2011年10月30日

カタカムナに学ぶ~素粒子も個体もみんな同じ、アマとカム(みんな)の分身

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「カタカムナに学ぶ ~適応欠乏というイノチを万象に宿す道=アラカミチ~」では、
【1】現象の有限宇宙(アマ)の外側に、客観できない無限のカムが拡がっていること。
【2】そのアマとカムの対向(ムカヒ)から、その相似象として万象が生じること。
【3】そして、万象に宿る適応欠乏というイノチは、万象に宿るアマの名代アマナとカムの名代カムナに由来するものであり、アマやカムから万象に通じる道アラカミチが存在することを紹介しました。
そして、カタカムナの認識(思念)は、現代物理学の常識を覆す、あるいは、それをはるかに超えるものです。
引き続き、相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月 シーエムシー技術開発㈱発行)から紹介します。
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現代科学が時間空間を「元」とする一方、カタカムナ人には、時空を「元」とする思想はない。
「トキ トコロのマリ」が、時間空間とよばれる現象の「本質」であり、時間空間をはじめ、あらゆる現象事象の発現するもとを、「アマの元」に統括して居る。
そして、電気、磁気、光等の現象をあらはす「電磁波」や「プラズマ」等をほじめ、生物無生物、生命質や物質、有機物無機物等とよばれる「物質」を構成する「諸元素」も、すべて、この、アマ始元量の「変遷」と観じたのである。
カタカムナ人は、<カム>は全くの潜態で、とらへる事は出来ないけれども、<アマ>は潜象ながら、宇宙を構成する現象系のモノとしてとらへて居たから、そのアマの変遷する様相については、それぞれの用語を示して居る。
先づ、「アマの細かく分れた状態」を<アメ>と言ひ(雨はその相似象)、<マリ>といふときは、そのアマの細かく分れたモノが、「次第に結球するスガタ」としてとらへた思念である。
そしてその潜象のマリが、次第に集合し凝縮し旋転して、電子にも、原子にも、変遷するといふ直観である。

又、潜象のマリの「素量」の状態は、<イカツミ マクミ カラミ>(ミツゴ モコロ)等とよんで居る。
そして、そのように、マ(アマ)と、マリ(マから離れたもの)とで、大小さまざまの森羅万象が構成されてゆくことを、<マトマリ>といふわけである。
そして、大きなマトマリを<タマ>とよび、チタマ(地球)、タカマ(宇宙)、ハコクニ(原子)などとよんで居る。(又、アマの微分の思念から、<イマ>とか<ココロ>といふ言葉も発想されて居る。)

現代人は一般に、「今」といへば「時間空間」の最小の単位であるが、とらへどころのない観念的なものと思って居る。
しかしカタカムナ人の<イマ>には、そのような理念としてではなく、現代人が失って居る感じ方があったのである。
「今」と<イマ>の違ひを現代語で説明することは難しいが、基本的な要点を述べてみると、<イマ>といへば一応極微的な思念であるが、実は、<イマ>は、これ以上小さく出来ぬ分化の極であると同時に、測りようのない大きなもの、則ち、拡大の極に通じ、要するに、<マ>の絶対的な単位量(大小長短などの観念では言へない、潜態の始元量)として把へたモノである。
もしそのマリ(イマ)が、それ以上分化して小さくならうとすれば、もうマリ(イマ)ではなくなって「消失」してしまふしかない。(消失した最小の極は最大のアマに通じる。)
消えて亡くなったイマ(マリ)はどうなるのか?・・・
そこにカタカムナ人は、<アマ>の潜態への統合を直観したのである。
「消失」とは則ち、アマ始元量への「還元」を意味する。
現代人が、「今」とか「時間空間」とかとよんで居るものは、この絶対的な単位量のマリ(イマ)が、現象界に変遷したスガタを、「集合系」でみて居るわけである。
我々が、「時間空間」といふ観念でよんで居るものの本質は、とりも直さず、この<イマ>であり、言ひかへれば、<トキ トコロのマリ>といふことになる。

