2012年02月09日

近代科学の成立過程18~十六世紀ヨーロッパの言語革命はキリスト教と金貸しの共認闘争だった

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カエサルのガリア征服(この画像はこちらからお借りしました)
近代科学の成立過程シリーズ、前回はイギリスが国家を上げて科学技術を吸収し、それを武器にして略奪行為を国家ぐるみで行い、世界帝国を築き上げていく過程を学びました。この後、ヨーロッパ世界は国民国家の時代となっていきます。
今回は、この国民国家の時代への転換の基礎となった、16世紀ヨーロッパの言語革命について学びます。この言語革命はカエサルによってヨーロッパにもたらされたラテン語に変わって自らの言語を国語として獲得し、中世にラテン語を独占したカトリック教会から独立していく過程でした。
山本義隆氏の著『十六世紀文化革命』(みすず書房)の「第9章 一六世紀ヨーロッパの言語革命」の前半要約です。
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1 中世前期の俗語とラテン語
十六世紀文化革命の指標は、大学とは無縁な職人や芸術家や外科医が俗語で書いた科学書・技術書の出現であった。それまで文字文化から阻害されていた人たちが、自分たちの言語で経験と思考を公表し、知の独占に風穴を開けたことである。そのためには俗語自体が変革されなければならず、十六世紀文化革命は同時期の言語革命と並行して進められた。
カエサルが紀元前50年にガリアを征服し現在の西ヨーロッパに文明と統一がもたらされた。ローマ人の言葉であるラテン語は当初から統治のための公用語であり文明の言葉でもあった。ラテン語は比較的短期間に土地の言葉にとって変わっていった。
キリスト教はもともとローマ帝国属州の奴隷や虐げられた民の間で生まれたが、四世紀末には帝国の国教となり支配階級の宗教となった。四七六年に西ローマ帝国が崩壊しガリアはフランク族の支配下に入るが、キリスト教は生き延びガリアの地に広まっていく。そしてローマ帝国に変わってキリスト教会が文字文化を独占していく。
キリスト教がガリアの地に浸透して行く過程は、土地の支配者をキリスト教化する形で進められた。改宗は多くの地で支配層だけに限られていた。支配者もキリスト教会の階級制度は統治に利用できる事に気付いた。ガリアではフランク族を統合したクロビスが五世紀末に、ブリテン島ではケントの王エセルバートが六世紀末に受洗している。ヒスパニアでも教化は支配層から始まり、北イタリアのランゴバルト族も七世紀の初めに王の入信が認められた。こうして俗権と教権の提携が始まった。その際に上位にあったのは教権であった。中世ヨーロッパ社会は超越的権力である教皇が世俗の権力に君臨するという二重の支配構造を有していたのである。
八〇〇年に神聖ローマ帝国の王冠を戴いたシャルルマーニュが王朝の秩序樹立のさいに範としたのは旧ローマ帝国の秩序でありキリスト教の組織であった。シャルルマーニュは宮廷に知識人としての聖職者を集めラテン語を教育する宮廷学校を創設し、さらに修道院に学校の設置を促す勅令を発している。シャルルマーニュがラテン語の教育に力を入れたのは民衆のキリスト教化に必要な聖職者の部隊を養成するためであったが、今ひとつは文書による行政を復活させるための人材を必要としたからであった。行政の言語にその時代に唯一の書き言葉であったラテン語があてられたのは必然であった。キリスト教とラテン語はヨーロッパの権力者たちに支配のイデオロギーと手段を与えたのである。
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シャルルマーニュ(カール大帝)の戴冠(この画像はこちらからお借りしました)
シャルルマーニュの死後、帝国は解体に向かうが教会や修道院の附属学校は徐々に数を増やしていった。爾来、ヨーロッパの学校制度は、イタリアに存在していたとされる在俗の学校を除いて、基本的に教会の組織であり、一二世紀に創られていった大学もナポリ大学のような少ない例を除いて教会の息がかかっていた。パリ大学もオックスフォードもボローニャ大学も教権の後ろ盾を求めた。教育は教会の支配下にある教育機関でのみ行われ、そこでラテン語とキリスト教思想を教育された。このように中世において支配宗教および司法と行政のための文書言語としてのラテン語は少数の知的エリート、主として教会に属するカーストの言語であり、民衆の生活と隔絶した物であった。
ところで一口にヨーロッパと言っても実際には風俗も言語も違う異なる民族の寄せ集めである。これらの地域をヨーロッパと一括りに語ることが出来たのは、社会上層部におけるキリスト教の支配と共通言語であるラテン語の存在ゆえにであった。実際、聖職者たちはヨーロッパのどこに行ってもその地の聖職者や支配エリートとラテン語で意思疎通が出来たのである。ラテン語は正規の文書語、教会と文化の用語、ヨーロッパ統合の要因であった。
以上で言うラテン語はローマ帝国における法律と行政のためのラテン語を指す。強固な行政機構のための書き言葉として利用されたラテン語は帝国の末期まであまり変化することはなかった。それに対して帝国の民衆に使われた話し言葉としての俗ラテン語は帝政末期には古典ラテン語と異なっていたと言われる。俗語とは俗ラテン語がさらに変化して出来たロマンス語(フランス語など)および土着のフランク族の言葉(ゲルマン語)を指す。こうして何世紀もの間に民衆の話し言葉としての俗語と支配層の書き言葉としてのラテン語の乖離が進行していった。九世紀の初頭にはラテン語は民衆に理解できなくなっていた。圧倒的多数の民衆は文字文化と無縁のところで生活し、支配階級の俗人貴族もラテン語に通じているのはごくわずかで、ラテン語を操る者だけが文明人であった。

