2013年10月02日

裏天皇の正体3~裏天皇は南朝発、孝明天皇は偽装崩御して裏天皇となった。

※前回までは、古代の日本の勢力を扱ってきましたが、いよいよ本題のウラ天皇の正体に迫ります。
 明治天皇がすり替えられていたことはよく言われますが、天皇のすり替えはこれが初めてではありません。
この説とセットになっている、「孝明天皇・睦仁親王暗殺説」は実はカモフラージュであり、殺されたと見せかけてそのまま堀川御所に入りウラ天皇となったのです。
書籍『国際ウラ天皇と数理系シャーマン(落合莞爾著)』より要約します。
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●明治天皇は(南朝末裔?)長州奇兵隊の大室寅之祐にすり替えられていた
南朝復元論は、大塔宮護良親王の末裔の中から秘かに選ばれた幕末長州の「寄兵隊(力士隊)天皇」こと大室寅之祐が、世に知らずに孝明天皇の皇位を継承したことが潜在的な効果をもたらした。この大室寅之祐は南朝後醍醐天皇の息子である護良親王の末裔です。

●このような天皇のすり替えは、明治天皇が初めてではありません。天皇のすり替えは南北朝時代から行われていたようです。
天皇すり替えは南北朝時代から行われていた
光厳上皇の皇子とされてきた崇光天皇が、実は護良親王の王子であったのです。
つまり『南朝護良親王→崇光天皇→栄仁親王→伏見宮貞成親王』と続くのが本当の皇室系図なのです。ところが、今日すなわち『落合秘史・南北朝』が公刊されるまで600年に亘り、国民が教えられてきた皇室系図は、『光厳天皇→崇光天皇→栄仁親王→伏見宮貞成親王』とするものでした。
偽りの旧来の皇統図と真正皇統図の違う点はたった一つ「光厳天皇→崇光天皇」と「護良親王→崇光天皇」の違いだけですから、是正するのなら「光厳天皇」を「護良親王」と置き換えれば済むのです。むろん御母についても然るべき変更の必要はあります。真相は『落合秘史・南北朝』で明らかにしたように、建武の新政の際に南北両統の首脳が秘かに合意して、「護良親王の王子を、系図上で付け替えて光厳天皇の皇子とした」のです。
※南北朝は北朝に統合されたというのが定説だが、崇光天皇は実は護良親王という南朝天皇の息子である。天皇のすり替えが行われている。この天皇すり替えは明治だけでなく南北朝時代から行われてきた。

●著者(落合莞爾)の情報源
 「さる筋」からの人聞と、「その筋」からの伝言を多用しましたので、「その正体を明かせ」との声が巷間に聞こえます。これを知った「さる筋」から、「その筋」を秘すのはやむを得ないが、自分の名は必要とあれば明かして良いと伝えてきましたが、やや思うところもあり、取り敢えず本稿では実名を控えプロフィールに止めておきます。
 「さる筋」とは故高松宮殿下(1905~1987)に陰でお仕えしていた舎人です。殿下の
薨去(こうきょ)を以て一旦致仕した後、現役に復帰して「その筋」にお仕えしている人物で、私の所へ初めて現れたのは1991年のことでした。最初は正体を見せなかったのですが、最近は打ち解けて、「その筋」からの伝言を、判りやすく伝えてくれます。
※「その筋」とは、つまり奥の院(ウラ天皇の側近)の人物で、「さる筋」は「その筋」からの情報を筆者に伝えている人物である。

