2011年12月15日

近代科学の成立過程10~数学的形式に当てはまるように捏造した、現実には存在しない架空観念の体系が近代科学~

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前回(近代科学の成立過程9~商業簿記と利息計算から発展した代数学~
)は、山本義隆氏の『十六世紀文化革命』から「第5章の商業数学と16世紀数学革命」中段部分の要約を引用しながら、数学の発展過程を見てきました。
この時代から高次方程式論が研究され、商業数学から代数学へ発展し始めたのはなぜなのか。そらは銀行業務上の利息と収益を把握するために複利計算を行う必要性があったのからではないだろうか。複利計算のために高次方程式論が必要とされた。
いわば金貸しが利益を生み出せるように、高次方程式→代数学が発達したということである。
今回は引き続き山本義隆氏の『十六世紀文化革命』から「第5章の商業数学と16世紀数学革命」後半部分の要約を引用しながら、数学の発展過程を見て行きたいと思います。
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8 タルターリアとカルダーノ
タルターリアは15世紀末にヴェネツィア共和国ブレーシアの貧しい郵便配達夫の子として生まれた。タルターリアは数学に飛び抜けた才能を示し、20歳前から一種の数学コンサルタントとして、北イタリアのベローナで商人や職人や測量技師や軍人たちに計算技術を教え、依頼された問題を解いて生計を立てていた。その後ボローニャに移り、スキピオーネ・デル・フェッロの弟子であるアントニオ・マリア・フィオーレと数学勝負をしている。
数学勝負とは公開の場で互いに問題を出し合い、より多く解いた方が双方の供託金を獲得するという果し合いである。当時の腕に覚えのある数学教師の間で盛んに行われていた。タルターリアはフィオーレの提出したすべての問題を短時間で解いてみせ、更には不可能と言われていた三次方程式をも自力で解いてみせた。
ジローラモ・カルダーノは1510年に生まれた。タルターリアとはほぼ同世代である。しかし出身階層は異なる。カルカーダは正嫡ではなかったにせよ、父はミラノの法律家でしかもパヴィアの大学で長期にわたって、幾何学を講義するようなエリートであり、その父から数学を学んでいる。彼は医療にたずさわり、その奇跡的治療が評判となり後援者を得、やがて大学で医学を講じることになり、1543年にはパヴィア大学、1562年にはボローニャ大学の教授に就任している。
この時代の数学者の社会的地位について書かれた論文には「ルネサンスのはじまりにおいて地上の教育者と天上の数学者のあいだには文字通りの社会的・職業的な相違が見られる」とある。ましてや町の算数教室で計算術や初等幾何学を教えるしがない算数教師と大学で数学や天文学を教えるエリート医師の社会的地位の差異は大きい。タルターリアとカルダーノは互いに異なる世界に住む人間であった。
カルダーノはタルターリアが自力で解いた三次方程式を自身も解こうとしたが、果たせなかった。そこでタルターリアに接触をはかり、解法の教示を請うたのである。タルターリアは最初は教えようとはしなかった。しかし、カルダーノがミラノの軍の高官にタルターリアの聡明さを語ったという手紙を書き、その人物に紹介することを仄めかしたことにより、タルターリアは態度を変えて、証明を伏せ解法を教えた。
その理由として、「いたるところで戦争が行われているが、この時代には、幾何学者はほとんど常に軍事技術者としていまひとつの役割を担っていた」からである。カルダーノはその解法と一般的な証明を記した「大技法ないし代数学の規則」を出版した。医師カルダーノはその出版で一躍イタリアきっての数学者の地位を獲得した。
商業算術の普及から「算数教師」という職業が発生し、十六世紀にはその人たちの中から代数学という学問の担い手が登場し始めることとなった。