共同体(共認基盤)を喪失したヨーロッパにおける社会統合は、共同体を失ったがゆえに規範共認では集団を統合することが出来ず、法律などの観念で統合するしかなかった。風俗も言語も違う部族の寄せ集めにすぎない欧州が「ヨーロッパ」という一括りの観念が成立したのは、キリスト教とラテン語という共通(支配)観念があったからだが、これも共認基盤を喪失したが故に観念によって統合するしかなかったことの裏返しだった。教皇権力が王権より強いのも、観念(キリスト教とラテン語)で統合するしかないから
共認基盤が存在せず、観念統合が全てなので、観念は権力を獲得し保持するための武器(手段)となる。だから、ヨーロッパでは中世キリスト教会でも、近代の科学者たちも、エリートの間だけで観念を隠匿し、大衆には知らしめないことが、支配のための常套手段となってゆく。
例えば、神聖ローマ帝国の王となったシャルルマーニュもが権力を安定的に維持するために教会の権力を必要としたのは、彼が武力だけでのしあがった、言わばやくざの親分に過ぎなかったからであろう。力が強い者が支配者になれるというルールだけではいつまでも殺し合いが続くことになる。本源的な共認が崩壊したヨーロッパでは、教会が王として認めることが王権を安定させる唯一の共通観念だったのであろう。
■参考投稿
8.大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機
10/9なんでや劇場1 追求過程では普通の人だったが、弟子や信者ができてプロ化した古代思想家

2.ヨーロッパ社会の変化
西ローマ帝国の崩壊後、ギリシャの科学と哲学などはその大部分が見失われていた。修道院に古代の学芸が細々と伝えられていたが修道院は点在する孤立空間であり、事実上院内に死蔵されていた。西ローマ帝国の没落から数百年間、ヨーロッパの文字文化はきわめて少数の聖職者と支配者の一部に独占されていた。
変化は一二世紀前後に始まる。この時期ヨーロッパでは産業革命と農業革命が進行し気候にも恵まれて農業生産性が大きく向上する。その結果、余剰生産物の交換経済が始まり、人口の増大と領主的束縛の弛緩も相まって空前の都市文化がおこり、これまで聖職者と騎士と農民からなっていた社会に都市に住む商人や職人という新しい階層が加わることになった。商業は商品を携えて旅する遍歴商業として営まれたが、やがて都市に定住して為替手形で取引する文書主義に移行していった。一三世紀商業革命である。日常の業務でも正確な記帳による商品と会計の管理が不可欠となり見積書や請求書が重視され手紙のやりとりも増大した、こうして一四世紀には数学や法律や地理学を身につけた物書き商人が登場し、聖職者と宮廷貴族による文字文化の独占を掘り崩していく
他方で王権は、国庫を豊かにするため都市の有力商人の支援を仰ぎ、見返りとして都市に特権を与えた。さらに中央集権を強めるために支配機構に都市市民のエリートを登用し新たな知識階層としての官僚層が生み出されていった。統治機構の肥大化に伴い文書依存も高まっていった。一二世紀にはフランスやドイツで公文書にフランス語やドイツ語が用いられるようになる。
書き言葉としての俗語使用は一二世紀の宮廷文学・騎士文学に始まる。これらの世俗的貴族文学としての俗語文学は騎士、小貴族を対象として君主に対する忠誠と戦闘に於ける勇気を表現するものであった。ともあれ、宮廷文学・騎士文学に於ける俗語使用は俗語にそれなりの権威を与えることになった。
中世文学の傑作と言われる薔薇物語が書かれた一三世紀中期には騎士文学の盛期は終わり、それ以降俗語文学は市民の関心を呼ぶものにシフトしていった。俗語による文字文化の拡大という点では、商業目的から読み書き能力を身につけていた商人たちの果たした役割の方が大きい。一四世紀にダンテが『神曲』を、ボッカッチョが『デカメロン』を共にトスカーナ語で著わし広く受け入れられていく基盤は出来ていたのである。
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デカメロン(この画像はこちらからお借りしました)
このような背景の中で都市市民の初等教育においても俗語が重視され始め、都市の市民層は教会の目的から離れた学校を求めるようになっていった。長期のせめぎ合いを経て、学校の管理権は次第に市民に移行し教会の影響から抜け出していった。一四世紀には商人や職人の子弟のために俗語で教育することを目的とし教会から独立して地方行政局が運営する習字学校が出現する。こうして一五世紀末にはヨーロッパ全域で書き言葉としての俗語使用は拡大しそれに伴い都市市民の識字率も上昇していった。