▼イマタチ
現代人は一般に、「今」が次の今に、そのまま、川の流水のように移動するものの如く思って居るが、カタカムナ人の考へ方は、刻々に発生し、刻々に消滅する、<イマ>の、統計的な存在(イマタチ則ちイマイマ的な性質)としてとらへて居る。
その様相をわかり易い例でいへば、丁度電光ニュースをみるようなもの(一個一個の電球は点滅するだけであるが、人間の目には、それが流動するスガタとしてうつる)、又は映画をみるようなものといへるであらう。
現代人は、送電線によって電気が送られる現象を「電流」と称し、あたかも電線上を、電子がそのまま移動するかの如く扱って居るが、実はそのようなことはあり得ない。
やはり電線上に、電子が、次々に発生、消滅して居るもの(極めて早い電光ニュース板か、又は映画のフイルムの一コマ一コマを連続的に見て居るようなもの)
と考へられる。
電子の荷ふ電気素量は、アマの変遷した潜態(イカツミ)である故に、現代科学では、まだその様相を説明しきれないで居る。
しかしその真相は、カタカムナ人の把握した<イマタチ>の物理によって、はじめて解明されるであらう。
ただ、電流の場合は、電磁波速度で次々と生滅を続けるが、<イマ>の場合は、その発生消滅のスピードが更に早く、科学でもっともはやいとされる光速度よりも、さらにはやいと彼らは感受して居たようである。
遮ぎるものがない限り、我々の周囲にも、そのイブキが及んで居る、とカタカムナ人は観じて居た。
細胞の新生(イノチの発生)も、新陳代謝も、個体の死も、このような<イマ><イマ>の関連による統計的なもの、と彼らは直観したのである。
<イマ>とは、このように「アマの絶対的な単位量」として、しかも架空の観念ではなく、彼らの実感にとらへられた、潜象の粒子(マリ)であり、<イノチ>とは、この<イマ><イマ>のイブキの中で、さまざまの干渉、抵抗をうけたイマ(マリ)が、物質系にあらはれ、ある「空間」と、ある「時間」を保って居る状態(ソコチクネ)である。
電子から天体に至るまで、いかにも、万象は、確かな形を保って存在して居るようにみえる。
しかしその真相は、やはり、電光ニュース板のように、刻々に、発生し消滅する、「今」「今」の連続にすぎない。
決して前の「今」が、後の「今」にそのまま流れて移行するのではない。

<イマタチ>とは、このように、万象のイマ、イマ的性質(タチ)を洞察し、すべてを<イマ>の相似象として、固定することなく、アリノママにとらへた言葉である。
この、万象を「統計的存在」として把握したところに、カタカムナ人の「直観物理」の特徴があったのである。

★統計的存在とは、マクロに見ると一定の固定したもののように見えるが、ミクロには絶え物質の出入りや発生と消滅が起こっており、統計的に一定なものであるという性質です。宇宙球は、一定の形をもった有限のものであるが、絶えずアマ始元量が流入流出している回転流動体の統計的存在です。
この相似象は、人間や素粒子に見られます。すなわち、人間は、ミクロには絶えず細胞の新陳代謝が起こって肉体は入れ替わっている統計的な存在であり、また、電子などの素粒子も固定された一定のものではなく、これを構成するさらに超ミクロの素粒子が絶えず流入し流出している統計的存在であるということです。
★そして、「電流が流れるのは電線上を永久不滅(不変)の電子がそのまま移動する」という物理学の常識は間違っているということです。電子が電磁波速度で次々と発生消滅している統計的存在だというカタカムナの認識は、現代物理学の常識を覆すものですが、それは十分有り得ることです。
現代物理学でも、電磁波であるγ線同士が衝突して一点に大きなエネルギーを集中すると(-)電子と(+)陽電子がペアで生まれ(対生成)、逆に(-)電子と(+)陽電子が出会うとγ線を放出して消滅する(対消滅)という現象が観測されています。このように、電子は電磁波(光子)から次々と転換することによって発生し、一方では電子は次々と消滅し電磁波(光子)に転換しているのです。
カム→アマのチカラ(始元量)が、イキ(生気)やイノチ(生命)やイキホヒ(エネルギー)となり、電気や磁気や力の素量(イカツミ、マクミ、カラミ)等ともなり、粒子(マリ)に変遷して電子(イカツ)になり、一方で電磁波になり、かつ、それらが相互に互換する、例えば電子→光子、光子→電子に変換するというのがカタカムナの宇宙論・素粒子論ですが、電子の対発生・対消滅という現象はそれを裏付ける現象です。
★そして、カタカムナ人は、時間も空間も、アマが微分された(細かく分かれた)潜象粒子マリ「イマ」が変遷するスガタの集合系、言い換えれば「トキ トコロのマリ」が刻々と、光速よりもはるかに早い超スピードで、発生・消滅を繰り返している統計的存在と捉えているようです。
そして、おそらく、トキ(時間)・トコロ(空間)のマリは、電子と光子が互換するのと同じく、相互に互換しているはずです。

