2012年01月19日

近代科学の成立過程15~科学技術者たちは侵略航海による私権の可能性に収束し、国家プロジェクトに組み込まれていった~

 前回(近代科学の成立過程14~国家ぐるみの海賊行為のために天文学・地理学は発展した)は、山本義隆氏の『十六世紀文化革命』から「第7章 天文学・地理学と研究の組織化」の要約を引用しながら、天文学・地理学の発達によって大航海時代を迎えたのではなく、実は略奪とその後の貿易(一方的な搾取と奴隷貿易)を目論む国家権力や商人の後押しによって発展したということを見てきました。
 引き続き山本義隆氏の『十六世紀文化革命』から「第7章 天文学・地理学と研究の組織化」後半部分の要約を引用しながら、近代科学の発展過程を見て行きたいと思います。 
 
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                       国家プロジェクト:壁面四分儀で観測するチコ・ブラーエ
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5.南ドイツの数理技能者たち
 もちろんニュールンベルクの影響は近隣の諸都市にもおよび、ニュールンベルクの100キロほど南のアウクスブルクは天体観測機器や天球儀の製作にすぐれた腕をもつシスラーを生んでいる。
 メランヒトンは、コペルニクス理論を受け入れることはなかったものの、天文学をふくむ数学を重視した教育改革を声高に主張し、強力に推進した。その影響は、彼の弟子たちがドイツ各地の大学で教鞭をとるようになったこともあり、ドイツ全域の大学のみならず、さらにはネーデルラントやデンマークにまでおよんでいる。こうしてレギオモンタヌスとメランヒトンの働きで、16世紀のドイツは天文学の先進国になり、17世紀にはヨハネス・ケプラーを生み出すことになる。
 聖職者をめざして1589年からチュービンゲン大学に学んでいたケプラーを天文学に誘ったのは、その大学の天文学の教授でルター派のメステリン(1550-1631)がコペルニクス理論を説いたからであった。16世紀後半にコペルニクスの太陽中心説の信奉者は10人を越えなかったと言われる。
 またヴィッテッベルク大学で1530年代にメランヒトンに学んだのが、後にポーランドに赴いてコペルニクスに自著の出版を促すことになるレティクス(1514-74)であった。ポーランドでレティクスは、コペルニクスに著書の出版を熱心に勧めただけではなく、コペルニクスの理論を説いた『第一解説』をみずから執筆し、1540年にそれを出版することでコペルニクスの背中を押した。コペルニクスにとっては、レティクスの『第一解説』は、自説がキリスト教社会にどのように受け入れられるのかを見極めるための観測気球の役割を果たした。
こうしてコペルニクスの最初にして最後の弟子レティクスは、コペルニクスに自著の出版を決意させ、その草稿を持ち帰り、1543年にコペルニクス畢生の書『天球の回転について』が誕生したのである。
 
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               コペルニクス
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 プトレマイオスの再発見によって天文学とともに復活した地理学と地図学もまた、15・16世紀における遠洋航海の拡大によって飛躍的に発展をとげることになる。とくに地図製作は、ハード面での印刷地図の進歩に支えられ、コロンブスによる新世界の発見とその後急速に進められた新大陸への探検航海の拡大、そしてヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開通以後の東アジア各地へのヨーロッパ人の進出により、内容的にも急速に手直しされていった。
 こうしてみると、ニュールンベルクそしてその近隣の南ドイツの都市のアクティヴィティが天文学の改革と地理学の発展にどれほど大きく寄与したかがわかるであろう。それは観測機器を設計・改良し、みずから観測し、ときには印刷や出版までこなす「なかば応用科学者、なかば道具製作者」としての数理技能者が作り出した伝統のうえに生み出された。15・16世紀のニュールンベルクにおいては、一方でデューラーのような大芸術家が数学者に接近していったのにたいして、他方では、レギオモンタヌスのような大数学者が職人に接近していったのである。
 