山本義隆氏は、この時代の都市化は農業による余剰生産物が原因だとしているが、それよりも大きな冨をもたらし都市と市場を生み出したのが十字軍である。十字軍はキリスト教の聖地をイスラム教から奪回する聖戦と言われているが、その実態はヨーロッパ人によるイスラムからの冨の略奪行為だった。
100年以上に亘る十字軍遠征の結果、ヨーロッパでは市場が拡大し商業都市が発達していく。十字軍遠征は金貸したちが法王をそそのかして始めたものだが、略奪した財が原資となってヨーロッパ市場が拡大したと同時に、略奪集団である騎士団が略奪財を元に新しい金貸し勢力と化すという形でヨーロッパ市場は拡大していった。
■参考投稿
9/18なんでや劇場5 自我が全ての中心という西洋人の意識が原点となって近代市場が形成された
12/29 なんでや劇場レポート②~近代市場は近世欧州社会の特殊事情の中から生まれた~
十字軍と都市の発達

3.学問としてのラテン語
しかし、学問と宗教の世界は依然としてラテン語の聖域として残されていた。一二世紀から一三世紀にかけてヨーロッパは多大なエネルギーを費やして古代の学問をアラビア語やギリシャ語から翻訳するが、全てはラテン語への翻訳であり翻訳者の母語に訳されたものは無い。大学教育は全てラテン語で行われていた。ラテン語は汎ヨーロッパ的な学問言語であることによって学問と言語を全ヨーロッパに流通し文化的な単位としてのヨーロッパという観念を成立させていた。
学問世界で言語障壁を無化したラテン語は、民衆との間に高い障壁を設けることになり、民衆を学問世界から排除する有効な手段ともなった。ラテン語使用は学問や思想を独占するための手段という性格を強めていたのである。
もともと大学と言っても中世では一つのギルドであり、クラフトギルドが工芸技術を伝承したように、大学ギルドでは講義と討論で知識と論証技術を伝承したのである。大学ギルドでも学問世界の隠語であるラテン語の使用を強制することでスコラ神学やスコラ医学を独占していたのである。ルネサンス期にスコラ学に異を唱えたのは人文主義であったが人文主義は学問世界の排他性を打破することはなかった。多くの人文主義者にとって古典語はむしろ中世の大学以上に重要視されることになった。人文主義者は中世スコラ学者の用いたアラビア語やキリスト教の言葉が混じったラテン語を野蛮と見なし、古代の純粋で典雅なラテン語を理想として対置した。人文主義の運動は古典語の素養と古典文献の知識を不可欠とするものであり社会的にきわめて少数の閉鎖的エリート集団によって担われていたのである。
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ラテン語祈祷書(この画像はこちらからお借りしました)
このようなヨーロッパ知識層の知の秘匿体質は古代にまでさかのぼる。古来ヨーロッパでは神から与えられた真理はみだりに公開してはならないと言う観念が行き渡っていた。ピタゴラスの弟子のリュシスは哲学を公にすることは師が禁じたと伝えている。プラトンは対話篇『パイドロス』で不適当な人に言葉を与えることに対する危惧をソクラテスの口から語らせている。三世紀の教父オリゲネスや、一三世紀のロジャーベーコンによる同様な発言も残されている。自然の秘密が俗衆の目に触れぬよう包み隠すことが知識階級の道徳的責務でさえあった。学問世界におけるラテン語の排他的使用はそのための最も直接的で有効な手段であった。

