カムナの支配するミチである」といふ示しである。
<カムナ>とはアマナの原象である。<アマナ>とは「アマのナ」であり、現象界のすべての物の中に核的存在として潜在し、アマを代理するものでありながら、その実体は、アマ始元量の濃縮されたモノである為に、人間の目には見ることは出来ないと、カタカムナ人は観じて居た。
<ナ>とは何回も繰返へす思念であり、繰返へすうちにチカラが濃縮されて支配力をもつヌシとなるわけで、従って、名代、代理、分身などの意味である。(ナマヘ、ナヌシ、ダンナ等の言葉も同じ用例)
<アマナ>がアマの名代として、個々の物質内に(例へば原子核)、入りこんで居るように、<カムナ>はカム一般の「ナ」として、アマナに通じて居るといふサトリである。
<アマナ>がアマの名代として、個々の物質内に(例へば原子核)、入りこんで居るように、<カムナ>はカム一般の「ナ」として、アマナに通じて居るといふサトリである。
<ミチ>とは、「ミ(実 身 味 三)の持続(チ)」といふ思念であるが、「ミ」が、次々と連続することから発展して「道」とか「行ひ」の意になる。
カムナミチとは、「カムのミを、次々に生みつゞける道」の意で、カタカムナ人は、それを、アラカミチ(宇宙創成の場)と観じたのである。
<アラカミチ>とは、「アマとカムの複合糸の潜象から、あらゆる宇宙の森羅万象をカタチづくる、新しいイノチが、創成される」といふ、直観の表明である。
「アラカ」とは、アラゆるカタチ(現象)がアタラしくアラはれる、といふ思念であり、「新しく創成されるミの連続(新しい道)」といふ意になる。
このアマナとカムナの持続的な関連(対向 ムカヒ)をカムナミチと言び、その目にみえぬミチが、あらゆる物質系や勢力系を生み、左マワリ右マワリの旋転循環運動(マワリテメグル)の原動となって居る。
<アマ-カム>に指向する、その原動は、アマとカムの「複合系の潜象」の無限のチカラに由来する。
そして宇宙の万物が、いかに分化し変遷しても、つねに、アマの本来性(自然則、宇宙則)をマテガハズに伝へ有って居るの、この、目にはみえぬものであるけれども(カムナガラ)、<アマナ-カムナ>のミチが通って居るからである
、とカタカムナ人は考へ(カムカヘ)たのである。

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▼<カムカヘル>の語源(「ミチ」の思念)
<カムカヘル>といふ上古代語を我々は何も考へずに「考」といふ漢字に当てて居るが、上古代人の「考へる」とは、つねに「カムにカへって考へる」ことであった。
(カムカヘルと書くときは、カムに帰り、カムに還元して、といふ方向性を示す「へ」であり、カムカエルと書けば、雛がカエル(孵化)ように、発生の意味になる。)
カタカムナ人にとって「考へる」といふことは、カムにカヘリ、カムからカエるところに、基準をおいてなされたと推察される。
この気持は、後の日本人にうけつがれ、潜象の存在に知らず識らずに感じるものがあり、それに生かされて居るといふスナホな思想背景を形づくって来た。後代、シナやインド等から伝来した神仏の像や、儒教等の思想とダブってしまったにしても、なほ、一般の宗教や哲学とは、おのづから異質のものがあるのは当然であった。
彼らと同じように「神」を論じ、「神」を拝んで居るつもりでも、日本語の「カミ」といふ言葉には、このような「カムにカヘル」思念が根源的に潜んで居り、日本人の無意識の心情となって居り、そこから、すべてのイトナミに、<ミチ>といふ考へ方が発生する、と考へられる。
ミチは、上下にも左右にも通じ、本来、どの道が善でどの道が悪といふものではない。ただ、大事な事は「カミ」に指向するミチがあり、そのミチを、何よりも優先して貴ぶ思念が、現代にも、微かに残す人が居る。
たとへば、禅、茶、剣、絵、彫刻、音楽、学問等をはじめ、大工、石工などの仕事にも花や料理や、裁縫手芸等に至るまで、日本人には「ミチ」があり、そして、その道は、何か「カミ」の方に向上してゆく感じがある。
勿論、どの民族の人々にもこの心情は同様に働いて居る。ただ、それが「ミチ」や「カミの方向」におぼろながらもむすびついて居た点が、特徴的なのである。日本人のように、すべての家事や仕事のわざ、学芸等に、向上的な道をもつ程の共通感情にまでなって居た民族は、あまりみあたらない。