6.ネーデルランドの数理技能者たち 
 『宇宙地誌』の1533年の版に付された付録「二点間の距離をいかにして測定するのかの、これまでに知られていなかったノウハウを教示する、すべての地理学者にとってきわめて有益で有用な小冊子」においてヘマがはじめて地図製作のための三角測量の技法を印刷出版したことは特筆されるべきである。
 近代国民国家の形成にともなって、版図の全域をくまなく見渡し正確に表現する陸上地図の製作は、支配権力にとって喫緊の事項であった。それに封建領主の力の低下により土地所有形態が変化し、領地の再配分の必要性が生じ、土地の正確な測量にたいする需要が高まっていたこともある。そしてアピアヌスやヘマ・フリシウスのような数学者たちによって、これまで天体観測に使用されていた装置―四分儀、アストロラーベ、十字桿など―が改良され測量技士たちに推奨されていた。この時代に航海術とならんで測量術もまた数理技能者が関心をよせる技術に変貌を遂げていたのである。
 
 かくしてフランドルは16世紀後半に二人の傑出した地図製作者を生み出すことになった。ひとりはアントウェルペンでドイツ人の両親から生まれたオルテリウス(1527-98)、いまひとりは、メルカトール(1512-94)である。
 メルカトールの名を成さしめたのは、新しい投影法にもとづく航海用の世界地図『航海での使用に正しく適合させられた新しく拡大した地球の記述』であり、1569年に発表された。赤道で地球と接する円筒に地球表面を射影するこの投影法では、すべての子午線(経線)は平行でつねに緯線に直交する。当然それだけでは極に近づけば緯度一度の間隔が広がってゆくが、その広がる割合をうまくとると、等角航法の軌跡である航程線をつねにきまった角度で子午線と交わる直線にすることができる。以前にペドロ・ヌーネスが提起した問題を解決するもので、これがいわゆる「メルカトール図法」である。
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メルカトルの世界地図
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 16世紀中期のフランドルは世界貿易の中心地アントウェルペンやブリュッヘを擁し、また海洋国家スペインの支配下にあり、スペインの宮廷や商業に関係が深く、スペインによって精力的に進められていた地理学上の発見の情報が比較的速く伝わり、そんなこんなで遠洋航海にたいして高い関心を有していた。そのことはメルカトールが遠距離航海にとってきわめて有用なその図法を考案した背景として考えられる。
 ところで当時の遠洋航海にとって重要な問題は、海上での位置決定(緯度と経度の決定)であった。緯度は原理的には極高度の測定により求めることができ、一度の四分の一 (約27キロメートル)以内の誤差で決定することができた。しかし経度の決定は精度の期待できない航行距離の推測に頼らざるをえず、より困難な問題を提供していた。とくにスペインとポルトガルは、両国の海外領土の境界をベルデ岬西方370レグア(約1850キロメートル)を通る子午線と定めた1494年のトルデシラス条約の施行のために、正確な経度測定を必要としていた。
 この問題に思いもかけない面から光をあてたのが、磁針の偏り(磁針の指す方向が子午線から東西に逸れる現象)であり、かつ、磁針が指している点が地球上の一点―地理上の北極とは別の位置にある「磁極」―であるとはじめて考えたのが、1546年のメルカトールであったが、磁気偏角への関心が高まり、計測値が得られるにつれ明確な関係性が無いことが明らかになった。
 それでもメルカトールが語った地球上の磁極という観念は生き残り、やがて地球自身が一個の巨大な磁石であるというイギリス人ウィリアムーギルバートの発見へとつながっていった。地球が一個の磁石である、すなわち地球が自己運動の原理と他に働きかける能力を有した活性的な存在であるという認識は、地球が不活性な土塊として宇宙の中心に静止しているというアリストテレスープトレマイオスの宇宙像からの離脱を自然学的に可能とするものであった。この点については、次章で立ち戻る機会があるだろう。

 
 
 この16世紀にアメリカから大量に略奪されてきた金銀が欧州にインフレを起こす(価格革命)。16世紀の約百年間に、欧州の物価は数倍に跳ね上がり、このインフレによって、額面固定の地代に依存する封建領主・貴族は没落し、金貸しからの借金で首が回らなくなった。金融勢力が繁殖してゆく過程であり、この状況を目の当たりにした者たちが南米やアフリカ大陸への大航海(略奪)に私権拡大の可能性を見いだした時代とも言える。
金貸しや商人だけではなく、国家(王侯貴族)や学者・技術者・職人に至るまでもが、侵略航海に可能性収束したのである。これが15~16世紀の西欧を包んでいた空気(期待)である。だからこそ、侵略航海を目的とした天文学・地理学の国家プロジェクト化が成立したのである。
これは単に金貸しの思惑だけでは実現しなかったであろうし、科学者や技術者たちが侵略航海による私権の拡大可能性に強く収束していたからこそ、彼らは金貸しの手先となっていったのである。
「近代の科学者は金貸しの手先だった」
 
