2012年04月26日

魔術から近代科学へ9~キリスト教の現実否定の自己欺瞞(自然認識を御都合主義で魔術から借用)~

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ところが、キリスト教の徹底した現実否定は、深刻な自己矛盾を孕んでいました。
キリスト教は徹底して現実を否定した結果、自前の自然認識を持たなかったのです。
しかし、現実には自然認識がなければ生きてゆくことはできません。
例えば、病気になった時には医療が不可欠です。
それに対して、キリスト教はどう対応したのでしょうか?
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山本義隆氏の『磁力と重力の発見』(みすず書房刊)から「第4章 中世キリスト教世界」後半の要約です。

3.キリスト教における医学理論の不在
アウグスティヌスは科学のための科学は否定したが、自然科学その他の世俗の学問にたいする彼の立場は、キリスト教徒は聖書解釈のために科学的な知識が必要なときにはそれを所有する異教徒から借りればよいという、一種の便宜主義であった。
アウグスティヌスにとって、学ぶ事の目的はあげて「聖書全巻の中に神の意志を探り求める」ことに置かれていたのである。異教の世界に知られていたすべての学問は聖書学習のカリキュラムに加えられるべきということになる。キリスト教には固有の自然科学理論というものがなかったために、旧来の科学を無視することができなかったのである。 キリスト教が自前の自然科学理論を持ち合わせていなかったという事情は、医療の面においてはとりわけ現実的で直接的な影響を及ぼすことになった。
ヒポクラテス以来の創造的で理論的なギリシャ医学の伝統はガレノスの死でもってはぼ幕を閉じた。それを受け継いだローマは、もともと土着の民間信仰やオリエントの神秘主義の影響を受けていたこともあり、継承したギリシャの医学を発展させるどころかむしろ大きく目減りさせることになった。
軍事国家ローマ帝国が医学に寄与したと言えるのは、尻目に見ても軍陣医学、そして公共病院と都市衛生の思想くらいのもので、理論面での貢献は事実上ないに等しい。したがってローマ社会における医療の現実は、かなり魔術的色彩の濃いものであった。
ラテン語の動詞medicareが「治療する」と「魔術をもちいる」の両義を有していることが、そのあたりの事情を端的に反映している。現実にもプリニウスの「博物誌」には「魔術は最初は医術から起った」と記されている。他方では揺籃期の禁欲的なキリスト教は医学・医療を信仰の下位においていた。アウグスティヌスより約半世紀前に活躍したカエサリアの教父バシレイオスの「修道士大規定」には「自分の健康への希望を意思の手中に置くことは家畜に等しい行為である。」とあり、医療そのものが反キリスト教的であると見なされている。
「病気はしばしば私たちを回心に導くための罪への戒め」だからである。つまり病苦は原罪に対して神の下した罪であり、過ちを償うために神が与えた機会なのである。「ギリシャ医学は異教徒のわざ」と見なされ「初期の教会では相手にされなかった」のである。
ギリシャとローマの遺産だけではなく、ガリアやあるいはライン以北の地域では土着のより魔術的・呪術的な民間医療こそがむしろ主であったと考えられる。
キリスト教は、地中海世界からヨーロッパ大陸内陸部に北進してゆく過程で地域社会の上層部支配層から布教を進めてゆき、こうして世俗権力との結びつきを強め、その組織を確立していった。そのためキリスト教がいかに「カソリック(唯一普遍)」を標榜しようとも、現実には下層の大衆の生活や精神世界の内面にはよりおそくまで土着宗教の影響が残されることになった。実際、最近の研究ではヨーロッパ中世とは「拡大を続ける教会を後ろ盾としてその支配力を強めてゆくキリスト教にたいして、異教信仰が長期間にわたって静かに反抗し続けた時代」であることが明らかになっている。
キリスト教イデオロギーが隅々まで支配する社会が一朝一夕にでき上がったわけではない。そんなわけで、民衆に与えられていた医療は、草深い農村における助産婦や呪術師たちあるいは都市での賤業と見られていた理髪師によって語り継がれてきた土俗的な医療であるか、あるいはオリエント伝来の医術であり、いずれにしても異教的で魔術的であることはまぬがれなかった。
アウグスティヌスは「医療を目的とする呪いとかその他の魔術的な治療」は「迷信的な学問」であり「そのようなおろかで有害な迷信をキリスト教は断固として、拒否し避けるべきである」と言っている。「迷信」が排斥されるべきなのは、それが非科学だからではなく、それが「異教の残滓」だからである。したがって自然物が超自然的な力を有すること事態は認められていた。忌むべきはその力の魔術的な使役であったが、その境界は不鮮明であった。そんな訳で中世においては「魔術や呪術は当初から治療行為の条件となっていた」のであり、「教会でさえも魔術的実践にキリスト教の衣をまとわせていた」のが実情であった。
幼児死亡率がきわめて高く、子供が無事成人することさえ僥倖に近かった時代であり、自然の猛威と絶望的な貧困のなかで過酷な労働の日々を送っている中世の民衆にとって、病から身を守り、天候不順から農作物を防ぎ、支配者の暴力から家族を護って子孫を残してゆくということは、それだけでもたいへんなことであった。ましてやくり返し襲ってくる疫病にたいする恐怖は、知識人であろうがなかろうが、農民であろうが都市住民であろうが、すべての階層・階級に共有されていた。
キリスト教の公認教義から見ればどれはど許し難いにしても、しかし異教的教説に民衆が救いを求め、魔術的風習が世代間に受け継がれ、さまざまな自然物やシンボルが魔除けや御守りに使用されつづけたことは、十分に肯けることである。まさしく歴史学者サザーンの言うように「世俗的な事柄の探究は、キリスト教の知の一般的な枠組におけるその位置づけについてのいかなる理論とも無関係に、それ自体の固有の生命を有していたのである」。
こうして魔術的自然観が語り継がれることになった。
4.マルボドゥスの「石について」
レンヌの司教マルボドゥス(1035-1123)においては、磁力や静電気力は、石には霊性が宿り宝石には魔力が秘められているという一般論の代表的事例として論じられているのである。それゆえその探究も、石に秘められているその超自然的な力を暴き出し人間に役立てようという、ある意味では魔術的な探究の一環である。