この当時の算数教師たちは数学勝負することで自身の腕を証明し、且その勝負から数学の腕が認められることで、有名になり、今より高い身分の就職先を得ようとしていた。そこでまだ誰も解けない問題を解いたり、数学勝負で勝つことは彼らにとって、出世の道であった。つまり、16世紀のイタリアの数学者たちの「数学勝負」は、学問(数学)が立身出世(私権獲得)の道具になっていたことを示している。
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9 カルダーノとボンベッリ
カルダーノの大技法は自分たちの発見も含めてそれまでに知られていた方程式の議論を集大成しただけではない。それまでの方程式の議論は、商業上の問題を解くための手段として論じられていた。パチョリの書物でも二次方程式は商業実務の議論の一環として論じられ、三次方程式以上は商業上ほとんど問題になることが無いものとして重要視されていない。それに対して、カルダーノの書は、商業問題との問題はもはや問われず、方程式それ自体が主題として論じられている。その意味で大技法は方程式を純粋数学として、論じようとしたはじめての書物である。
しかし「大技法」は方程式の理論を幾何学に基礎づけようとしたことによって、大きな限界を有していた。幾何学に依拠した方程式の解法はフィボナッチからパチョリにいたるまで語られる。しかしカルダーノの場合、幾何学は方程式を解くための単なる方便や証明の補助手段であることにとどまらず、方程式論を原理的に基礎づけるものであった。すなわち未知数Xはもはや商品の数や価格ではなく端的に線分の長さであり、同様にX2乗は正方形の面積、X3乗は立方体の体積であり、それ以外のものではない。したがって、カルダーノにとって四次以上の方程式は現実的な意味を持たないことになる。
ボンベッリは1526年にボローニャで生まれた。建築家のピエール・クレメンティの徒弟となり、技術者への道を歩む。大学教育を受けていないので、数学はこの師から教わったと考えられる。彼が代数学書執筆の主要な動機は、それまでの議論が、カルダーノの大技法を除いて、徹底されていない、不注意なところも見かけられるだけでなく、カルダーノのものも記述が不明瞭で、よほどの数学の素質がないと理解できないということもあった。それに対して、ボンベッリが意図したのは、誰でも読めるように明瞭に書かれた書物であった。
第一巻は計算術、第二巻は代数学で四次までの代数方程式を扱い、第三巻は代数学の問題にあてられている。第三巻冒頭にはこれまでの類書では使用される問題が商業や硬貨鋳造、その他の日常生活の諸問題の処理や取扱に事寄せて表現されているが、そのような行き方をとらないと明言されている。
ボンベッリの書は代数学を幾何学に関連づけて論じているところも無いわけではないが、カルダーノと異なり代数学を幾何学に基礎付けることはしていない。従って、四次方程式も三次方程式と同レベルの数学的対象として扱われている。ボンベッリは商業数学として発展してきたイタリアの算数とそこから生まれた代数学を我が物にし、かくして代数学を独立した数学の一分科として確立させた。その意味においてボンベッリの書はパチョリ依頼のイタリア代数学のクライマックスであると同時に「十三世紀初頭にフィボナッチが算数の書で代数学の規則を導入したときにイタリアに始まった運動の掉尾を飾るもの」といえるであろう。