 この時代から遠洋航海に必要な航海用地図・測量技法など様々な分野で飛躍的発展を遂げてゆくが、数理技能者と呼ばれる人々は、手作業を含めた技術的分野等、様々な分野と繋がることができたからだと考えられる。
 個人の知識や技術では不可能なことも集まれば実現出来るというのは普通の事かもしれないが、その背景には、やはりそれだけの人材を集められる権力と財力があったから、そして科学技術を発達させることでさらなる旨みを得られたからに他ならない。この時代これらの研究課題を担った職人に至るまで、大航海による私権の獲得が明確な目的となっていたのである。
 
 そして、その研究規模はさらに大きくなってゆくことになる。次章からその流れを見てゆく。
 
 

7.チコ・ブラーエ
 近代天体力学ひいては近代物理学の出発点である太陽を中心とした惑星運動の正しい法則を見出しだのはドイツ人ケプラーであるが、それはデンマークの貴族チコ・ブラーエ(1546-1601)が蒐集し蓄積した観測データにもとづいてはじめて可能となった。
 チコは、25年を超える注意深い天体観測によって確定された数値で表された新しい正確な表を作成し、これまでの天体表の不正確さを明らかにすることが可能であると語り、そしてこの天体表の完成は弟子ケプラーに委ねられた。
 チコの死後、ケプラーはチコの777個の恒星目録を1005個にまで増やし、みずから印刷を指揮し、1627年にこれを『ルドルフ表』として出版した。それはその後一世紀以上にわたって天文学研究の不可欠の道具となった。のみならずケプラーは、チコのデータから惑星運動についての有名な「ケプラーの三法則」を導き出し、それがのちにニュートンによる万有引力の法則の確立に決定的な役割を果たすことになる。ケプラーはチコの集めた高い精度のデータをもとにしてはじめて、惑星の楕円軌道や惑星運動にたいする面積定理を見出すことができたのである。そしてまた『ルドルフ表』の精度が抜群に優れていたことがチコとケプラーの権威を高め、ケプラーの法則の受け入れを後押しすることになった。
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                      ケプラー
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 チコは、観測精度の極限的向上という近代精密自然科学の前提的課題をはじめて現実の課題として引き受け、そのため一方では観測機器の不断の改良に努め、他方では地道な日々の観測を三〇年余に
わたって継続するという、それまで誰もおこなわなかったことをやってのけた。
彼の原点は、このようにそれまでの観測の不正確さの認識であり、そこから天文学者としてのチコを一躍有名にしたのが1572年11月の新星(チコ・ブラーエ新星)の出現であった。
 占星術を信じていたチコ・ブラーエ自身、新星の出現を占星術的予言に結びつけて考えていたため1573年のチコの著書『新星について』は大きな関心をよび、国王の目にもとまり、チコは国王の後押しで1574年から75年にかけてコペンハーゲン大学で講義をしている。国王はチコをデンマークに留め置くために、通常の貴族には要求される公務をいっさい課さず、フヴェーン島を封土として授け、そこにチコの希望する天体観測施設を建設し、終身年金を与え、天体観測に専念することを認め、そのための財政的支援をも約束したのである。1576年、チコ29歳であった。
 
 この島にチコは天体観測のためのウラニボルク(天の城)を建設し、1597年まで助手たちを使って観測を継続した。しかしウラニボルクでは天体観測だけがおこなわれていたのではない。それまでの観測機器にあきたらないチコはその改良や開発に取り組み、そのための製作工房を設置し専属の職人たちを集めて製作にあたらせた。そして地下に設けられた実験室では錬金術の研究も進められ、さらには気象観測からフヴェーン島の三角測量までおこなわれていた。ウラニボルクにはそのうえ1584年には印刷所も設けられ、のちには製紙工場さえも設置された。チコの観測基地ウラニボルクは、今でいうならば、超大型加速器とスーパー・コンピューターを備え、出版部も設けて独自の年報を発行し、多数の研究者と大学院生と技術者が働いている大規模先端研究機関に匹敵する。 
 
