西アジアにおける遊牧の起源と伝播過程
西アジアの遊牧部族が父権制に転換したのは何故か?
その前提となる基礎資料として、西アジアにおける遊牧の起源と伝播過程を示す発掘事実を整理しました。
いつも応援ありがとうございます。
引き続き、参考にしたのは『ムギとヒツジの考古学』(同成社 藤井純夫著)
レヴァント南部では、8600~8000年前に家畜ヤギ・ヒツジが伝播したが、全体としてヤギ・ヒツジへの傾斜が強まり、集落の縮小、遺構の簡略化などの諸現象とあわせて、遊牧化の兆候が指摘されている。
8000年前頃のレヴァント南部のヤルムーク文化ではヤギ中心の家畜飼養が認められ、ヒツジ中心の集団が遊牧的適応へと分派したことを暗示している? 8000年前から進行し始めた乾燥化による遊牧的適応か?
このヤムルーク文化では7500~7000年前の地母神像が出土していることから考えて、当時は母権制か?
8000年前以降 ヨルダン南部に初期遊牧民遺跡(カア=アブ=トレイハ遺跡)。この地域(アル=ジャフル盆地)からは8000年前以前の遺跡はまだ確認されていない。その乾燥域に突如として現れた遺跡は、初期遊牧文化成立の証か?
ステップ地帯の中央部に家畜ヒツジが出現し始めるのは、8000~7500年前。
それ以前のトランスヨルダンのステップ・砂漠地帯では、農耕の痕跡が先に認められる。耕作の形態としては、現在のベドウィンが行っている降雨任せの楽観的農耕が想定されている。そこに8000年前以降、突如としてヤギ・ヒツジが現れ、当初から比較的高い比率を示し、群れの構成ははじめからヒツジ主導型になっている。これらの事実は、遊牧的適応の始まりを強く示唆している?
パルミュラ盆地やエル=コウム盆地と同様、トランスヨルダンにおける遊牧的適応は、8000~7500年前で進行し始めた。その動きは唐突であり、当初から完成された形を示していた。従って明らかにステップ内部のおける家畜化ではなく、レヴァント回廊の定農定牧型集落に導入された家畜ヒツジが、周辺ステップ地帯へ遊牧的適応を派生させたと考えられている。
7000年前頃、ナイル川下流域でも、突如として家畜ヤギ・ヒツジが現れる。それだけでなく、栽培ムギも同時に導入。シナイ・ネゲブ地方における遊牧的適応の成立を示す。
このように、レヴァント地方内陸部ステップ地帯のヒツジ遊牧化の過程は、8000~7500年前に進行したと推定されている。その過程を遺跡から追尾できるのはレヴァント地方だけであるが、同じことはアナトリアやメソポタミアの周辺でも進行していたに違いない。
遊牧の遺跡とされるのは、8000~7500年前のレヴァント地方の乾燥域に突如として現われ、突如として消え去った、ビュラン・サイトと呼ばれる遺跡。ビュラン・サイトはヒツジ遊牧民が放牧中の群れを見張る時の待機場所だと考えられている。これがビュラン・サイト現象。多くは小高い場所に位置しており、住居址・炉址などの遺構はほとんど伴わず、遺跡の大半は単なる石器の小型散布地にすぎない。
但し、この段階では、ヒツジ・ヤギの出土比率は低い。つまり、遊牧だけで生活していたわけではない。従来通りのガゼル等の狩猟によって生活をしていた部族も多く、遊牧化した部族でも依然として狩猟に力点をおいていた部族も多い。狩猟採集民が補足的に家畜を飼っている状態。
農耕牧畜の東への伝播ルートは、イラン高原中央の砂漠地帯を挟む南北2つの迂回ルートが考えられている。イラン高原の北側遺跡としては8000~7000年前のトルクメニスタン南西部のジェイトゥン文化。ムギ栽培と家畜ヤギ・ヒツジ。
イラン高原の南側ルートの実態はよくわかっていない。イラン高原南部のザグロス山麓南部とパキスタンのメヘルガル遺跡との中間地帯では、先土器新石器文化の農耕牧畜の大型集落はまだ確認されていない。農耕牧畜社会という段階を経ずに遊牧に登場、あるいは狩猟・採集部族の栽培が継続したのがイラン高原だと考えられている。例えば、イラン南西部のテペ=トルゥアイでは、7500年前の遊牧拠点の存在が知られている。
6000年前 ネゲブ地方のナハル・シェケル遺跡群は短期居留のためのキャンプ遺跡であり、放牧のための拠点と考えられている。同じ場所で見つかった近年のベドウィンの短期居留址とも類似している。同時代の農耕集落は約10~15km北方の河川流域に集中しているので、そこからの放牧拠点と考えられている。当初、日帰り放牧であったのが集落の近辺から徐々に距離を伸ばしはじめたことを示す一例と考えられている。
6000年前以降 メソポタミアでは非常な勢いで集落が増加。ウルクのような超巨大集落も、灌漑農業にもとづくムギの量産。一方、メソポタミアの周囲には広大な遊牧世界が形成され、遊牧人口も急増。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2011/02/1896.html/trackback