この何事においても「ミチ」があり、常にカミ(起源・始原)に向かって向上してゆく。
このカタカムナ人から受け継ぐ共通思念こそ、日本人の勤勉性を生み出したものではないだろうか。

▼人間的思考とカムカヘルの違ひ 
一般人の「神」の思念は、人間の思考力から発生し、一般の文字は、「人間」の次元で発想されたものであるところに、ひとつの問題がある。これに対し、カタカムナ人の考へ方は、つねに、宇宙的なカミ(カム)にカヘル(カムカヘル)思想で貫かれて居る。
そして、このような指向性は、単に人間だけのものではなく、植物が、マッスグ天に向って生ひ立つカタチに象徴されるように、それは、宇宙のすべてのもののもつ、天然自然の本来のスガタに通じるものなのである。上に伸びる芽も下に伸びる根も、共に(正・反のスガタで)カミ(カム)を指向している。
彼らはこのように、万象からカミに向ひ、カミから万象に通じて居る、目に見えない交流を、「カムナガラ」の「ミチ」といったと考へられる。
人間の文化が高度になるとは、概ねこの方向性に沿って居ることが必要条件である。古来、平衡感覚(カン)のマトモな人々が感じて居た違和感、古代への郷愁、近代化への反感や反省の念ひは、要するに、ここにあったと考へられるのである。
世知辛くもある世の中で直面する悩みは、「思考」や「神」の次元で解決をはかろうとするとまことに厄介である。人間も、また、生物の一員であることをふまへて、天然則の中で、生物の本来性に基づいて考へ(カムカヘ)るべきである。
今、我々日本人にとって、何よりも肝要なことはスナホな「カン」に感じるものを、適確に判断しうるだけの、高度の知性に裏づけられた、直観を鍛へることである。
むしろ、何の学識も無い庶民の常識の中に、マトモな「カン」が生きて居たことを認め、我々の民族の歴史の中で、最も直観力の優れたカタカムナ人のサトリに照らし、めいめいの概念を修正し、今まで、無意識に放置して居た、自分たちの裡にあったものの真価を、再検討すべきである。
その為の資料として、カタカムナの文献の内容を、科学を学習した現代人にも、わかるような形で提供するのが、翻訳者の立場である。
<カム-アマ>の関連をサトった彼ら(カタカムナ人)は、<カムナガラノミチ>が、刻々にアマタマ(宇宙)をアラタに創造するミチであり、宇宙の万象は、すべて、アラカミチによって発生し、我々人間のイノチも、その相似象であるといふサトリを示して居る。
彼らは、カムナガラノミチの第一章に、先づ、その大原則を示し、カムナミチはアラカミチであり、それが、万象の原象であることを明らかにし、そして、人間が、生活をゆく上の、さまざまな技法を生み出して、人々に示して居るのである。
要するに、人間のあらゆる文化も、今後とも、つねに、新しく創造されるアラカミチ、則ち産(ム)スミチ(生み出すもの)でなければならぬといふ示しである。「カミ」に相似してアラカミチをきりひらけ、といふサトシになるわけである。
カタカムナ人が<カムナガラ>のサトリに基き、さまざまの、当時の彼らの生活に密着した技法を生み出し、それをも<カムナガラノミチ>と称した理由は、このような次第であり、又、後代の日本人が外来の文物をこだぼりなくとりいれ、憚りもなくマネして居るうちに、やがて日本化し、より良いものにしてしまふ「特技」に秀れて居ると言はれるのも、もとはといへば、このような、アラカミチをカムナミチとして、生活のモットーとする伝統の流れであらう。(日本人に専売特許の発想がなかったのもムリが無い・・・・。
西欧人の「人権」やヒューマニズムの意識と、日本人の「人間」の意識が異質であること、日本人の道理や功利の精神と、西欧人の合理や経済の考へ方の違ふこと等のナゾをとく鍵も、この辺にあらう。
要するに、<アマ>から発生する諸々の万象は、当然の結果として、<カム>のミチを受けつぎ、つねに<アラカミチ>を生みつづけ、その中で人類も、今日の文化をもつに至ったわけである。すべての動物、植物、鉱物等が、環境によって変遷し、分化し、適応し進化して釆たとみられるのも、この<アラカミチ>の相似象に他ならないことになる。
どのようなところにおかれても、剣しい断崖の岩の上でも、深い海底や地中でも、又南極北極とか、熱帯や砂漠等の厳しい条件下にも、又、現在の日本のように、原爆や各種の公害にさらされても、つまり、肉体的にも精神的にも、どのような状況のもとに於ても、何とかして生存を保ってゆこうとする、この「本来性」は、アマとカムの対向から発生する<アラカミチ>の相似象である。
カムから刻々に新しいチカラが波及して、アラカミチをきりひらいてゆく。それがすべての生物、無生物とよばれる万象にうけつがれ、いはば、アマカムゆづりの本来性として、基本的にそなはって居るといふサトリである。
要するに<カムナガラノミチ>といふ言葉は、日常的な生活技法の数々を伝へる内容な意味すると共に、そうした<アラカミチ>をつくり出す際に、つねに根拠となる<カムナミチ>のサトリを示すといふ、本末の意味があったのである。
人々が「現代文明」と称するものは、カタカムナ人の指向した文化とは異なる方向へ、どんどんソレてゆきつつある。このままでは人類の滅亡も早いといはれて居るこの際、我々は、遠い祖先の人々の示して居た、<アラカミチ>の基本原理を、謙虚に吟味してみる必要があると考へられる。