共認基盤が存在せず、観念統合が全てなので、観念は権力を獲得し保持するための武器(手段)となる。 だから、ヨーロッパでは中世キリスト教会でも、近代の科学者たちも、エリートの間だけで観念を隠匿し、大衆には知らしめないことが、 支配のための常套手段となってゆく。
観念で大衆を支配するのは、中世キリスト教や近代科学者たちだけの方法ではない。現代の日本でも統合階級は一般の国民に理解できない難解な観念を駆使することで国民を支配している。例えば、日本は法治国家であり、すべての国民は法によって支配されているが、その法律を熟知している大衆は殆どいない。
 
 何か問題があって法律に目を通しても難解な表現が連続し、理解することはほぼ不可能なように出来ている。そして、大衆は法の内容を熟知し解釈し執行する知識と権限を持っている、統合階級に支配されるしかないように出来ている。
■参考投稿
「法律」と「捜査権」と「カネ」と「天下り」の特権を握ることで「官僚支配」が形成されている

4.カトリック教会とラテン語
 一一九九年教皇イノケンティウス三世はメッツ市の信徒が聖書をフランス語に訳し自分自身で解釈し説教しようとしているという司教からの報告に次のように答えている。「信仰の奥義は至る所すべての人に説明すべき物では無い。教会において教師の階級はすぐれたものである。従って無差別に誰もが自分はこの任務を持つと主張してはならない。」
 中央集権化されたカトリック教会では聖書解釈の権限は上級聖職者に独占されていた。そしてその独占はラテン語によって維持されていた。裏返せば教会権力にとって俗語使用はそのこと自体が潜在的異端であり、忌諱に触れることであった。俗語の聖書を読んで教皇庁とイエスの教説に大きな懸隔があることを知り自らの理解を説いて異端として弾圧されたワルド派や、聖書を最初に英訳して異端として弾圧処刑されたウィクリフの一派、聖書をチェコ語に翻訳し教会刷新運動を起こし火刑に処せられたプラハのウス等の例がある。一五世に印刷技術が発達すると、ドイツの司教はギリシャ語ラテン語からドイツ語に翻訳されたあらゆる書物を検閲するとしている。ここでも問題なのは印刷書一般ではなく俗語の書籍であった。
 それとは裏腹に、この時代には人文主義者が異端的な言説をもてあそんでも、それがラテン語で書かれていてその影響がエリート層に限られているかぎりでは、教皇庁は事実上黙認していた。一五一七年にマルティン・ルターは贖宥状を批判する「九五箇条の提題」を発表した。これは宗教改革の発端と言われるがそれは後から見た判断でルターはこれをラテン語で書いた。その段階ではルターは聖職者の内部での教会批判を意図していたと思われる。しかしこれは多大な反響を呼び起こしたので翌一八年にはこれをドイツ語に翻訳・要約して印刷したが、それは瞬く間にドイツ中に広まり、こうして始めて宗教改革は民衆の世界に届くことになった。
 ルターの宗教改革以降、ルターの書いたものを始め改革派のパンフレットが飛ぶように売れたので印刷業は商売としてもペイするようになり、読書人口も拡大していった。このようにプロテスタントは半世紀前に登場した印刷技術を積極的に利用して大衆に訴えかけた。これに対してカトリックは印刷に消極的というよりはむしろ警戒的であった。これは単なる戦術の違いではなく信仰のあり方、聖職者と民衆の関係の理解に於ける基本的な違いに由来する。
 それまでの教会では信仰と教義の基本が聖書にあると明確に定められていなかった。カトリックではテクストを読むのは聖職者に限られ、大衆は教会上層部の決定や上級聖職者の解釈を聞かされるだけでよいと考えられていた。それに対してプロテスタントは、福音書を通じて神の言葉に直接接することが信仰の基礎に置かれ聖書の繙読が最も重要と位置づけられた。従って神と信徒の間を仲介する特権的な聖職者や権威主義的な教会を必要としない。とすれば、大衆が読める聖書が必要であり特殊な言語ラテン語は必要としなくなる。
 最初にティンダルが新約聖書を英訳したのは1526年と34年でありそのことは教会の権威者たちを震撼させた。これは、中央集権的で階級的な教会組織がキリスト教誕生当時から存在していたかのように語るカトリックの虚偽を暴き出すことになった。ティンダルは1563年に異端の罪で絞首刑に処せられた。フランスでは仏訳聖書が1528年に出版され、その翻訳者ベルカンは1529年に火刑に処せられた。他方では宗教改革の最中にドイツから持ち込まれる改革派の印刷物もラテン語で書かれている限り大目に見られていた。
16世紀の後半、もはや俗語書籍の普及を押しとどめることが不可能になった段階で教会がとった方法は禁書目録の作成であり、ここでも俗語が問題にされた。1600年に異端として火刑に処せられたブルーノが書いたスコラ学批判の対話篇はいずれもイタリア語で書かれており、ガリレオが宗教裁判に掛けられたのも彼が地動説を唱えた事よりも天文対話をイタリア語で著し自説を誰にも分かるように語ったことが問題視されたと思われる。カトリック教会はラテン語で書かれている限り新発見を報じる書物でも許可し、反対に学者が誰にでも理解できる国語で自説を広めようとすると告発する場合が多かった

