2012年01月26日

近代科学の成立過程16~金貸しが育成した特権階級(ジェントリ)が私権獲得の為に科学に収束した~

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前回近代科学の成立15~科学技術者たちは侵略航海による私権の可能性に収束し、国家プロジェクトに組み込まれていった~では科学者の発明、研究成果を国が評価し、更に国の発展に繋がる研究を権力、財力を使い後押しすることで国が他国(アジアの植民地を)を侵略することで、また更に科学技術の発展に財をつぎ込むことで科学技術は発展していきました。
今回は山本義隆氏の著『十六世紀文化革命』(みすず書房)から「第8章 16世紀後半のイングランド」の要約です。イングランドではどのように国と科学技術が発展していったのかを見ていきましょう。
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第8章 16世紀後半のイングランド
1.テューダ王朝下のイングランド職人や技術者が俗語で科学書を書きはじめた16世紀文化革命は、序章でロバート・ノーマンについて記したように、16世紀後半にはイングランドにおいても認められた。しかしイングランドでの様相は大陸の諸国とはいささか異なり、職人たちにたいする教化が、どちらかというと高等教育を受けた知識人のへゲモニー上から推し進められた。そのことは、16世紀文化革命の行く末と同時にその限界性をも暗示している。
16世紀のイングランド科学史を特徴づけているのは、なによりも「1640年に先立つ80年間に、イングランドは科学の分野で後進国から先進国のひとつへと躍進した。 」というこの時期の飛躍的な発展にある。
16世紀後半はイングランドにおいて数学的科学のいちじるしい発展があった。裏返せば、16世紀前半までのイングランドは軍事的な名声についてはひけきらないにせよ、科学的知識については大陸のライバルたちに大きく水をあけられていたと言える。
17世紀のジョン・ウォリスは、少年時代を回顧して「そのころ数学は学術的と見なされることばはほとんどなく、むしろ機械的なもの、つまり貿易商や小商人や船乗りや大工や測量技師など、そしておそらくは暦の製作者のすることと見られていたと証言している。実際、すでに14世紀末のチョーサーの『カンタベリー物語』には、貿易商人にふれて「彼はフランス金貨を両替するやり方を知っていました」とある。
このことは、当時、両替の計算そのものが商人のもつ特殊な技術と見られていたことを示唆している。14世紀後半以降、当時のイングランド最大の輸出商品である羊毛を大陸に輸出していたいわゆるステープル商人-国が定めた特定の取引所で主要商品の貿易に携わる商人たちは、ネーデルラントやイタリア・ロンパルディア地方の商人との大規模な取引をおこなっていた。当然、彼らは大陸の進んだ商業慣行に適応し、為替や両替をふくめ、込み入った商業計算に習熟していた。
同様に、職人の世界でも、定量的測定とそれにともなう計算の重要性は高まっていた。
印刷された英語による最初の数学書は、作者不詳の「ペンないし算板による計算術学習入門」であった。これはインド・アラビア数字と十進位取り表記法によって記述されたもので、内容は整数の四則演算、分数計算、三数規則などで、例題も以前に見た大陸のものとほとんど変わらない。表題よりわかるように、筆算だけではなく算板計算の説明もふくまれている。これは1537年に印刷され、その後、1539年、46年、52年、66年、74年、81年、1629年と、1世紀近くにわたって版を重ねることになる。そのことは、この頃からイングランド経済が急速に発展していったことを反映している。

当時のイングランドは大陸の他国よりも科学技術、特に学術的発展に関しては完全に遅れをとっていた。しかし現実課題を担う職人や技術者、商人などはそれなりに学を得ていた。この遅れを巻き返した方法は一体なんなのか。