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        ウラニボルク(天の城)                      ステルンボルグ(星の城)
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 チコの測定機器開発を伴った観測精度は驚異的であり、肉眼の精度の極限と言われ、そしてそれだけの精度があっだからこそケプラーによる楕円軌道の発見が可能となり、ひいてはニュートンによる万有引力発見への道が拓かれることになった。実際、ケプラーが楕円軌道に辿りつけたのは、それまでの理論とチコの観測が八分ずれていたからであった。
 製作工房と印刷機を備えた恒常的天体観測施設とその成功は、それまで知識人のあいだで低く見られていた技術的なもの機械的なものの重要性を十二分に理解し認識していたチコ・ブラーエが、みずから観測機器の設計と製作、そして不断の改良に取り組み、また職人や技術者の潜在力を最大限に発揮せしめたことに負っているが、一世紀にわたる技術者と数理技能者の働きが築き上げ押し上げた土台のうえに開花したのである。
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 16世紀に復活した数理天文学と数理地理学は、航海術への応用や地図製作という実際的な問題と密接なかかわりをもっていた。これらはたんに数学や天文学の理論だけではなく、観測機器の操作や改良や製作、あるいは地図の投影法の研究や地図の実際的な作製という多方面の知識と技能を要求する。つまり理論的研究だけではなく、手仕事・機械的作業を必要とする。
 いずれにせよ、16世紀の新しい地理学と天文学は、理論的な研究や著述から長期にわたる日々の観測、ひいては観測機器の開発や製作にいたるまでをカバーするものであり、もっぱら文献のみを相手にする大学アカデミズム内部で個人的に営まれたそれまでの研究とはまったく異質のもので、科学研究の目的意識的な組織化を促すものであった。実際にもそれは、ポルトガルにおけるように国家的事業として、または国王の全面的な後援を受けたチコ・ブラーエのような特異な人物の手によって、あるいはレギオモンタヌスとそれを引き継いだニュールンベルクをはじめ南ドイツやネーデルラントの数理技能者の手で、言うならば地域的な自然発生的協働によって、進められた。
 しかし、遠洋航海のための数学者委員会を設けたポルトガルのジョアン二世は「国家の問題の解決にとって科学的知識の有する潜在的な力」を認識していたし、チコ・ブラーエにフヴェーン島を授けたデンマークの国王も、占星術に囚われていたとはいえ、同時に「科学が国家に威信をもたらし、国の防備を強化することを知悉していた」のである。チコ・ブラーエを生み出してゆく過程は、新しい科学のヘゲモニーが国家ないし支配エリートに移行してゆく過程でもあった。それは職人たちによる16世紀文化革命の成果が支配階級に属する知的エリートに簒奪されてゆく過程でもあった。そのことが典型的に見られるイングランドの例を次章に見てゆくことにしよう。

 
 
 チコ・ブラーエやケプラーはそろってルドルフ2世(ハプスブルグ家、ルドルフ表の起原)の元に出入りをしており、パトロンとして養われていた。デンマークの国王やこのルドルフ2世など複数の権力者・金貸しの元で私権獲得の為の研究・開発を行っていたといっても過言ではないだろう。
 そしてチコ・ブラーエの事例に代表される科学研究の目的意識的な組織化は、後々の現代に繋がる戦略的国家プロジェクトとして代々引き継がれてゆく事になる。
 現代の原爆・原発開発プロジェクトの原点は、侵略航海を目的とした天文学・地理学の国家プロジェクトにあったのだ。 
 
