イラン高原とモンゴル高原の遊牧部族の違い(仮説)【2】
「モンゴル高原の遊牧」
画像は『縄文と古代文明を探求しよう』からお借りしました。
では、モンゴル高原の遊牧部族はどうであったか?
いつも応援ありがとうございます。
一方、モンゴルの遊牧部族は14000年前までスンダランドにいて採集→母系総遇婚をしていた。
14000年前以降のスンダランド水没に伴って北上し、1万年前の温暖期にモンゴル高原にやってきたわけだが、「1万年前~3500年前の中国の歴史年表」にあるように、中国全土が少なくとも6000年前までは母権制の総遇婚(群婚)であったことから考えると、6000年前まではモンゴルの遊牧部族も母権制の総遇婚であった可能性がある。
このように、モンゴル高原の遊牧部族は元々は自我や性闘争を完全に解消しており、そこから父権制に転じても性闘争をエネルギー源にはしなかった(できなかった)。
また、彼らは総偶婚の時代から皆で共認した規範で定められた異性たちと分け隔てなく交わりあっていたのが、遊牧→父権制に転じても家父長が決めた相手と婚姻する様式に変わっただけなので、そこでも女の挑発を強化する必要性は登場しない。
また、「『婚姻論』付 世界の各部族の婚姻形態」によれば、総遇婚、例えばニューギニアのトロブリアンド島の事例では、婚姻の際は妻が持参金を夫に渡し、妻の実家が永続的な経済的義務を負うとのことである。
総遇婚部族では婚姻時には女が持参財を持ってくるという様式になるようである。
モンゴル高原の遊牧部族もそうだったのではないだろうか。だとすれば、性的商品価値も登場しなかった可能性が高い。
イラン高原とモンゴル高原の遊牧部族では、婚姻の位置づけ(目的)に違いがあるのではないだろうか。
『るいネット』「モンゴルの家族1 歴史上の結婚関係と部族同盟 (2)」にもあるように、
モンゴル高原における婚姻とは、戦争圧力に対応するために、部族や氏族同士の同盟関係を強化するものである。
それに対して、イラン高原における婚姻関係とは、自集団(氏族・家族)の富の拡大(のための娘の性的商品化)という色彩が強かったのはないだろうか。
つまり、同じ父権遊牧部族でも、モンゴル高原の遊牧部族は、個人の自我や私権意識は封鎖されたままで、集団自我(部族自我)に止まることになる。
従って、個人自我や私権を活力源とした西洋人よりは、中国人の方がはるかに自我・私権性が小さく、はるかに集団性・共同性が高いということになる。
これが、イラン高原の遊牧部族とモンゴル高原の遊牧部族の大きな違いではないだろうか。
また、「モンゴル方面の遊牧部族における母権制⇒父権制への転換(2)」からは、モンゴル高原の遊牧部族が父権転換したのが、5500年前イラン高原での略奪闘争に始まるコーカソイドの戦争圧力を受けたことが原因であることが伺える。おそらくは、西方の略奪闘争から逃げ延びた落ち武者集団が徐々にモンゴル高原にもやってきて周辺をうろついたであろう。それがモンゴル高原にも警戒圧力を生み出すことになる。それが、5500年前~4000年前にかけて、徐々にモンゴル高原の諸部族が父権転換した理由であろう。
逆に言うと、それまでモンゴル高原の遊牧部族は総遇婚をしてきた平和な部族であったわけだから、イラン高原の遊牧部族のような力の原理による内部統制は必要なく、従って「自部族のためならば人を殺してもよい」という正当化観念は形成されていない。
これがその後のモンゴル高原での戦争が掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、支配・服属という形が主流になり、勝者はもちろん服属した部族も、部族集団としての本源性を強く残すことになった理由ではないだろうか。
モンゴル高原がイラン高原と比べてはるかに豊かであったこともその前提条件ではあるが、要はモンゴルの遊牧部族は「人を殺してもよい」とは考えていない。できるならば殺したくないのである。
「人を殺してもよい」という正当化観念の有無が、イラン高原の遊牧部族とモンゴル高原の遊牧部族のもう一つの大きな違いではないだろうか。
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コメント4件
ぬこ | 2011.11.30 20:58
マネーや利子とかそうで実態を掴む事が困難で認識する事が難しいものですね
実態の見えないものこそがこうした民主主義や金貸しの力だと思います
きっとそう今後の世界に必要なのは誰にでも簡単に理解でき実態のあるシンプルな仕組みなのだと思います
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近江商人 | 2011.11.28 2:19
民主主義のイメージは、市民中心の政治です。
ですが、それは表の面です。
良く言われますが、demon(悪魔)+cracy(支配)が裏の姿です。
それが、実態のような感じがします。
そこには、誰が支配者なのか?と言う問題がありますが、そこがわかっていて表面に出ない怖さがあるような気がしてなりません。例としては、マスコミが市民中心の発想とかで、物事を観る言に違和感を感じています。