2012年03月28日

魔術から近代科学へ3~略奪による共認破壊→恐怖と暗黒⇒自我収束をエネルギー源として架空観念を追求したギリシアの要素還元主義者

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 前回(魔術から近代科学へ2 ギリシャ自然哲学の要素還元主義はどうして生まれたのか)に引き続き今回は山本義隆著『磁力と重力の発見』「第二章」の要約投稿します。
 前回は、近接作用説(要素還元主義)がどのようにして形成されたのか、それは略奪集団の自然認識と言えるのかを、要素還元主義が始めて登場したギリシャ哲学において磁力と重力の認識論が登場する過程を学びながら、考察しました。
 そして、前回のまとめとして以下のポイントが浮かび上がってきます。

1.要素還元主義が登場するのは皆殺しの略奪闘争で共同体規範が完全に失われ、架空観念で集団を統合するしかなかったのがギリシャ人(西洋人)だったから。
2.架空観念が要素還元主義に向かったのは、略奪闘争の結果、自我収束が進み集団が原点ではなく、個人が原点であると考えるようになったから。
3.ギリシャの要素還元主義に機械論的な自然認識が加わったのは共認機能が衰弱し、自然を共認対象と捉えられなくなったから。

 以上のように、古代ギリシヤに登場した磁力にたいする二通りの見方、機械論ないし原子論にもとづく「要素還元主義」と、物活論と称される「有機体的全体論」は、ヘレニズムの時代に入ってそれぞれの内容がより明確にされてゆくとともに、その対立も浮彫りにされてゆき先鋭化していきます。
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山本義隆著『磁力と重力の発見』(みすず書房刊)「第二章」より要約します。

第二章 ヘレニズムの時代
Epikur.jpg1 エピクロスと原子論

 古代ギリシヤに登場した磁力にたいする二通りの見方、つまり、一方における機械論ないし原子論にもとづく要素還元主義と、他方における物活論と称される有機体的全体論は、ヘレニズムの時代にはいってそれぞれの内容がより明確にされてゆくとともに、その対立も浮彫りにされてゆき先鋭化していった。
2 ルクレティウスと原子論
 ルクレティウスは、エピクロスを、人類が宗教的恐怖によって押しひしがれていたときに不敵にもこれに反抗しこれを打ち破った人物と記し、しかしそのことはけっして不敬でも罪悪でもないと擁護している。
 共和制末期のローマ社会の混乱が行間に透けて見えるが、かかる宗教的恐怖に打ち勝つためにこそ自然の解明は求められているとルクレティウスは断言する。
「このような精神の恐怖と暗黒は、太陽の光明や真昼の光線では一掃できないことは必定であり、自然の姿〔を究明すること〕こそ、また自然の法則〔を解明すること〕こそ、これを取り除いてくれるに違いない(I,146-8)」のである。おそらくこれこそが、ルクレティウスにとっての自然研究の最大の目的だったのであろう。
 そしてその「自然の第一の原理」としてルクレティウスは、始源物質としての原子の不生不滅を挙げる。すなわち「何ものも無から生じることはない(Ⅰ,150)し、「いかなるものも無に帰することはなく、ただ原子に還元されるにすぎない(Ⅰ,248-9)」。
 こうして「物の本質に関する真の理論は、否応なしにこう信じせしめる、すなわち、強固にして恒久的なる構成に成るものかおるということ、そしてこれがわれわれの説く物の種子、すなわち原子なるものであって、現存する物の総和〔宇宙〕は、すべてこれを元として構成されている(Ⅰ,500-2)」と宣言される。原子論の基本思想である。
アルファペットの配列を変えただけで言葉の意味も発音も多種多様に変化するのと同様に、自然界に見られる物質のさまざまな性質もこれらの因子の組み合せと配列でもって説明される。「重要となる点は、おなじ原子がいかなる原子とともにあり、またいかなる状態で結合されているのか、いかなる運動をやりとりしているのか、という点である(Ⅰ,817-9,908-10)。」デモクリトスは事物の性質を「形状・向き・配置」で説明したが、エピクロスとルクレティウスはそれに「運動」をつけ加えたのである。このことの重要性は一七世紀になってはじめて明らかになる。
 そして、個々的には自然法則にのっとって動くその夥しい数の原子全体の運動と結合の結果として、現にあるこの宇宙が形成されたと考えられる。そこには「神意」や「目的」はない。
 以上で第一巻は終る。超越者の意志や計画による天地創造の対極にある世界観の表明であり、自然説明からの目的論の追放宣言である。
 第二巻では、原子の運動と形状が論じられる。
 運動について言うならば「原子にはまったく静止が許されない」のであり、「原子は変化きわまりない不休の運動に駆り立てられている(Ⅱ,95-7)」。たとえ巨視的な物体としては静止しているときでさえ、その物体を構成している原子は「ことごとく運動している(omunis in motus)」。ただし、私たちには「原子そのものも認知しえないので、個々の原子の運動もわれわれの眼には捉えられない」(Ⅱ,312)。現代物理学の分子運動論を髣髴させるくだりである。
 さらに、原子は運動だけではなくさまざまの形状をもち、それによって物体の物理的性質だけではなく、味や匂いといった人間の感覚器官に与えられる性質も決定される。つまり、水がガラスを通ることができないのにたいして光がランプを通るのは、光の原子が小さいからであり、葡萄酒にくらべてオリーブ油が流れにくいのは、後者が「大きな原子からできているか、でなければより多く鉤がついていて(magis hamatis)、たがいにより密接に縺れ合った原子からできているからである(Ⅱ,393-5)」。