これを読むと、『実現論第一部:前史』「イ.可能性への収束=統合」のこの一節を思い出す。

生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。例えば本能も、その様な外圧適応態として形成され、積み重ねられてきたものである。また全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。
また、外部世界が変化して適応できなくなってくると、新たな可能性(DNA塩基の組み換えの可能性)へと収束し、新たな可能性(例えば、新たな配列)の実現によって進化してゆく。
従って、歴史的に形成されてきた存在は(=進化を重ねてきた存在は)、生物集団であれ人間集団であれ、全て始原実現体の上に次々と新実現体が積み重ねられた、進化積層体(or 塗り重ね構造体)である。
つまり万物は、それ以前に実現された無数の実現体によって構成されており、それらを状況に応じたその時々の可能性への収束によって統合している、多面的な外圧適応態である。
もちろん人類も、単細胞の時代から今日まで外圧適応態として必要であった全てのDNA配列=諸機能or 諸本能は、今も現在形において(しかも最基底部から上部へと段階的に塗り重ねられて)その全てが作動しているのであって、単細胞や動物たちの摂理を人間とは無関係な摂理と見なす様な価値観は、人類の傲慢であり、かつ大きな誤りである。

楢崎皐月氏が述べていることは、これと同じことだと思う。
このように、生命の諸機能(諸本能)の奥底に、それら諸機能を生み出す最基底の適応欠乏があって、それによって生物は可能性へ収束し統合される。
この最基底の適応欠乏も目には見えないが、間違いなく存在している。
∵それがなければ生物は進化しないはずである。
適応欠乏は何に由来するのか?
(以前から、ずっと疑問に思っていたことである) 
アマとカムの複合糸の潜象から、あらゆる宇宙の森羅万象をカタチづくる、新しいイノチが、創成される。
そこでは自然則・宇宙則を万象に伝えるミチ<アラカミチ>が通っている。
それによって、万物万象は適応欠乏という、アマ-カムに由来するイノチを宿しているからではないだろうか。

List    投稿者 staff | 2011-10-25 | Posted in 13.認識論・科学論1 Comment » 

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 hermes dark gray | 2014.02.01 21:04

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