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この当時から「商業の問題を解くために使われてきた商業数学」から、商業とはまったく関係の無い「純粋に数学の方程式だけを論じ、解く数学」が現れ始めた。それは、前回の記事で、複利計算から代数学が始まったと提起した。
その傍証となるのが、十進少数を導入したオランダの数学者・物理学者シモン・ステヴィンである。
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10 シモン・ステヴィンと数概念の拡張
これまでの議論からもわかるように方程式の発展は、理論的には数概念の拡張と総括られる。その意味でオランダ人シモン・ステヴィンによる十進少数の導入を無視することは出来ない。オランダ独立宣言とともにアントウェルペンの黄金時代も終わりを迎え、経済の中心も北部へ移動し、十六世紀後半にはホラント州のアムステルダムがバルト海地方の穀物貿易の中心地として繁栄を謳歌するにいたる。開明的な商人や技術者が北部に引き寄せられた背景としては、当時のオランダの北部七州がスペインによる異端弾圧から取り残され、しかも貴族の力が弱く、商業が発展し市民階級が強力な存在になっていたことが考えられる。ステヴィンは1583年2月に35歳でライデン大学に学生登録している。しかしライデン大学はスペインにたいする独立運動の高揚のなかで、新生国家の官僚と教会幹部育成のために創設されたものであって、医学をのぞいて化学や数学は重視されていなかった。
ステヴィンは数学に関して一貫して、実用性、実践性を科学の第一義に置いている。彼は1582年に「利息表」83年に「幾何学の問題」をもとにアントウェルペンで出版し、85年には「十分の一方」と「算術」を上梓している。オランダ語で書かれた利息表には、「私は、ここオランダでは、利息表が何人かの人たちによって作られているが、それを手に入れた人たちの大きな秘密として隠されていること、そしてそれらは大きな出費をともなわなければ入手出来無いことを学んできた。」とある。
以前から利息計算には利息表が使用されていたが、銀行業者はその公表を拒んできたのである。彼がのちにかいた「数学覚書」では資本の「状態表」と「損益表」が記されているが、これは近代財務諸表=貸借対照表と損益計算表に相当する相当するものと見られている。
十進少数の有用性は度量衡や貨幣の単位の多くに六十進法や十二進法が使われていた事を顧慮してはじめて判明する。実際、天文学では円弧や時間に六十進法使用され、重量測定では二進法や三進法や五進法が混合して使われていた。もちろん貨幣の単位も同様に複雑で、煩わしいものになっていた。それにたいして、ステヴィンの書物である「十分の一法」の冒頭には「天体観測者、測量技師、絨毯検査官、ワイン計量者、立体測量者、貨幣鋳造者、そしてすべての商人たちへ」と始まっている。ステヴィンは経済的合理性の観点からこれらの業者で使用されている単位系をすべて十進法に統一することを提唱し、その利点を理論的に明らかにした。そしてこのシステムを政府も採用すべきと主張したのである。ステヴィンは軍事工学と技術者として共和国軍隊に仕え、独立運動の指導者オラニェ公ウェレム一世の次子で最高司令官であったマウリッツ公の技術、数学、財務にかかわる顧問兼個人教師を務め、補給将校として1620年に死んだ。彼は死ぬまでに数々の著書を残し、「黄金の世紀」と称される17世紀におけるオランダ科学復興の基盤を築くものであった。
近代数学は十六世紀後期のヴェイトと十七世紀のデカルトに始まる。そして解析幾何学も微積分学も十七世紀にデカルトやニュートンやライプニッヒの手によって作り出された。それらがつくられたのは十七世紀科学革命の一環として見ることだ出来る。しかしそれらの成果は商業数学の延長として商人と算数教師の手によって始められ十六世紀中期に一つの結末を見るルネサンス期の代数学の発展を負っている。言い換えれば、近代数学の端緒は商人により担われた商業数学であった。三次方程式の解の発見者の1人であるタルターリアは、商人に数学を教えるしがない算数教師であった、十進小数の考案者シモン・ステヴィンも商業の実務から数学を身に着けた技術者である。パチョリは大学で講義をしたけれども、その出自は商業数学であり、ボツベッリは現場で働く技術者であり、数学書は生涯に一冊「代数学」をそれも本業の合間に書いたに過ぎない。このようにその担い手の大部分は大学教育とは無縁である。その背景に十三世紀に登場した実用数学の専門家の存在があった。彼らは数学史に名を残すような華々しい発見をしたわけではないけれども、切磋琢磨して計算技術を改良し、、様々な現実問題への数学の適用を研究し、インド、アラビア数字の十進位取り表記と紙上での手計算を普及させていった。
十三世紀以降の商人とこの算術教師の実践をとおして、数学史家ウイットロウが「十六世紀の数学革命」と呼んだ代数学の発展が準備されていった。それは十六世紀文化革命の一環と見ることが出来る。

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銀行業者(金貸し)は非公開の利息表を使っていたこと、商業に従事していた数学者ステヴィンがその秘密を暴露したことは、前回の記事で提起された「商業簿記と複利計算から代数が始まったこと」と符合している。
銀行業者(金貸し)は高次方程式を使って利息表などを作成していた。これは、数学を駆使した金融工学など、現在の市場社会にも通ずるものである。
そして、17世紀になると発達した数学によって自然対象も記述されるようになってゆく。
以下は『新・物理入門』(山本義隆著 駿台文庫)から物理学における数学の役割を記した。