アウグスティヌスは医学を否定していた。しかし聖書解釈のための科学的知識が必要な場合は異教徒から借用するという便宜主義をとっていた。
アウグスティヌスの約半世紀前では病は神が与えた試練であり、医学を持ってそれを逃れることは許されない行為であった。しかしこの時代、様々な疫病や病が流行する中で生きていくためには当然医学の知識が必要であった。そのため民は土着的な魔術的な民間医療を主として病から逃れていた。
キリスト教は知的探究心などの精神的欲求や医学的知識、更には宝石や石の魔術的自然観を否定していたにもかかわらず、それなりの形を持って語り継がれていたのは、キリスト教自身も聖書解釈のためや、治療のための魔術的科学を異教徒から知識を借用したりしていたからであり、更に欲望を否定しているだけでは民もキリスト教徒の誰もが生きていくことは出来ず、その人間の欲望を満たす術が魔術や異教徒の科学だったと考えられる。実際、キリスト教も異教徒の自然認識のうち都合の良いものは借用している。
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5.ビンゲンのヒルデガルト
石の持つ超自然的な力についての想念ほ、ヨーロッパ中世の文学作品にも散見される。宝石のもつ神秘的な力がこのように多くの文学作品に現れるということば、大衆の世界においてもそれが広く語られていたことを示唆しているであろう。
ヨーロッパ中世の自然観というときに注意しなければならないことは、文書に残されたものは、実際には一握りのキリスト教知識人の世界のものであり、その背後にいる文字を持たない圧倒的多数が大衆がそれとおなじレベルで自然を見ていたわけではないことである。実際、アウグスティヌスはもとより、ベーダやイシドルスやマルポドゥスといったラテン語を自在に操る聖職者は中世社会における僅少の知的エリートであり、彼らが書き記していることがそのまま大衆の世界で語られていたわけではない。しかしそのようなエリート知識人でさえ、デイオスコリデスやプリニウスといった異教の書を受け容れているのである。
ましてや、土着の民間豪の影響をより強く残している民衆の世界においては、魔術的自然観がよりいっそう色濃く見られるであろうと推量される。
太陽の直射する明るい地中海文明から遠く離れた、深く暗い、森に覆われたゲルマン社会の真相に語り伝えられていた話では、のろいを唱えて磁石の力を引き出すというものもある。キリスト教の教えに反した、異教徒・魔術的な行為である。おそらくこれも土俗的宗教的に由来する迷信であろう。ここでは民間伝承に「十字を切る」といったキリスト教の習慣が重ねられていることがわかる。ヒルデガルトは、宝石の力を地上で用いることは神が望むことであると語ることにより、民間伝承・土着宗教を積極的にキリスト教の枠内に取り入れたのである。