「商業数学発展の背景には、1540年からの1世紀のあいだの「先駆的工業革命」とも「第一次産業革命」とも言われるイングランド経済の飛躍的発展があった。「先駆的工業革命」と命名したのはジョン・ネフだが、それは本質的に美術工芸に属さない諸領域の工業生産の量的発展-工業生産の目標の質的向上から量的拡大への転換を意味している。
1485年のばら戦争の終結とテューダー王朝の成立からエリザベス一世(エリザベス女王)が1603年に没するまでの一世紀余のあいだ、イングランドでは強力な王権が成立して、重商主義政策がとられ、大陸とくにドイツやイタリアから鉱山業、製鉄業、火薬製造、製紙、印刷、ガラス製造などの技術者が呼び寄せられ、さらには独占付与による産業の育成、特許会社の設立がはかられた。それを可能とした条件としては、その間、大陸の諸国が宗教戦争や王位継承戦争に明け暮れていたのにたいして、イングランドでは国内がおおむね平和であったことが大きい。
イングランドは1534年の「国教会を地上における唯一最高の首長とする」という「首長法」の発布により、対外的には教皇庁の支配から離脱したが、国内的には、とくにエリザベス一世の時代には、一方では王の支配を揺るがさないかぎり旧教徒を厳しく取り締まることもせず、他方では原理主義的ピューリタニズムを排し、穏健中道路線をとることで国内統合をはかり、宗教改革にともなう混乱を最小限にとどめることができたのである。そして1540年から1640年のあいだにイングランドの人口は倍増した。こうしてイングランドは国民国家への発展をとげ、1588年にはかのスペイン無敵艦隊を撃破し、強力な海軍を擁する海洋国家へと成長し、海外への進出を開始する。
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エリザベス一世がハンフリー・ギルバートのアメリカ植民計画に勅許状を与えたのが1578年で、84年にはウォルター・ローリ1世が北米に最初の英国植民地を建設している。東インド会社の設立は1600年である。この一世紀間にイングランドは、ヨーロッパの西端にあってその経済活動の中心から遠くに位置する遅れた封建国家から、新しい富の源泉であるアジアと新世界につながる大西洋に面した政治的・軍事的・経済的大国に躍り出たのである。すでにばら戦争で封建貴族が没落し、大土地所有者としての修道院も消滅し、その後の資本主義発展の基幹部隊となるジェントリが社会の主勢力になり、同時にヨーマンリーすなわち比較的裕福な独立自営農民出の広範な成立を見ていた。ジェントリは主要に地主階級であるが、大商人、法律家、官僚、上位聖職者、大学数授、医師もそのうちにふくめられている。資本主義が発達する条件はすでに整っていたのである。

