2011年01月15日

中国の部族移動の歴史 ~鮮卑族の北魏による『華北統一』までの流れ~

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(画像:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/3e/%E5%8C%97%E9%AD%8F%EF%BD%A5%E6%96%89.PNG)
日本は遣隋使、遣唐使を派遣して、中国の制度や文化を取り入れてきました。
日本の『律令制』は専ら唐の国家体制がモデルになっていますが、唐(隋)でとられていた国家体制の基礎は、魏晋南北朝時代に整備されています。

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三国時代の魏から禅譲を受けた西晋(265~316)で中国史上で初の律令(秦始律令:268年)が制定され土地制度としては占田・課田制が実施されました。

■占田・課田制とは?
16歳から60歳までを正丁とし、13-15歳及び61-65歳を次丁とする。
男子一人に占田70畝(約2.4ヘクタール)、女子には30畝(約1.05ヘクタール)。丁男(ていだん。正丁の男)には課田50畝(約1.75ヘクタール)、丁女20畝(約0.7ヘクタール)、次丁男には25畝(約0.7ヘクタール)。
官吏に対しては官品に応じて一品官で50頃(1頃は100畝=約3.5ヘクタール)、以後官品が下がるごとに5頃ずつ下がり、最低の九品官で10頃の占田。
課田50畝に対して戸ごとに戸調として年に絹3匹(72.3m)・綿3斤(667.2g)を収める。次丁男および女が戸主の戸はこの半分。
ウィキペディア

西晋は王朝として短命で華北は戦乱となり、439年に華北を統一した鮮卑族の北魏が均田制を実施し、律令の整備を進めていきました。この北魏の制度が後に中国を再統一した隋・唐でも取り入れられました。
そこで、「華北を制覇した北魏は、なぜ律令や土地制度を整備したのか?(なぜ整備する必要があったのか?)」を探求していきます。本記事では「後漢末期~三国時代~西晋の時代~南北朝時代」における北魏による華北統一までの流れを押えていきます。
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◆2世紀末からの寒冷化→飢饉
後漢末期となる2世紀の終わり頃から、地球寒冷化が始まり、高緯度の華北地方は寒さが一段と厳しくなって飢饉も発生し、各地で著しい人口の減少が起こりました。

~前略~
農業を基盤としていた後漢(25~220)や唐(618~907)、北宋(960~1127)、南宋(1127~1279)、そして明(1368~1644)の王朝の崩壊はすべて、低気温もしくは急激な気温低下と密接に関係があると結論づけた。
気温の低下は中国の王朝を食糧不足で弱体化させた。年間平均気温が2度下がるとステップ地帯の草原に生える草の成長期間が最大で40日も短くなり、家畜の飼育に打撃を与え、北方の遊牧民族が南の中国語を話す人々が暮らす地域に侵攻するきっかけになったという。
~後略~
AFP BBNEWS

~前略~
黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。
ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。
大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。
~後略~
【新説丹後史】 弥生文化圏の成立より

この状態を放置しておくと、生産力もどんどん低下し、国力が衰弱していきます。
そこで、三国時代の魏や西晋は、北方異民族を強制移住させて、労働(農耕)や兵役に従事させて、国体の保持を図りました。

~前略~
また、三国時代には、魏の曹操や曹丕は、監視強化や当時中国大陸で起きた人口の激減への対策として、周辺異民族の中国大陸内への移住政策を強行。特に曹丕は石碑を立てて範囲を決めるなどして、中国周辺の漢人の中原への帰還を熱心に奨励し、周辺異民族の進出はますます促進された。
と、このように五胡は前漢から後漢、三国期にかけて移住してきたのであり、西晋の終わりになって唐突に侵入してきたわけではない。
これら中国の支配下におかれた諸民族はそれまでの部族形態を失って、中国の傭兵として使われたり、奴隷同様の扱いをされた者も多くいた。このような扱いに対する不満が、劉淵の決起に繋がる。
~後略~
ウィキペディア