 ■物理学理論のできかた
物理学理論は数多くの物理現象からいくつかの法則が帰納され、それらの法則を統一的に説明するものとして、原理が提唱されることで成立したものと、通常は考えられている。たとえば、太陽のまわりの惑星の周回や地球周りの月の周回、地上での物体の落下、あるいは物体同士の衝突などは、すべて力学現象である。
これらの現象から、ケプラーは惑星の運動について「ケプラーの3法則」を、ガリレイはすべての地上物体は質量によらず同じ加速度で落下し、そのさい落下距離は落下時間の二乗に比例するという「落下の法則」を、またデカルトとホイヘンスは衝突のさいの「運動量保存則」を帰納し、それらを統一的に説明する「力学原理」としてニュートンがいわゆる「運動の3法則」をまとめあげたと、考えられている。
■近代物理学の性格
一見するとその過程は、自然を虚心坦懐に眺めあるがままに記述することのように思える。しかし現実には物理学は、複雑で多彩な自然を特定の立場から単純化・理想化し、更に特定の現象を捨象することから始まる。
近代以前の支配的な自然観はアリストテレス自然学だが、そこでは、物体は熱い、冷たい、湿っている・乾いているという性質をもつことが、最も本質的と考えられていた。たしかに日常的に経験される現実の物体はそのような多彩な性質をもつ。
しかしガリレイやデカルトは、そのような性質は感覚する人間との関係であり、物体にとって本質的ではないとして捨象し、物体を位置と幾何学的形状のみをもつものとして単純化した。
またアリストテレスは、重い物体ほど速く落下すると主張した。たしかに、小石と木の葉を比べれば、小石はストーンと速く、木の葉はヒラヒラとゆっくり落下し、そのかぎりで、つまりは直接的経験に依拠するかぎりで、アリストテレスは正しい。それに対してガリレイは、その差は空気抵抗の影響で、空気抵抗が十分小さくなった極限としての真空中では小石も木の葉も同じ加速度で落下すると主張した。しかし、トリチェリーが真空を作り出したのはガリレイの死後のことで、ガリレイは真空を見ていない。
ガリレイにとって物体とは、幾何学的に単純化された抽象物であり、ガリレイの捉えた現象とは、空気抵抗は物体の運動にとって副次的・非本質的撹乱要因だとみなす立場から、あらかじめ取捨選択され理想化された現象である。ガリレイはこうした手続きによりはじめて運動の本質が暴き出されると考えたのであり、ガリレイは直接の経験を超えたところで理論を作ったといえる。
■数学の重要性
近代物理学の法則とは、このように数学的処理になじむように人間が単純化し、理想化し、抽象化した現象の法則である。ここに、近代物理学を学ぶうえでの数学的概念の重要性がある。
「自然の言葉は数学で書かれている」と言ったのはガリレイであるが、近代になって人間は数学的に自然を捉える術を見出したというほうが真相に近い。自然がというよりは人間がとりわけ、近代人が数学的見方を好むのである。その意味において、近代物理学の学習にとって数学の使用は不可欠である。
■巨視的世界の構成
古典物理学は、巨視的な物質的物体と場を扱う。
物質的物体は質量と電荷と形状をもつ。
そのような物体の抽象化された概念として、質点・剛体・弾性体などがある。
質点は位置のみをもち、大きさはない。剛体は大きさをもつが、変形しない。
弾性体は力を加えると変形するが、力をのぞくともとに戻る。
現実の物体は大きさをもち、力を加えれば変形し、力を除いても完全にはもとに戻らない。
つまり、質点も剛体も弾性体も、厳密にいえば、現実の世界には対応物の存在しない抽象化された概念である。
しかし、現実の物体でも、問題の設定において大きさを無視してよければ、あるいは変形や回転が無視できるならば、その物体を代表点でおきかえることにより、質点として扱うことが出来る。また変形が事実上無視できれば、剛体として論じてよい。