ルターの宗教改革が広がったのは大衆の支持もあったがそれだけではなかった。ローマ教皇から破門されたルターを守護したのは、ザクセン選帝侯をはじめとするドイツの有力領主たちであった。都市化の進展と市場の発達により、封建領主たちの権力基盤が、キリスト教から都市の富裕商人とそれを支える金貸しへと大きく転換してきている時代であった。
 ローマ教皇側に立ちルターを捉えるためにルター派のドイツ諸侯と戦った神聖ローマ帝国皇帝のカール5世は、皇帝選挙に出馬する際にローマ教会と関わりの深いフッガー家に資金を借りていた。スペインの王でもあったハプスブルク家カール5世の王位を継いだフェリペ2世は即位するや否や破産を宣言せざるをえなかった(1556年)。ハプスブルク家に金を貸していたフッガー家も没落していく。十字軍以来のキリスト教会を拠点にした金貸しは没落していった時代であった。
ルターの宗教改革自体は、後のカルバァンのように商業自体を肯定するところまで進んではいないが、聖書を信仰の中心に置くことで、ローマ法王の権力を否定することを可能にしている。ローマ教皇が言うことでも聖書に書いていなければそれは正しくないと反論することが可能になる。ルターの宗教改革は新興勢力にとって権力の交代を正当化するのに都合がよい思想だった。
カルヴァンは、職業は神から与えられたものであるとし、得られた富の蓄財を認めた。この思想は、当時中小商工業者から多くの支持を得、資本主義の幕開けを思想の上からも支持するものであったとされる。
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ルターとカルヴァン(この画像はこちらこちらからお借りしました)
ちなみに、ルターは商業を肯定はしていないが、ルターの父親は富裕な鉱山業者であり、法律家になる事を期待されてロースクールに通っていたという経歴の持ち主である。また、宗教改革の中で司教の妻帯を認め、自信も41歳の時に26歳の元修道女と結婚し三男三女を設けている。修道者のように神のために結婚しないことをよいものであると認めていたが、その反面、常に肉体的欲望に悩まされるのなら結婚するべきだと思うようになったそうである。都市化による自由な性市場の拡大を認めていたことは間違いないようである。
■参考投稿
宗教改革が金貸しの勢力図を激変させた