●学習院の原型である京都学習所は、ウラ天皇がつくった倒幕の拠点であり、尊皇攘夷論を生み出した
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建春門外学習所跡地
(画像はこちらからお借りしました
建春門外学習所の設立功労者は、表向きは中山忠能と正親町三条実美とされていますが、実は中山忠能が万事を朝彦親王(当時青蓮院宮、のち中川宮)に頼んだに過ぎず、実際の功労者は朝彦親王なのです。
※京都学習所(現在の学習院)を創設した朝彦親王は、明治維新の真の主導者でありキーマンであった。
後の久邇宮朝彦親王は伏見宮邦家親王の第4王子に生まれた。
これには当然背景があり、それが明治維新を推進した秘密勢力の正体は、朝彦の実父の伏見殿邦家新王だったのです。
皇統の外郭だった伏見殿が代々のウラ天皇として永年に亘り国事の重要事項に関与していたのです。伏見宮家の当主伏見殿が天皇と国事を分担していたことは、今日の今日まですなわち『落合秘史・南北朝』が公刊されるまで、朝廷と国家の最高機密だったのです。
1334年に行われた南北朝首脳の秘密合意で、大搭宮護良親王の王子益仁が皇統の系図上で光厳上皇の第一皇子として扱われ、皇位を継いで崇光天皇となり、その皇子栄仁親王と皇孫貞成親王が伏見殿を称し、曾孫の兄が後花園天皇、弟が伏見殿になります。
 すなわち後花園天皇の弟貞常親王が康正二(1456年)に兄の後花園から勅許を受けて永世親王伏見殿と称し、家系は何世の後であっても天皇を出せることが決まりました。つまり、後花園天皇の血筋が絶えた時には、いつでも天皇を出せる血統バンクとなった伏見宮家は、以来明治維新に至る400年の間、皇室と国事分担して海外活動を専管し、国際問題を取り仕切ってきたのです。
 
 いわば秘密の国際天皇だった伏見宮家では、朝彦の父邦家新王(1802~1872)が幕末期の家長でした。邦家親王は1841年に父貞敬親王が薨去(こうきょ)したことで伏見殿を相続しました。
 ところがこの年、長子で勧修寺門跡の済範入道親王(後の山階宮晃親王)が2歳年下の叔母と駆落ちする不祥事を起こしたために家事向不取締を咎められ、翌年わずか8歳の第6王子貞親王に家督を譲り、隠居して号を禅楽と称します。22年後の1864年、一橋慶喜らの嘆願により、晃親王が罷免されると、禅楽も同時に復飾して伏見殿を再相続します。
 その間も実質上のウラ天皇伏見殿として閑院宮家と国事を分担し外事を専管していましたから、仕事の上では、隠居禅楽を極めこんでいた方が、伏見殿よりも却って好都合だったようです。
※ウラ天皇伏見殿は、実は南北朝時代にすり替えられた南朝系統の崇光天皇の子孫の貞常親王がオモテ天皇閑院宮家のバックアップシステムであり、国事の海外分担を行っていた。

●オモテ天皇とウラ天皇の役割分担
 天皇と国事を分担した伏見殿の専管は海外事項です。国内事項としても測量機関及び諜報機関を配下においていたことは間違いなく、この両者は諸国の自由移動が許されていることから元々不可分な業務で、同一人が測量師でもあり探検家にもなり、密偵としても働いた好例は伊能忠敬です。
後に学習院と改称する建春門外学習所は、「堀川政略」の重要な一旦を担い、矢野玄道が楠公精神を鼓吹したことで、維新志士たちの政治思想を涵養して倒幕の策源地となったことから、明治時代には維新の聖地とされましたが、今日ではほとんど忘れられたようです。
1779年後桃園天皇が崩壊して後継天皇の候補に閑院宮師仁親王と伏見宮貞敬親王の役割分担が10日に亘る議論の末に決定した。折しもアメリカ独立戦争の直後で、多端が予測される国際関係に専念する伏見殿の国事負担を軽減するため、皇室を引き継いで国内事項を引き受ける閑院宮家との国事の分担を話し合っていたのが、議論の真相です。
※護良親王以来、歴代伏見殿の活動拠点はずっと比叡山だった。

●明治天皇はすり替えられたが、孝明天皇が暗殺されておらず、そのままウラ天皇になった
 ことに皇太子陸仁親王の実母中山慶子の実父として、次代天皇の外祖父になる立場にあった中山忠能が、皇太子の外孫陸仁親王を「堀川政略」に沿って「寄兵隊天皇」と交替させ、堀川御所に隠しました。
 孝明暗殺説は「堀川政略」の企画者岩倉具視が「孝明の偽装崩御」が暴露されそうになったときに備えたもので、煙幕として毒殺説と刺殺説の両説をこしらえて同時に流布するという奇手を用いたところ、まんまと成功したものです。
 中山忠能が遺した「中山忠能日記」によると慶応3年7月19日条に、「寄兵隊天皇が、来年の正月上旬ないし中旬のうちに元服と決定と、仰せられました」と書かれています。日記が残っているということが、動かしがたい証拠です。
 1866年12月25日を以て偽装崩御された孝明天皇は、そのまま堀川御所へ入りました。
 ともかく、睦仁親王と入れ替わった寄兵隊士大室寅之祐は、明けて1867年1月7日に践そして明治天皇となりますが、そのかなり前から堀川御所に入ってウラ天皇となりました。
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睦仁親王→大室寅之祐(画像はこちらからお借りしました
 国民に公表された『大統譜』では、明治天皇は「御父 孝明天皇」で「母 中山慶子」です。国民の多くは今日、これが真実でない可能性を「大室天皇説」の形で耳にしていますが、信じるまでには至っていません。それは大室天皇説が、「孝明天皇・睦仁親王暗殺」の大嘘と抱き合わせになっているが、これは実はカモフラージュです。