前回の記事で「市場拡大に伴い、あらゆるものが商品化、つまり通貨換算し数量化されてゆき、精進やサービスに限らず人間社会の全ての事象が数で表すことが出来るという正当化観念を生み出された」ことが提起された。
数量化されたのは人間社会に止まらない。自然界も数量化できるという幻想(正当化観念)が登場した。その代表が「自然の言葉は数学で書かれている」というガリレオの発言である。
自然認識は原始時代から古今東西に存在するが、数学による記述に偏向したのは、西洋人の近代科学だけである。
そして、近代の科学者たちは、自然を虚心坦懐に眺めあるがままに観るのではなく、数学的形式にあてはまるように(都合よく)現実には存在しない抽象概念を作り出した。その一例が大きさを持たない「質点」という概念である。その意味で、近代科学は同じ架空観念の体系である。
デカルトは「我思う故に我在り」と自我を原点として、そこから論理(ex.数学的な証明)を演繹することで真理を見出すとしている。
そこでは、原点(前提条件や仮定)を都合よく組みかえれば、数式を通して如何様にでも都合のよい答えを導き出すことが可能である。実際、学者や官僚・マスコミは統計を駆使して人々を騙し続けているが、そこで使われる手口は、基準の取り方や前提条件を都合よく捏造した上で、数式にインプットし、都合の良いアウトプットを導き出し、「数学的に照明された」と証することである。
この近代科学の騙し(捏造)構造は、数学的形式に当てはまるように都合よく、現実には存在しない抽象概念を捏造した、近代の自然科学者たちから始まっているのではないだろうか。
近代物理学の法則はあるがままの自然にたいする虚心坦懐な観察によって導かれるものではない。その検証は、人間の思考の枠組み、具体的には騙し性を孕んだ数学的手法に適合するように自然対象を実験という拷問にかけることによって、はじめて可能となるのである。
「市場拡大とともに自我肥大し、自然を支配(破壊)してきた近代科学」
そしてこの構造は近代思想とまったく同じである。
「るいネット」「社会運動の自己欺瞞」(リンク

近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。とりわけ、「権利」とはただ要求することを正当化した架空観念である。
しかし、近代思想家は古代宗教家と同じく、現実そのもの(=自我・私益・力そのもの)を直視しようとはしなかった。なぜなら、それらの都合の悪い本質部分は、あくまで否定すべきものとして、捨象したからである。そして、開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合よく錯覚した。これは、明らかに「現実」のスリ代えである。

あるいは「略奪集団であるが故に自我の塊になった西洋人」(リンク
略奪闘争によって共認基盤たる共同体や規範を喪失したために、己に都合よく捏造された「平等」「民主」をはじめとするギリシア人の架空観念と同じ構造である。庶民は「数学的に証明された」と言われれば騙されてしまうが、前提条件やインプットを変えることによって数学(統計)は如何様にでも答えを捏造することが出来るものであるという、その恐ろしさを知っておく必要がある。
次回は近代物理学がどのように発達していったかを見ていきたいと思います:D

List    投稿者 KAWA | 2011-12-15 | Posted in 13.認識論・科学論7 Comments » 

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コメント7件

 ぶんぶく | 2013.04.15 17:23

8年くらい、前から、パル・システムという宅配の野菜、食品をとっているけど、3・11の後,速やかに、精度の高い放射能検出機を購入、準備して、毎週、食品がくるたびに、全商品の放射能検査情報の結果をカタログと一緒に届けてくれます。茨城や、常陸、埼玉、房総、三浦など、放射能だらけのところのはずですが、ガイドラインが低いのに、検査にひっかかりません。最初は、ほんとうかな?
どうして、おなじ空気を吸っている地域なのに、PALシステムの野菜は、しいたけや、レンコン以外は、どれも、検査値以下なのです。何年も前から、農薬やクスリをなるべく、使わないように、消費者と生産者の安全、健康を木村さんと同じように考え続けてきた人びと、その人びとの持つ
エネルギーが、神社の守り手のような、役目を、放射能
に対して、変換作用でも起こしているのでしょうか。
人類の分水嶺とでもいうのか、放射能を食べる人、放射能
を食べない人、食べてもすぐ変換してしまう人、
意識エネルギーの作用とは、とても不思議です。

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