2018年09月08日

自然外圧と縄文人の自然観・宗教観

西日本の台風、北海道の大地震と、激甚災害が頻発しています。
地震、豪雨、高潮、洪水、土砂災害、、、、その度に多くの家屋や財産、そして尊い人命が奪われています。
しかしその結果、人々がその地域を見捨てたり、厭世的や自暴自棄になるかというと決してそんな事はありません。むしろ地域の結束を強め、先人たちの教訓に塗り重ねる事で、地域復興への決意を新たにします。

 大きな不幸や天災に見舞われても、それを受け入れ、畏怖し、そしてそこから学び生かしてゆく。これは日本人がもつ大きな特徴であり、その起源は縄文時代に遡ります。

本ブログの記事にもありますが、現代、縄文時代をテーマとした展覧会やイベントが各地で企画されたりと、各方面で様々な追求がなされています。(リンク
私権社会の終焉と本源回帰・共同体再生の気運が強まる中、縄文時代を追求する事で私たち日本人の意識や精神の起源を探ろうとする社会潮流が顕在化しています。

私たち日本人のDNAに深く刻印された縄文の精神、これが日本人独特の自然観、生死観を生み出しているといえるのでは無いでしょうか。

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最後に、「るいネット」からの記事を紹介します。(リンク

 【縄文時代の様相1~自然外圧と縄文人の自然観・宗教観~】   
[近畿地方の古墳巡り!]より『縄文人の謎・ロマン 縄文人の自然観・宗教観とは!(リンク)』より紹介します。縄文人が自然災害や天災をどう見ていたか?が書かれています。
自然災害の四季の変化も同じように捉えており、概念区分のない彼らにとっては、同じように畏怖するものであり、敬意を表するものであるという自然への見方である。
確かに、因果関係の不明な災いのもとの分からない自然現象に対して、注視すれば、これらの自然現象に関して、多くを学び、生かしてくれるとき、過酷な試練を与えてくれるときの双方がよろずの精霊によりもたらすと考えれば、受入体質を形成する一要因となっただろうと思う。

—————————–転載

縄文土器・土偶など縄文芸術の背後には、自然界の強大な力があり、それを動かしている、神の力に対する敬意が込められている。
縄文土器・土偶は、縄文人の精神そのものを形にしたのではないか????
それは目には見えない魂からくるものを形にしたようなもので、現代の美というものをはるかに超えたものであり、恐ろしいものにも見える。
例えば土偶には、目のないような稚拙と思われるものから、超前衛的なものまで、写実的に作ろうとは意識していない。
目に見えないもの・霊というものを感じて造ったのではないか?
現代人には、そういう霊というものの存在・神という存在の感じ方が普遍化しているが、縄文人を語る場合、霊とか神というものを抜きにしては語れない。
土偶の役割については、成熟した女性をモデルにして新しい生命を誕生させる力をもつ精霊、或いは豊穣・子孫繁栄・安産などを願って、土偶を作ったのではないかと推測されている。
森羅万象すべてに神を見た縄文人は、台風は風の神、雨は天の神、洪水は水の神、津波は海の神、噴火は山・火の神、山火事は森の神などを、恐れおののき敬虔にその怒りを治めるため、ひれ伏したと考えられる。
過酷な天災という自然外圧は、突然現われる神の訪れであったと見られ、又四季の変化は、人々に食料の恩恵を与える一方で、周期的に移り変わる自然環境として、日常的に適応すべき、不可避の外圧であったと見られる。
と云うように、日本人の縄文気質の根源には、「過酷な天災」という非日常的な大きな自然外圧と、「四季の変化」という日常的な自然外圧とが常に並行作用していた。
それら自然外圧を「活力源」として、ムラを挙げて適応してきた半面、それらに恐れおののき、自然に平伏す敬虔な祈り・祀りを忘れなかった。
縄文人の自然への畏怖・敬意を表現する姿勢は、人間の持つ根源的な存在意義を示しているだけに、縄文人を理解することは、様々な問題への対処療法の手がかりとなり、且つ現代社会のあり方を示唆していると云える。

 私たち現代人は、このような原始的縄文人を精神的にレベルの低い“野蛮人”のように感じている節があるが、目に見えるものしか信じられなくなってしまった現代人の方が、時代に遅れていると云えないか????

(後略)

List    投稿者 nihon | 2018-09-08 | Posted in 12.現代意識潮流, 13.認識論・科学論No Comments » 

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