◆西晋の滅亡→部族間闘争の激化(五胡十六国時代)
西晋の内部権力闘争(八王の乱)の後、西晋の弱体化は明らかであり、服属させられていた匈奴系の部族が蜂起して西晋を滅亡に追いやり、諸部族が争う五胡十六国時代へと突入してきました。

~前略~
この五胡十六国時代の華北はあまりに混沌としていたので、倭国としても外交関係を結ぼうという意思は無く、疎遠な関係で情報もほとんど得ていなかったようです。実際、付き合うほどの価値も無く、倭国にとって有益な情報もほとんど無かったでしょう。ただただ匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の各部族の諸勢力が互いに争い合い奪い合い、その中で各部族の農民が半奴隷状態であちこちに強制移住させられて農地を給付されて働かされていたという状態であったのです。
~後略~
日本史についての雑文その304 律令制の成立 KNブログより

このような部族間闘争が激しい状況では、力の原理によってしか新しい秩序はもたらされません。

この中で華北を制したのは、鮮卑族の中の拓跋部でした。
拓跋鮮卑は、漢人をブレーンとして登用して官僚制度を導入し、強かった各部族長の権限を実質的に制限して統制し、機動力の高い騎兵軍団を活かして、諸国を打ち倒して華北を制覇しました。
北魏は、漢人を積極的に登用し、その知識を利用して組織作りを行ない、官僚集団を作り上げた。元々、鮮卑・拓跋部は最も遅れた部族であったが、道武帝(拓跋珪)の指導の元、これらの急激な改革をやってのけた。それ以外の国は、いわば創始者の魅力の元に、部や落の長が自分の部下を引き連れて結集した政権であり、国というより結社といった方がいい集団であった。北魏は、巧みにそういった部や落の長を軍から引き離し、大臣等に任じ、その実際の運用は官僚たちに任せたために、代替わりの度に混乱を起こす問題を解決させた。
北魏の河北統一に関わってくる要因のひとつに、東晋の将軍・劉裕の軍事活動がある。この頃までに東晋内部では、孫恩の乱という宗教集団の反乱があり、桓温の息子・桓玄による纂奪騒動があり、それを鎮圧した劉裕も帝位を狙ってはいたが、彼は下層の出身で武勲によって自分を誇示しないと民衆から支持されなかった。この実績作りのため、劉裕軍はしばしば北伐に出る。408年、劉裕は南燕を滅ぼした。1年後の409年、今度は北魏が後燕を攻めて、領土の大半を奪った。後燕の領土は朝鮮近傍だけとなり、漢人のひょうばつによって国を奪われた(北燕)。
417年には劉裕は後秦を攻めて、洛陽、長安といった晋の旧都を占領し、皇帝を捕らえて江南に連行した。この時、北魏は劉裕に道を貸して恩を売っている。劉裕が江南に引き上げると、夏が長安を占領した。そして420年、ついに劉裕は東晋から帝位を譲り受け、皇帝となった(宋)。
それからしばらく、北魏は軍事行動を控えて、河北西側の小国の潰し合いを眺めていた。414年には南涼が西秦に降った。421年には、西涼が北涼に滅ぼされた。431年、ついに北魏は行動を開始し、西秦を滅ぼした夏を攻めこれを滅ぼし、関中を手中にした。436年に朝鮮近傍の北燕を、439年に西域の北涼を降伏させ、ついに河北を統一させたのである。
歴史学的雑話 北方異民族史より

ただし、華北統一の時点では諸豪族を武力でまとめ上げた連合国家の状態であり、五胡十六国時代と構造的には大差がない状態でした。
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☆次回は、この北魏が華北の統合を維持していく為に実行した『制度整備』についてまとめていきます。楽しみにしていてください!!
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List    投稿者 yoshi23 | 2011-01-15 | Posted in 14.その他1 Comment » 

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コメント1件

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