【まとめ】
①明治天皇がすり替えられたというのは事実である。しかし、孝明天皇と陸仁親王の2人が殺されたというのは実はカモフラージュであり、堀川御所でウラ天皇としての業務を担っていた。
②世間では南北朝は北朝に統合されたことになっているが、実は南朝勢力にすり替わっていたのである。
③崇光天皇は南朝にすり替わっており、その弟は伏見殿と呼ばれ、オモテ天皇のバックアップシステムとして外交業務を担い、測量機関・諜報機関も牛耳っていたのである。
④伏見殿の幕末期の家長が朝彦親王であり、学習院とそこで明治維新のシナリオとなる『尊皇攘夷論』を構築した。
☆権力者が南朝の末裔に入れ替えられたのは、なぜだろうか?
☆ウラ天皇は南北朝時代からの伏見殿と言われている。一方で、幕末明治の孝明がウラ天皇とされている。両者はどういう関係なのだろうか?→ウラ天皇は一人ではなく、複数いるのではないか?
☆天皇のすり替えは国家的危機状況の時にはいつでも起こりうることであり、公家においては暗黙の了解となっている。

事例をるいネット『伽耶・新羅・高句麗11~王族は他国に行っても王族~』より引用します。

極東でも8世紀頃までは、現代では考えられないほど民族間の交流があり、特に為政者クラスは、故国では死んだことにして他国の王に変身するようなケースがあった。

このように、王族の世界ではよくある話のようです。
次回もお楽しみにしていてください!

List    投稿者 yoshi23 | 2013-10-02 | Posted in 14.その他2 Comments » 

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コメント2件

 名無し | 2017.02.24 23:32

分からない事があります。何より血統主義の天皇家が、朝鮮併合時に、何故、人種の違う朝鮮王の所に天皇家の血筋の姫を嫁がせたのでしょうか?イギリス王朝で見ると、併合した中国王朝に自分の王家の人間を嫁がせたと同じになります。アメリカで見ると、黒人のアフリカの王家にアメリカ支配者の身内を嫁がせたと内容が同じ。世界中を見渡しても、そんな愚劣な事をした王家は1件もありません。アジア人同士でもないのです。最近ではタイの王家に中国系の血が結婚によって入っているようですが。特に朝鮮は天皇家にとっては白村江の闘いの時代から「はっきりとした敵人種」朝鮮の血を入れる事自体が100%有りえない事なのですが、やはり今の天皇家は「偽物一家と言う事ですね」顔を見てもそうです。まだ和田国会議員のほうが、よほど天皇家の正統な血統を継いでおられる顔です。

 ユダヤ教による国際犯罪の注意勧告 | 2018.05.12 20:39

やはり今の天皇家は「偽物一家と言う事ですね」

なぜそういったことを言うのでしょうか。

天皇が朝鮮人に襲われている犯罪の事実から目を背けようとしているのですか?

日本人はユダヤ人や指揮下の団体によって犯罪の被害に晒されています。

天皇家は江戸時代まで幕府を支持していました。
孝明天皇が討幕など言うことはありません。

・天皇すり替え・裏天皇といった情報で信じた日本人を犯罪活動に参加させている犯罪組織が存在します。
日本で活動しているユダヤ人の犯罪組織です。

ユダヤ教では現在大規模な組織編制が行われており、その計画の中で日本がユダヤ教関連組織団体の中で次期NO2に当たる組織の結成が予定されている事実がわかりました。

・日本は世界の中でも素晴らしい国だ
・日本が基督教やユダヤ教とともに活動するべきである
などといった内容で民間人を欺き犯罪組織に勧誘する手口の詐欺事件が多発しております。
このような誘い文句で何らかの組織に勧誘するような話があっても絶対に関わらないようにしてください。

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