2010年11月25日

11/28なんでや劇場に向けて(2) 西アジアの気候変動(5800年前~4000年前)

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引き続き、次回11/28のなんでや劇場「1万年前~3千年前の気候変動と部族移動」の参考に、西アジアの気候変動についての記事を紹介する。
「西アジアの気候変動(2)(5800年前~急激に乾燥化し、遊牧民が急増)」からの引用。
以下も、『古代文明と気候大変動』(ブライアン・フェイガン著 河出書房新社)の仮説である。
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●5800年前~ 急速な乾燥化 再び農耕民が流浪し、遊牧民が急増
やがて5800年前ごろ、気候が急に乾燥してきた。これは南西アジアと東地中海地域に1000年以上にわたって多大な影響をおよぼした傾向だった。夏に降雨をもたらしていた南西からのモンスーンは弱まり、南に進路を移動した。雨季も活発ではなくなり、遅く始まって早く終わるようになった。
腹をすかせた村人に選択の余地はあまりなかった。彼らの運命は、工夫を凝らして灌漑された農地と結びついていたが、その農地もこのころには照りつける太陽のもとで乾燥し、ひび割れていた。考古学的な調査から、多くの人びとが単純に村を捨てたことが判明している。彼らは貧窮し絶望しながら、食べ物を探して当てもなく周辺をさまよったのだろう。
生存者のなかには幸運な人もいた。彼らの共同体は半乾燥気候の広大な草原のそばにあったので、牛、ヤギ、ヒツジに頼って生き延びられたのだ。なかには牧畜を専業とし、つねに群れとともに移動するようになった人びともいた。その他の人びとは、干ばつの影響が少なかった東の高地へ移動していった。この地方は水が充分にあったので、灌漑農業に頼る必要はなかった。さらに、元の場所にとどまり、灌漑農業と、自給農民が昔から頼っていた安全策を併用することによって、なんとか食いつなごうとした人びともいた。彼らは減る一方の獲物を狩り、魚を食べ、植物性食物を探しまわった。

●遊牧部族の侵略とその防衛
何千年も前から、牧畜民は冬季にはユーフラテス川とティグリス川の流域で家畜に草を食べさせ、春になると平原に移動していた。このころには干ばつのせいで夏の牧草地はほとんど砂漠と化していた。遊牧民は、昔から干ばつの時代にやってきたことを実行した。水が安定供給される場所から離れずに、川沿いに下流へ向かうことである。
この移動によって彼らは、やはり食糧不足に苦しんでいた南部の農業共同体と真っ向から衝突することになった。作物が育っているところへ食欲旺盛なヤギの群れが放たれ、農耕民が厳重に囲っていた牧草地に進入したとなれば、どれだけの怒号があがり、混乱が起きたかは想像しうる。その脅威があまりに深刻だったため、4000年前ごろのウルの支配者は全長180キロにわたる「アモリ族撃退壁」と名づけた防壁を建設し、牧畜民の移住を食い止めた。
5500年前に干ばつが厳しさを増したころ、ウルクは大きな町をはるかに超えた規模になっていた。それぞれ独自の灌漑システムをもつ周囲の村落が四方八方に10キロ先まで広がっていた。これらの小さい定住地は都市のための食糧や物品を供給していたが、誰もが他人に頼って生存していた。陶器を専門につくる共同体もあれば、冶金や漁を専業とする村もあり、それぞれが独自の商品をウルクの市場に持ち寄った。防衛はますます重要な課題となった。というのも、給水システムや物資を狙う近隣部族から、誰もが自分たちの利益を守る必要があったからだ。