5.一六世紀の言語革命・国語の形成
一六世紀に俗語で書かれた科学書が登場したことは単に国語が利用されただけではなく、民衆の話し言葉であった国語が、語彙を豊富化し思想や学問の記述に耐えられるまでに鍛え上げられ文法の整備や正字法の確定を通して標準化され国語になるべき言語が鋳造されていったことを意味している。
 俗語を学術的に使用するためにはボキャブラリーを増加させる必要があった。一四世紀末につくられた英訳聖書ではラテン語や外国語から千を越える言葉が借用されている。一六世紀に自ら英語で執筆したエリオットはラテン語やフランス語からの借入語を用いインキ壺用語と揶揄されたが、その多くは現代英語の不可欠な部分をなしている。一六世紀にドイツでルターが聖書を独訳したときにも民衆の言葉を使用するだけでなく言葉を編み出さなければならなかった。パラケルススもラテン語やギリシャ語からいくつも特異な言葉をつくり出している。新生ネーデルランドのシモン・ステヴィンもフランスのデュ・ベレーも同様であった。
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聖書とABC(この画像はこちらからお借りしました)
 それだけではなく、当時はイタリア語とかスペイン語と言っても標準化されたものが存在した訳ではなく地域ごとに異なる方言しかなかった。例えばドイツ語ではバイエルン人がザクセン人の言葉を理解できないし、フランスでは住民・地方・都市の数だけ習慣や言語が存在するという証言があり、イタリアは少なくとも14の俗語に分かれしかもその俗語のすべてが各自内部で分化していた。従って一六世紀に俗語が国語として使用されるためにはどの国においても領邦からなる封建国家の諸方言からの淘汰をとおして有力言語が浮上し国家の国語に結晶化されなければならなかった。
 イベリア半島ではカスティリア方言がスペイン語に、フランスではイル・ド・フランス地方の言葉がフランス語に、イタリアではトスカーナ方言がイタリア語に、イングランドではロンドン方言が英語に昇華していった。
 地域的な話し言葉であった俗語方言のひとつが他の諸方言を上回る有力言語として規範化され、さらには文法的に整備されて標準化されて国語に成長し、それと同時に語彙が豊富化されて込み入った思想表現に耐えられるように鋳直され、やがてラテン語使用が絶対的であった領域にまで使用されるようになる過程は、言語革命とも言うべき根底的な変化である。一六世紀文化革命にはこの言語革命が伴っていたのである。
その言語革命の背景的要因としてはいくつかのことが考えられる。第一には印刷書籍の出現、第二には宗教改革、そして最後に国民国家の形成がナショナリズムを喚起したことである。

一六世紀言語革命の果たした役割は非常に大きい。近代市場の拡大は十字軍や大航海により略奪した物財が原資になっているが、市場が恒常的に拡大していくためには、大衆の欲望を過剰刺激することが不可欠であった。そのためには、大衆に誰にも私権獲得の可能性が開かれたと刷り込み、利便性や快美性を煽る必要があった。宗教改革は従来の禁欲的なカトリックから金儲けを肯定するプロテスタントへの転換であり、印刷書はこのプロテスタントの拡大だけではなく、ロミオとジュリエットに代表されるような自由な性市場を蔓延させる手段としても使われた。
 大衆が理解できる言葉で、プロテスタントの教理が広まり、文芸書と共に自由恋愛の観念が広まることで、市場は着実に拡大していったのである。
■参考投稿
2.私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた

※まとめ
十六世紀ヨーロッパの言語革命は、大衆が使っていた俗語が正式な国語となり、それまで知識を独占していたラテン語に取って代わっていく過程でした。この過程は、ヨーロッパを観念で統合する勢力がカトリック教会から都市の商人を基盤とした金貸しに変わっていく過程でもあります。
金貸しは、市場を拡大するため、禁欲的なカトリックに変わる観念であるプロテスタントや恋愛を美化した文学を大衆にばらまき大衆を洗脳していったのです。金貸しが共認闘争でカトリックに勝利したことを象徴しているのが16世紀ヨーロッパの言語革命だと言えるでしょう。
次回は、金貸し勢力がどのようにしてカトリック教会との共認闘争に勝利したのか、その過程を見ていきます。

List    投稿者 nodayuji | 2012-02-09 | Posted in 13.認識論・科学論2 Comments » 

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コメント2件

 とべ | 2013.02.09 15:39

大変勉強になりました。これこそグローバル化、構造改革、多様化の中で日本が失った力の源泉だと思います。
日本は大変な文化資産を失いました。
その結果、古い日本は無くなり、かといって西洋にもなれず、西洋に従属するだけの存在になり果てました。
今一度、日本の強みとは何であったか、神風特攻や玉砕までも可能にした日本の組織の強みを再生すべきなのだと思います。

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best replica hermes evelyne bag 日本を守るのに右も左もない | 次代に求められる共認形成力とは 第7回~共同体の集団統合=全員一致とはどのようなものか~

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