 その末路が『科学はどこで道を誤ったのか?』(9)「Blog:自然の摂理から環境を考える」でも扱われている。

◆大量に組織化された国家プロジェクトが作られてゆく 
【マンハッタン計画のこの「成功」をうけて、戦後アメリカ政府は科学技術振興に積極的に介入していった。実際、第二次大戦後(20世紀後半)の宇宙開発競争のような科学技術は、このような官軍産の強力な指導のもとに大量の学者と技術者が計画的に動員されることで可能となったのであり、当然それは、大国における政治的・軍事的目的、あるいは金融資本と大企業にとっての経済的目的に従属したものであった。
戦後、原子力開発が民間企業に負わされることになっても、国家の後ろ盾のもとにいくつかの大企業にまたがって担われるプロジェクトとしての原子力開発において、マンハッタン計画と同様の状態が出現することになった。】
※山本義隆氏「福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと」より引用
 戦争圧力によってマンハッタン計画が推進され、第二次世界大戦は原爆の製造に成功した連合国が勝利をおさめました。
その成功を受けて、その後も国家プロジェクトによる科学技術開発は、米ソ冷戦による「宇宙開発競争」へと発展してゆきます。また、資本主義が蔓延する中でより儲けの多い「エネルギー開発(核エネルギー)」が国家プロジェクトとして推進されてゆきます。
 
 これらの背後にある「市場拡大」という原動力に導かれ、数々の巨大な国家プロジェクトが生まれ、科学者たちはその中に根こそぎ取り込まれてゆきます。
そして、それは科学技術が経済的目的(市場拡大)に従属してゆくことに他ならないのです。
 
 
 
◆科学者も技術者も、視野狭窄→無能化してゆく 
 
 国家体制に組み込まれることによって科学者や技術者には、どのような影響があったのでしょうか?マンハッタン計画において、既に科学者の視野が狭められていることがわかります。
【もちろん秘密の軍事研究であり、情報管理は徹底されていて、個々の学者の大部分は、全体としての目標への疑問は許されず、というか、そもそも原爆製造という最終目標すら教えられずに、与えられた問題の解決にひたむきに取り組んだ。】※山本義隆氏「福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと」より引用
 科学者たちは、市場拡大を目的とした国家体制に組み込まれる中でプロジェクト全体の目的すら対象化しなくなります。そして、社会に与える影響、自然世界全体を統合するという視点を持たないまま、限られた自らの専門領域の中でしか頭を使わなくなり、ひたすら与えられた課題だけに向かいます。
【生産規模の巨大化と生産能率の向上のみがひたすら追及されるが、そのこと自体が意味のあることなのかどうかは問われることはない。そのことに疑問を呈した人間はただ脱落してゆくだけとされる。こうして”怪物”化した組織のなかで、技術者や科学者は主体性を喪失してゆく。】※山本義隆氏「福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと」より引用
技術者や科学者たちは、権威のみ与えられた特権階級となり、社会の当事者であるという主体性を失い、無能化してゆきます。

 要するに、マンハッタン計画や原発開発そして環境破壊に至るまで、様々な破壊や弊害を生み出したのは、権力や金貸しによって研究開発だけの為に集められた技術者や科学者が視野狭窄→無能化してしまっているからに他ならない。その起原がこの16世紀文化革命の時代、やはり権力者や金貸しに因って生み出されていたのである。 
15世紀以降、侵略航海による私権の拡大に可能性収束した科学者・技術者たちは、国家プロジェクトに組み込まれて天文学や地理学を発達させ、それが力学と並んで近代物理学の土台となる。それを結実させたのがケプラーやニュートンである。
彼らが金貸しの手先となっていった理由もそこにある。つまり、科学者や技術者たちが侵略航海をはじめとする私権の拡大可能性に強く収束する自我・私権主体であったからこそ、彼らは金貸しの手先となっていったのである。実際、その後も科学者たちは金貸しが主導した戦争→国家プロジェクトに従事していったが、それも彼らが自我・私権主体であったからに他ならない。
「金貸し主導の戦争→国家プロジェクトの手先となり、アホ化した科学者たち」
 次回は、引き続き16世紀文化革命の成果が支配階級に属する知的エリートに簒奪されてゆく過程が典型的に見られるイングランドの例に迫っていきたいと思います。
 
 

List    投稿者 pandaman | 2012-01-19 | Posted in 13.認識論・科学論1 Comment » 

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 hermes bags united kingdom | 2014.02.02 15:07

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