続いて、『るいネット』「西アジアの気候変動(3)(5200年前~さらに急激に乾燥化⇒難民の流入による都市の膨張とシュメール人の無秩序な戦争)」からの引用。

●5200年前~ さらに急激な乾燥化と寒冷化⇒難民の流入による都市の膨張。シュメール人の侵入⇒シュメール都市国家間の無秩序な戦争
気候変動による危機はさらに深刻になった。5200~5000年前までの二世紀間に、大西洋循環の停止がおそらく引き金となり、急激な乾燥化と寒冷化が引き起こされると、政治的にいっそうの混乱をきたすようになった。干ばつが厳しさを増すと、メソポタミア北部では、多くの村人が大きな定住地に流れ込み、ウルクをはじめとする南部の都市はさらに多くの難民を受け入れることになった。人口が増えるにつれて、以前からある定住地のあいだにはさまれ、それまで人の住んでいなかった緩衝地帯に新たな都市が形成されるようになった。
5100年前には、南部の都市は世界最初の文明を築いていた。シュメール文明は激しく競い合う都市国家の寄せ集めだった。各都市にはよく組織された後背地が控えており、支配下にある領地は、勢力の拮抗する近隣部族の土地と隣り合わせだった。
シュメールの各都市は土地、水利権、交易、および労働力をめぐってつねに争っていた。粘土板に刻まれた楔形文字の碑文は、外交的な勝利や戦争、卑劣な取引について、今日でも妙に聞いたことのあるような言い回しで誇らしげに語る。新たな都市が建設されると、昔からの境界線が侵害され、給水量の減っている時代には政治的な利害関係を増大させた。
こうした対立関係のなかには何世紀もつづいたものもあり、双方の都市で人びとを鼓舞する美辞麗句が生みだされた。「悟るがいい、貴市は完全に破壊されるだろう!降伏するのだ!」と4600年前にラガシュ市は宣言した。隣のウンマ市とのあいだで、ラガシュの主神ニンギルスの「愛でた土地」であり、「平野の首」として知られる地方をめぐって争いが起こり、紛争が頂点に達したときのことだ。北部にあるキシュの有力な支配者メサリムがこの争いの仲介をし、この土地を両市のあいだで二分割した。この協定にもとづいて、ラガシュは年間の収獲の一部を「年貢」として納めさせることで、ウンマに土地を貸し与えた。
しかし、絶えず変動する政治情勢のなかでは、都市の勢力は支配者の能力いかんで大きく変わり、この取り決めは必然的に反故にされた。農耕、地代の支払い、灌漑用水路の使用法をめぐる論争は、何世代もの間くすぶり続けた。両市とも戦争を始める口実を探した。軍隊は不意打ちをかけ、神殿や村に火をつけ、灌漑用水路の流れを変え、戦利品を積んで立ち去った。大げさな美辞麗句と、奇襲攻撃、それに血みどろの戦いが、シュメール人の暮らしの背景の一部として日々繰り返された。
このころには、常備軍をもつことが当たり前になった。なにしろ、政治的に分裂した世界では、実際、そうした争いの多くは解決できないものだったからだ。シュメールの支配者はみな、ころころと変わる同盟関係、国境紛争、外交、および戦争が渦巻くなかで暮らしていた。
シュメール人の都市国家は、各地の農作物を組織的に管理することには成功したが、大きな都市間の連合はおおむね失敗に終わった。小さい都市国家がばらばらに存在し、それら全体に畏敬の念を抱かせて、まとめあげる共通の力がないとなれば、争いを解決する見込みはなかった。

続いて、『るいネット』「西アジアの気候変動(4)(都市国家間の戦争を武力によって統合した、武力支配国家の成立)」からの引用。

●4500~4300年前 シュメール都市国家間の戦争を武力によって統合した、武力支配国家の登場
シュメールの支配者は三角洲の北方で台頭してきた都市や、遠くはシリア北西部の都市とも競い合った。彼らは交易路を攻撃して競合相手を併合したが、本拠地のそばでも内輪もめや些細な対立が絶えず、それによってしばしば征服は中断された。統一国家の達成に成功したものは誰もいなかったが、やがて4300年前にウンマのルゲルザゲシ王がウル、ウルクを併合し、のちにラガシュも領土に加えることによって、南部の統一をはたした。王はそれから古都ニップールの神官の承認をとりつけ、こうして緩やかとはいえ、事実上、南部の支配を確立した。
南部の都市と北部は昔から敵対関係にあった。北部には以前から、大きな領土国家が存在した。その一つはキシュ市に率いられたものだった。ウンマとラガシュ市を仲裁したあの王の国である。北方の君主は広大な王国を権威主義的に支配し、現在のシリアにあるエブラやマリといった都市と交易関係を築いていた。彼らは軍国主義的なイデオロギーで支配し、征服と支配が王権の中心的教義となっていた。専制政治の手腕に長けていた彼らは、土地の所有権を管理し、南部の都市国家よりもずっと強力に中央集権化された経済を維持していた。
4500年前ごろ、シュメールのすぐ北にあるアッカド人の都市が、南部の諸国をたびたび攻撃するようになった。アッカドの支配者は領土を征服するより、遠方の町を襲撃し掠奪することを得意としていたが、有能な支配者サルゴンが紀元前2334年にバビロンの南、アガデに王朝を築いてからは、そうしたやり方も改められた。その年、サルゴン王の軍は、ウルのルガルザゲシ王の率いるシュメール都市国家の連合軍を破った。彼はエリドゥを襲撃し、ルガルザゲシに首枷をはめてニップールの門に連れていった。南部の民を服従させると、この大将軍ははるか北方のマリを支配下に置き、トロス山脈の「杉の森」と「銀の山」の土地を征服した。こうして、サルゴンはメソポタミアの完全な支配者となった。
メソポタミアの文明もやはり生きながらえた。それは3900年前以降、降雨が以前の季節パターンに戻ったからだ。悲劇的な干ばつで壊滅的な打撃を受け、はるかに乾燥した気候にはなったものの、古代メソポタミアの制度とイデオロギーは生き残り、のちの時代の大帝国をつくるための青写真となった。
引用『古代文明と気候大変動』(ブライアン・フェイガン著 河出書房新社)

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List    投稿者 staff | 2010-11-25 | Posted in 14.その他No Comments » 

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