エリザベス1世の時代からイングランドの他国侵略の為の科学技術が発展していく。
「ジェントリ」とは地主階級だけでなく、大商人、法律家、官僚、上位聖職者、大学数授、医師などを指します。つまり、現在の特権階級に相当する。国家ぐるみで彼らは重商主義のもと、率先して他国侵略の為の科学技術発展に尽力を尽くした。その成果が後のイングランドの政治的、経済的、軍事的に他国を圧倒するものとなる。
※イギリスを覇権国家にした重商主義とはどのような政策か? 
参考サイト(リンク
重商主義とは貿易などを通じて貴金属や貨幣を蓄積することにより、国富を増大させることを目指す経済思想および経済政策の総称。
大航海時代、アメリカ大陸やインド・東南アジアへの西欧の到達と直接交易の開始が貴金属や香辛料など稀少商品の価格革命をもたらし、商業革命のパトロン(援助者・免許者)としての王権に莫大な富をもたらした。オランダ、イギリス、フランスの各東インド会社は植民地政策の重要な尖兵となっただけでなく、有限責任方式の開発など市民社会形成に重要な足跡を残し、のちの産業革命をもたらした。また、その是非を通じて経済政策や思想における活発な議論がなされるようになり、これが後にケネーやアダム・スミスが登場する素地となった。
★フランスの例:コルベールの重商主義
彼は、東インド会社を再興するだけではなく、西インド会社・レバント会社・セネガル会社など作り、いまのカナダのケベック州に大規模な植民団を派遣してます。また、保護関税をかけて輸入を制限し、国内産業の保護育成を図ってます。典型的な重商主義者で、コルベール主義といえば重商主義の代名詞にもなってます。
彼がやったのは国際貿易の振興と徹底した大企業優遇政策です。逆に農民や小自営業者は徹底的に搾取され、貧乏人ほど税率が高いという嘘みたいなことをやってます。要するに庶民は搾り取れるだけ搾り取り、それで全体の産業を発展させよう、国際的に儲けようということで、なんか日本(小泉政権)みたいですね。経済の発展は庶民を豊かにするためではないってことです。そのため庶民階層の恨みが骨髄に至り、後のフランス革命の火種を残します。
★イングランドの例:エリザベス1世の重商主義
エリザベス1世は、カトリックに急旋回して世情不安になっていたのを、再びイギリス国教会中心に引き戻し、両派のバランスと融和を図ります。同時に経済を立て直すために、毛織物工業を保護・育成します。
参考(リンク
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私たちの問題意識からすれば、とくにこの時代のイングランドにおいて注目すべきことは、土地を所有するジェントリの多くが次男以下の息子たちを都市の商人や手工業者の徒弟奉公に出したことである。この習慣は「外国からの訪問者を驚かせた」と言われている。専門の論文の説くところによれば「貿易と商菓の世界における彼ら〔イングランド中産階級〕の野望は、彼らをして新しい科学、とりわけ機械学と航海の分野における功利的な価値にたいする前向きな関心を育むことになった」とあるが、これはイングランドならではのことであった。そしてこの関心こそが、職人や技術者の仕事にたいするそれなりに高い評価と、大陸諸国には見られない技術者教育への熱意を生み出すことになった。

3 ジョン・ディー
ディーは1547年から50年までルーヴァンに滞在し、ブリュッセル、アントウェルペン、パリを旅行し、ヘマ・フリシウスやメルカトールやオルテリウスをはじめとする大陸の数理技能者や地理学者の知遇を得ている(オルテリウスはのちに渡英しディーを訪れている)。彼はまたこの旅行で大陸における新しい学問として地図学・航海術・ヘルメス主義・カバラ・機械工学・建築理論を修得した。故国には地理学や地図学についてしかるべき専門知識の所有者がいないと1540年にはディー自身がこぼしていたように、いずれの学問も、その当時のイングランドには根づいていなかった。
地図学にかんして言えば「海上雄飛の栄光の訪れが遅れた英国では、エリザベス一世の時代以前には英国人海図製作者を一人も生みえなかった」のである。ディーはへマの設計した航海用の天体観測機器やメルカトールの製作した地球儀とともに、これらの学問そのものを大陸からイングランドに持ち帰ったのである。しかしディーの数学は、レコードのものと異なり、大陸の新プラトン主義や魔術思想にも通底する一面を有していた。
ディ一によれば事物は「超自然的なもの」と「自然的なもの」と「第三の存在」に分類される。「超自然的なものは、非物質的で純一で不可分で不滅・不変である。自然的なものは物質的で複合的で分解可能で壊れやすく可変である。超自然的なものは精神によってのみ捕捉されるが、自然的なものは外感によって知覚される。超自然的なものにおいては至上の明証性ともっとも確かな叡智が得られるが、自然的なものにおいては概念的な理解と推測がもっぱらである」。明らかに「超自然的なもの」と「自然的なもの」の区別は、プラトンの言う真実在と可感的事物の区別に対応している。
そのさいプラトンは、厳密な学としての数学が適応されるのは前者にたいしてだけであると考えたが、ディーは「第三の存在」として「数学的なもの」を措定する。「数学的なもの」は「超自然的なものと自然的なものの中間にあり」、それ自体は非物質的であるが「知覚しうるより低いもの」。つまり「自然的なもの」にも適用されるのである。この意味においてディーにあっては、感覚によって捉えられる物質世界にたいしても数学が適用可能とされる。
たしかにディーの数学は、一面で数秘術や魔術への傾斜を示していた。とくに当時「魔術師」と広く称されていたネッテスハイムのアグリッパのオカルト哲学の影響は顕著である。それゆえディーは「妖術使い」というあまり芳しくないレッテルを貼られ、そのうえ天使との交信を試みた日記なるものが死後にセンセーショナルに公表されたこともあって、とりわけ啓蒙主義の時代以降には彼の果たした役割はきわめて小さく評価されてきた。
しかし16世紀には、魔術思想そのものが自然界に秘められているもろもろの力、「隠れたカ」の存在と作用を経験的・実験的に調べあげて人間生活に役立てるという、経験主義的で実用主義的な傾向を強めていた。そのうえディーの数学思想は、現実には地図製作や天体観測機器の改良に取り組んでいたへマ・フリシウスやメルカトールといった大陸の数理技能者や航海術にくわしい数学者ペドロ・ヌーネスなどの影響をもつよく受けたものであって、現実的で実践的な側面を大きく有していた。