3 ルクレティウスによる磁力の「説明」
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 磁石から出た原子が空気を打撃してそこに空虚を作ると、その空虚に鉄から出た原子がただちに流れ込み、原子のその流れに鉄自体が続いてゆくということらしい。これが鉄が磁石に引き寄せられる原因とされているが、鉄と磁石が接して固着する理由にたいしては、ここでは接着について「眼に見えない留金(caecuae compagines)によるとされている。
 この点については、この後に「一方のものの有する間隙が他方のもので充満され、他方のものの間隙が一方のもので充満されて適合し合うというような相互関係が物の組織上に生ずれば、ここに二者の最上の接合がおこなわれる。
また、二つの物があたかも環と鉤で連結されたかのように、相互に密着し合った状態を保ちうることもあるが、磁石と鉄との場合に生じるのは、むしろこれであると思われる(Ⅵ,1084-9)」と敷衍(ふえん)されている。通常の石が漆喰で固まるとか木材が膠で接着されるとか金属がはんだで接合されるというのは前者の例で、それにたいして磁石と鉄は「環や鉤(anellus hamusque)」でメカニカルに結合するというわけである。
 ここまでのところでは、単純素朴な議論ではあれそれなりの説明にはなっていよう。それどころか「鉤や環による結合」という表象こそは、一七世紀になって機械論者が主として依拠した発想に他ならない。しかしこのような論理では、磁石が引力だけでなく斥力をも示すという事実、および、磁石が鉄だけを引き寄せ、非金属はもちろん金属であっても鉄以外のものを引き寄せない事実-磁力の選択性-の説明はきわめて困難に思われる。
 畢竟(ひっきょう)するに、たとえその説明が現代から見てどれほど安直で限られたものであれ、あるいは欠陥を含んでいるにせよ、それらは近代の機械論と原子論-総じて要素還元主義―の原点なのである。
 実際、千数百年後のデカルトやガッサンディの説明も、神との関係を別にすれば、素朴さの点においてはこれらと五十歩百歩と言える。すくなくともアレクサンドロスをとおして伝えられるエンペドクレスとディオゲネスとデモクリトス、後期プラトンとプルタルコス、そしてまたルクレティウス自身およびルクレティウスの詩に語られているエピクロスは、磁力を単に事実として書き記しただけではなく、はじめてその合理的な説明を試みた人だちとして記憶されなければならないであろう。しかし、ギリシャにおけるこの還元主義の伝統は、ルクレティウスでもって終焉を迎える。

 ルクレティウスは、「自然法則の解明こそが宗教的な恐怖を取り除いてくれる。」と述べ、それが自然研究の最大の目的としているが、この感覚は彼のみではなく、当時のギリシアの自然科学者の一般的心理だったと思われます。
 略奪・侵略によって、共同体を破壊し尽くし、警戒心の塊であったギリシア人にとっては「自分以外は全て敵」です。「精神の恐怖と暗黒」の塊になるのは必然です。その「恐怖と暗黒」から逃れるために強力に自我収束し、自我をエネルギー源として架空観念(ex.原子論)を追求したのです。
実際、ルクレティウスは媚薬を飲んで発狂し、正気に返った合間に本を書いていた詩人であり、ルクレティウスにとって詩の世界も自然世界も、心の闇と恐怖から自我収束して捏造した架空観念の世界だったのでしょう。そして、それが彼にとって唯一、意識を統合できる(心の安息を得られる)世界だったのはないでしょうか。
 現実には目に見えない(当時は電子顕微鏡もない)原子の世界をここまで構築できたのは、自然を架空観念によって究明し、暗黒と恐怖の世界を一時的にも取り除く必要があったからではないでしょうか。
ルクレティウスをはじめとするギリシアの要素還元主義者(原子論者)たちの追求の凄まじさは、共認充足を喪失した彼らの心の闇と恐怖が如何に深く、そして自我収束力が如何に強かったかを示すものです。
 その「精神の恐怖と暗黒」は宗教では消し去る事はできず、ルクレティウスが「宗教的恐怖によって押しひしがれていた…」と言っているように、当時の西欧社会は、言い知れぬ恐怖[不安]が蔓延していたと予想されます。
 それは、精霊信仰の自然に対する「感謝・同化」の姿勢とは明らかに異なる「不安・恐怖」発で自然を分解→破壊というベクトル(=要素還元主義)が根底にあるのではないでしょうか。
るいネット「不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰」より引用

「存在不安」は、私権時代の全ての宗教・全ての局面に存在すると私は考えています。キリスト教においても、仏教においても、人々が求めるのは「救済」です。神の御座に祈るのは、魂の救済であり心の安楽であるのは洋の東西を問わず変わりません。これこそ、私権社会の宗教が「存在不安」を抱えている証ではないでしょうか。
その背景にあるのは、自我を基盤に宿した私権社会故の 過剰競争・自我摩擦・搾取等の不条理からの逃避、そして「死」への恐怖と言えるのではないでしょうか。
~中略~
現世からの救済を願う、存在不安を抱えた私権社会宗教(キリスト教等)と、万物と同化し、その存在に感謝を捧げるネイティブ・カルチャーの精霊信仰では 雲泥の差があります。 我々は、彼らから多くのことを学ばなければならないと感じます。

ルクレティウスの原子論でも磁力の解明は実現はできませんでした。ギリシャにおける還元主義の伝統は、ルクレティウスでもって一旦終焉を迎えます。(実は、千数百年後の近代で復活します)
 次回は、要素還元論に対するもう一方の考え方「有機体的全体論」の磁力に対する考察と、その後の魔術との関係性について記載したいと思います。

List    投稿者 ginyu | 2012-03-28 | Posted in 13.認識論・科学論No Comments » 

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