2009年07月27日

日本の諜報活動の歴史

世界の情報戦に日本はどう対抗するか?
『日本の情報戦力の現状・・・かなりお寒い!?』 と
『次代の国際社会では日本人の弱点が強みになり得る!?』
続いて日本の情報戦の歴史について押えておきたいと思います。
■中世;戦国~忍者の時代
・甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園だったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。
各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍者」が自然発生したのではないかと考えられている。
・戦国時代;情報収集や、敵軍内・国内を撹乱する活動に従事する「間者・素破・乱破・草」などが登場する。大半は専業武士ではなく、戦時以外は市井の人として暮らし、戦時or緊張時になると、対立する勢力の間で情報を操る役割を担ったと思われる。
・江戸期になると、忍者あがりの服部半蔵が幕臣として登用されたり、間宮林蔵のように公儀隠密として歴史に名前を刻む人物も登場するが、主は国内の諜報活動であることに変わりはない。
・近代国家成立以降は、軍隊の中に斥候部隊などとして位置づけられたと思われるが、諜報専業の部隊が創設されるのは日露戦争を待つことになる。
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■近代;戦中の特務機関以下、ウィキペディアから引用しつつ加筆

●明石機関~陸軍中野学校
日露戦争中、スウェーデン駐在武官の明石元二郎大佐は「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派への支援等の活動を行った。
この活動は、陸軍における最初の本格的な特殊任務として「陸軍中野学校」の授業でも題材とされた。
この種の活動を行う組織が「特務機関」と称されたのは、シベリア出兵に際して、純粋な作戦行動以外に生じた種々の複雑困難な問題に対応する必要から、1919年に現地における情報収集・謀略工作を担当する機関を設置したときである。
「特務機関」の名称の発案者は、当時のオムスク機関長高柳保太郎陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳とされる。
このとき設置された特務機関の任務は、統帥の範囲外の軍事外交と情報収集とされた。
初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部附として発令され、その業務は軍参謀長の監督を受けた。
はじめ、ウラジオストク、ハバロフスク等各地に設置されたが、戦局の推移にともない改廃・移動が度々なされた。
シベリア撤退後は、そのままハルピン特務機関を中心に、ソ連各地で情報収集にあたっていた。
1940年にそのハルピン特務機関は関東軍情報部に、それ以外の各特務機関は情報部支部へと改編された。
それら11支部あった情報部支部は1945年8月には特別警備隊に改編され、終戦を迎えた。
また明治期後半から、陸軍は中国各地の地方政権や軍閥に軍事顧問(団)を派遣した。
それらの軍事顧問と配下の機関員ら含む、組織全体でもって「特務機関」として活動していた。
例えば袁世凱政権・張作霖政権等に軍事顧問が派遣されていた(形の上では招聘)。
また、東南アジア各地においても中国における軍事顧問と同様の軍事顧問という形での「特務機関」が存在し、それらは反英(米・蘭)運動を煽動する各種の工作活動を行った。
それら「特務機関」に関与した日本人の中には、敗戦においてもなお現地に残り、被植民地民族の独立運動に際し、有形無形の支援を行った例も一部においてあった。
例えばインドネシア独立戦争におけるPETA(郷土防衛義勇軍)に対するそれである。
●F機関
対米開戦前において、日本の陸軍部は同時に対英開戦が避けられないことを想定し、当時イギリスの植民地であった英領インドの対英独立工作を画策し始めた。
その端緒はタイ王国公使館附武官田村浩大佐の下に設置された特務機関であった。
1941年9月に発足したこの機関は、参謀本部の藤原岩市少佐以下10名程から構成され、機関長藤原の頭文字と自由を意味する英語をかけて「F機関」と命名された。
またF機関の人員はすべて陸軍中野学校出身の青年将校であり、発足当時は数名だったものの12月には10名を越えていた。
発足当時にF機関に与えられた任務は、インド独立連盟やマレー・中国人などによる反英団体との交渉・支援を中心としたマレー方面の工作活動に関して、田村大佐を補佐することであったが、開戦直前より南方軍の指揮下となり、インド独立連盟と協力し工作活動に当たり、インド国民軍の編制にも当たった。
その際、機関長藤原少佐は「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱い、インドの独立の為に協力したい」とインド兵に宣言した。
当初はインド駐在イギリス軍の内部分裂を目的としていた為に、インド人を対象とした工作を行っていたが、マレー作戦終了から目的が変わり大東亜新秩序の建設、即ちインドでの反英運動を煽り、ひいてはインドを独立させることでイギリスのアジア戦線からの離脱を狙った。
同機関は岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人規模の組織となった。
マレー作戦等で投降したインド兵を教育しインド国民軍に組み入れ、同国民軍の指導、宣伝などを行った。
機関は6班で構成され、総務班・情報班・特務班・軍事班・宣伝班・政治班があった。
機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改称された。
●光機関
光機関は1943年、ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボ-スと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。
光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)で“ピカリ”という言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説から“光”とされた。
支援していたインド国民軍は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。
またインパール作戦の途中、大本営の遊撃戦重視への作戦方針変更に伴ない、機関は南方軍遊撃隊司令部と改称し同時に、
前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所が設けられた。
途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は終戦まで軍事顧問団として活動した。
結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍とインド国民軍は連合軍に降伏した。
●南機関
「南機関」は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。
機関長は鈴木敬司陸軍大佐。
ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。
その後ビルマ軍政の方針をめぐって軍中央と対立し、消滅させられた。
だが南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。

これってスゴイ!と思いませんか?
外国人でありながら、インド~アジア各地の民族自立運動に身を投じ、支援してきた日本の特務機関。
外地に味方を作り出す共認形成運動を行った先駆者たちかも知れない。
これからの世界共認形成を考える上で参考になりそうな気がします。

List    投稿者 nandeyanen | 2009-07-27 | Posted in 14.その他2 Comments » 

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コメント2件

 海上 | 2010.01.09 21:34

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現実を変えるには気ずいた人々から先頭に立って
対象化した意識から新たな認識を顕在化して広げて
いく事が必要だと思いました。

 匿名 | 2010.01.09 21:51

残存する欺瞞観念と新しい認識との闘いですね。

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