ディーの「超自然的なもの」「自然的なもの」「第三の存在」は西欧の考え方をよくあらわしている。「超自然的なもの」は自然を超えた普遍的で、絶対的不可侵である。これは現実を捨象した観念世界のことである。「自然的なもの」は現実の社会、自然を意味する。つまり観念と現実を比べたとき西欧の考えでは観念が重きをなすことになる。
これが現実を捨象した観念(精神、宗教、哲学)が重きをなす西欧の考え方の特徴である。

ディーは、大学が学問の実用的な価値に関心を示さなかった時代にあって、数学的科学の技術的適用の可能性と重要性をいち早く見抜いていたのである。 しかし彼のまなざしは職人や技術者だけに向けられていたのではなかった。彼はこの「数学的序文」を英語で書いたが、その他の著審をラテン語で書いている。ディ一にとっての科学の価値は、ひとえにイングランドの繁栄と国力の増強にとってのものであった。実際、彼は英国王室海軍顧問にしてエリザベス一世のブレーンでもあった。
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とりわけイングランドの帝国主義政策の熱烈な推進論者で、彼はその立場から地理学の進歩と航海術の改良には並々ならぬ関心を寄せていたのである。現実にも彼は、ほば30年間にわたってマルティン・フロビシャーやハンフリ1・ギルバートやウォルター・ローリーといったエリザベス朝イングランドの航海関係者や植民地主義者のアドヴァイザーであり、航海士たちに教育をほどこし、探検航海への助言を与えている。1570年代にくり返し試みられたフロビシャ一による北西航路発見のための航海は、ディーの熱心な勧告と指導によるものであった。
ディーは『完璧な航海術』を執筆して1577年に出版したが、それはエリザベス一世にたいして、強力な海軍を常備し、領土の拡張をめぎして海外に雄飛する大ブリテン帝国を樹立するように促すための建白書であった。