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6.大アルベルトゥスの「鉱物の書」
クンツの『宝石の奇妙な伝説』によれば、石には霊性が宿り宝石には魔力が碧られているという想念は、世界中で語り継がれていたようである。ローマにはエジプトないしアジアから伝わったのであろう。しかしそのような伝承はキリスト教の教義とは本来相容れるものではない。
初期のキリスト教教会がローマ上層階級にはびこる宝石嗜好を弾劾したことは知られているが、それはただ単に奢侈を咎めただけではなく、むしろ宝石が魔術にかかわる物体とされていたからこそであったと言われている。にもかかわらず石の力をめぐるこのような異数的で魔術的な思考は、キリスト教が広まって後もいっこうに衰えることなく、時代とともにむしろ強められていった。実際、一四世紀のペストの流行にさいしては、感染防止の手段としてジルコンやエメラルドを身に着けておくことと記されていたと伝えられている。
中世にかぎられるものではない。宝石の力にまつわる伝承は、ヨーロッパでは17世紀になっても依然として語られていた。17世紀科学革命の前衛であったイギリスのロバート・ボイルでさえ「私はこれらの宝石のついての言い伝えや書き手が高貴な好物に付与してきた医学的高価なるものをげに否定するともりはない」と語って、新しい機械論哲学―ボイルの言う「粒子哲学」―の立場から長編の論文「宝石の力と起源」をかいているのである。
このように宝石と磁石についての魔術的な観念はヨーロッパにおいて揺らぐことなく生き延びた。実際のところ、キリスト教は土着の民衆宗教に完全にとってかわったのではなく、異教的要素や民俗的伝承にたいして、ときにはそれらのいくつかに異端であるとか魔術であるとかのレッテルを張りつけて排斥しつつも、またときにはそのいくつかにキリスト教の衣を着せることにより、実際にはその多くを黙認しその多くと共存してきたのである。こうして中世ヨーロッパにおいては、表層部におけるキリスト教のイデオロギー支配にもかかわらず、その自然観の深層には、前キリスト教的・異数的・土俗的二民俗的ともいうべき精神世界が残されていて、それがアウダスティヌスの禁令や勧告にもかかわらずそれなりの形で自然にたいする関心を喚起しっづけてきたのである。
とりわけ医学・医療の領域においてはそのことは顕著であった。中世において医療は、土着的で呪術的なあるいほ異数的な性格を色濃くおびていた。そして磁力についての関心は、この時代にはどちらかといえばその医療効果-精神的な癒しや心霊作用をもふくむ広義の医療効果-の側面に向けられていたのである。
それゆえにこの時代、ヨーロッパ社会がキリスト教に支配されていたにもかかわらず、磁石と磁力への野心は異教的で魔術的な研究と背中あわせであった。実際、二世紀のフランスはレンヌの司教マルポドゥスや、一三世紀のイギリスのフランチェスコ会修道士バルトロメウス、あるいはやはり一三世妃のドイツの大哲学者アルベルトゥス・マグヌスら、中世キリスト教世界のトップ・クラスの碩学大儒が軒をならべて磁石の持つと言われる超自然的で魔術的な力を公言しているのである。このことは、磁力が当時の人たちに与えた特異な印象をきわ立たせているであろう。 
今バルトロメウスに触れたが、実際彼は磁石について、婦人の不貞を暴くとか、その他の伝承や医薬への使用を語っている。そして同時に、その中に「磁石は一方の端で鉄を引き寄せ、他方の瑞で鉄を撥ねつける」とも記している。これを先に引いたアルベルトゥス.マグヌスの「一方の端で鉄を引き寄せ他方の端で鉄を撥ねつける磁石」の一節と併せて読むと、磁石についての迷信とともに、その特異性が次第に認識されはじめていることがわかる。しかしその磁力の特異性が整理され理論化されるためには、磁石と磁針の指向性の発見を必要としたのである。

このようにキリスト教は現実否定を徹底した結果、自然認識や医術を欠落させたが、それでは現実を生きてゆくことは不可能なので、自然認識や医術を異教や土着的信仰や魔術から借用せざるを得なかったのである。

現実の否定は、頭の中でのみ(=観念としてのみ)可能なのであって、決して現実には有り得ない。実際、現実にメシを喰いながら現実を否定するというのは自己欺瞞であり、それでは下半身(存在)と上半身(観念)が断絶し分裂して終う。
それほどに、現実を否定する意識というものは異常な意識なのであり、この異常な現実否定こそ、現実の中に可能性を求めるのではなく、頭の中だけに閉ざされた可能性を求める(当然それは決して実現されることがない)倒錯思考の原点である。
現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると云っても過言ではない。
「現実否定の倒錯思考」

つまり、如何に観念で現実を否定しようとも、現実に否定することはできない。その結果、キリスト教はひたすら自己欺瞞に陥ってゆく羽目になる。
中世のキリスト教全盛期にも、異端である魔術が残り続けたのも、とりわけ大衆にとってそれが現実の欲望を実現する唯一の可能性だったからであるが、キリスト教会も現実否定の原理主義のままでは信者が増えないので、異教的要素や民族的伝承のうち都合の悪いものには異端とか魔術とかレッテルを張って排斥しながらも、都合の良いものにはキリスト教の衣をつけて取り込んできた。
これを山本義隆氏は「一種の便宜主義」と言っているが、「御都合主義」と呼ぶのが適切である。
つまり、キリスト教はその現実否定ゆえに欠落させた自然認識を、その教義に反する異教や土着信仰や魔術から御都合主義で借用するという自己欺瞞に嵌っていったのである。
中世キリスト教会で神官たちが神学論争に明け暮れていたのは、現実否定の自己欺瞞による矛盾を繕うためである。そんなことをすればするほど、全体が詭弁と化してひたすら難解になってゆく。まさに「詭弁を説明しようとするから難解になってゆく」のである。
ありがとうございました。
(それにしてもキリスト教、とりわけカトリック教会の禁欲主義は異常である。なぜ、そこまで禁欲が徹底されたのか? その疑問に対しては次回追求します。)
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List    投稿者 staff | 2012-04-26 | Posted in 13.認識論・科学論8 Comments » 

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コメント8件

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