今まで見てきたように科学技術は科学者の真理の追究による純粋な発展ではなく、国家が自国の政治的、経済的、軍事的、資本の拡大と他国の植民地化を果たすための発展に過ぎません。「潮流5 失われた40年」(リンク)にあるように「自由競争・自由市場など幻想」であり、「現実には国家に支えられた市場しか存在しない」のと同様に、近代科学も国家の力によってはじめて発展したのです。
ジェントリの一人と言われている男
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イングランドの特徴はジェントリ(特権階級)の成立です。特権階級(閑暇階級)であるジェントリたちが私権獲得のために科学に強く収束したことが後進国であったイギリスで科学が発達し、ニュートンをはじめとする17世紀科学革命を生み出したのです。
イングランドではヘンリー8世はローマ教会の力を無くすことを目標とする金貸しに唆され、教会からの独立を目指しイングランド国教会を作りました。しかしその新教も王の指導力が揮わず、衰退していきます。国が財政危機に陥ると修道院領を接収して、その土地地主達に売り払いました。売り払った土地の持ち主達が後のジェントリです。また、ジェントリたちは羊毛生産のために農民の共有地や開放耕地を没収し、自らの所有地としていきました。第一次囲い込み(エンクロージャー)と呼ばれますが、その結果、貧農たちは生活の基盤を失い、賃金で雇われる以外に生きる術をなくし、大量の賃金労働者を生み出しました。これがイギリスで工業生産が発展する土台となります。
エリザベス1世が登場し、もう一度国教会に勢力を集中し、カトリック教会とのバランスを保つようにしました。そして更にこの当時羊毛の毛織物工業が盛んになり、土地を持っている地主達は一気に稼ぎを得ることになります。そのジェントリ達と手を組み、国家が一丸となって他国に負けない科学発展。そして遅れを取っていた他国を超える軍事力、政治力、経済力つけていきました。金貸したちが目標とした教会の力の及ばない工業、商業中心の発展が実現した。資本を増やしていったジェントリ達は貴族と同等の力を持ち、国家をも脅かすほどの勢力となった。
参考:貴族と新興ジェントリー(リンク
参考:「実現論:序2(上) 現実に社会を動かしてきた中核勢力」(リンク

市場社会では、金貸しが、官僚を支配し、教団に変わって登場した学者とマスコミを支配し、そして官僚機構が大衆を法制支配し、教宣機関(大学・マスコミ)が大衆を共認支配している。
こうして見ると、古代と近代では、社会統合と大衆支配の仕組みは、基本的にはまったく同じであり、ただ統合力=制覇力が、武力から資力に変わっただけである。
要するに、力の頂点に君臨する金貸しが、政治家や官僚や学者やマスコミ等の統合階級を支配し、その統合階級が大衆を法制支配+共認支配しているというのが、現代社会の基本構造である。

武力支配時代の支配構造は、お飾りの王侯貴族-実権を握る神官と官僚-庶民という構造ですが、市場時代の支配構造は、影に隠れた金貸し-政治家や官僚や学者やマスコミ等の統合階級-庶民という構造です。
16世紀イギリスのジェントリとは、この政治家や官僚や学者やマスコミの原型です。つまり、この段階で既にジェントリたちは金貸しに支配されていると考えてよいでしょう。
実際、このジェントリたちを支持基盤として17世紀イギリスの民主革命が実現します。ジェントリを支持基盤として成立したのがホイッグ党(後の保守党)である(対抗するのがトーリー=王党派)、1688年名誉革命後も、大地主や大貿易商を背景とするホイッグ党の優位が続き、イギリス帝国の拡大を目指す重商主義政策が展開されました。
このことも、イギリスの特権階級ジェントリたちが金貸しの手先と化しており、金貸しとジェントリたちを主勢力として、17世紀イギリスの民主革命が実現したことを示唆しています。
つまり、イギリスこそ、影に隠れた金貸し-政治家や官僚や学者やマスコミ等の統合階級-庶民という、市場時代の支配構造を完成させた国家です。これが「国民国家」と呼ばれるものの正体です。そして、特権階級ジェントリたちが自らの私権獲得という目的と国力の増強という目的を重ね合わせ、科学技術に強力に収束していった。
これが16世紀まで後進国であったイギリスが、世界の覇権国家になっていった理由ではないでしょうか。

List    投稿者 KAWA | 2012-01-26 | Posted in 13.認識論・科学論6 Comments » 

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コメント6件

 佐塚 | 2013.02.09 16:20

詳細な展開に非常に共感を覚えます。我々日本人のベースは温暖化によりスンダランドの低部が水没して日本列島や江南へ北上した子孫だと思います。そうした意味では江南人のオストロネシア族だと思います。
 倭人+扶余族=韓人の項も適切な表現です。この辺の資料をご紹介いただけたらありがたいです。よろしく。

 烏鹿 | 2013.02.13 19:48

三韓が全部朝鮮半島にあったとは思いません。

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