▼イマの基底思念
カタカムナ人の<イマ>といふ造語の思念を再び説明すれば、「イ」とは微分された「極微の量」である。
<イマ>とは「イのマ」、つまり、「微分されたアマ」といふ思念で、「今」といふ現象の「本質」を意味して居る。
従って、位相がかわれば、それは、<トキ トコロのマリ>と同じであり、則ち、「時間空間」といふ現象の、「本質」を意味する。

このように、たとへば、上古代語の<イマ>を直ちに現代語の「今」に当ててしまふ前に、「イのマ」「イのチ」等と、はじめてこの言葉をつくり出した人々の思念を追ってみることによって、彼らの思想が、我々にも、ヒビキ合ふように、次第に伝ってくるであらう。
要するに、<カム>とは、そのような<イマ>を生む<アマ>の発生源である。
そして、現象界のすベてのものは<イマ>の変遷であり、<イマ>は、<アマ>から生れて、時空を現象し、やがて<アマ>に還り、そして、<アマ>は<カム>に回帰してゆく・・・・・。
その循環が、天体の現象等の場合は、非常に長いので、一般には、無限であるかのように錯覚されて居るが、いかに悠久でも、アマ界に於ける個々の天体は有限の存在である。従って、技術的な問題が絡むとしても、計測が不可能といふわけではない。
しかし、<カム>そのものの無限さは、我々の「測量」といふ概念が及ぼないものなのである。
「計る」といふことは、客観の対象について言へる事である。
我々は、<カム>を客観的に検証する事はできず、<カム>の大きさや長さ等を測る尺度を有たない。
<カム>とは、計って理解できるようなものではないのである。
ただし、<カム>が実在するモノである以上、我々は、直観によって、それを感じることはできる。
カタカムナ人の<アマ-カム>のサトリは、根拠のない空想でも、或ひは神秘的観念でもない。
<イマ>が確実に存在するものであるように、<カム>がマチガヒなく存在する潜象であればこそ、古来、直観の優れた人々は、その存在を感得し、それを、めいめいの知性の度に応じた表現を以て示して居たのである。
この、アマ-カムの対向(ムカヒ)が、現象界にあらはれる、正と反の、相反するスガタの、あらゆる相似象の最も原型の原象(あらゆる類似のパターンのモデルの根源)である。
この<イマ>を生み続ける、<カム>と<アマ>の対向(ムカヒ)、則ち、<カムナ><アマナ>のかかはりは、我々も、じつは日頃身近に経験して居る。
しかし、認識するには至らないのである。
このアマナとカムナの持続的な関連をカムナミチと言び、その目にみえぬミチが、あらゆる物質系や勢力系を生み、左マワリ右マワリの旋転循環運動(マワリテメグル)の原動となって居る。
<アマ-カム>に指向する、その原動は、アマとカムの「複合系の潜象」の無限のチカラに由来する。
そして宇宙の万物が、いかに分化し変遷しても、つねに、アマの本来性(自然則、宇宙則)をマテガハズに伝へ有って居るのは、この、目にはみえぬものであるけれども(カムナガラ)、<アマナ-カムナ>のミチが通って居るからである、とカタカムナ人は考へ(カムカヘ)たのである。

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★このカタカムナ人の時間・空間の思念は、現代物理学の前提となっている時間・空間概念の見直しを迫るものです。
物理学者の朝永振一郎氏も、現代物理学の矛盾の所在がその時間・空間概念にあることを指摘しています。
朝永振一郎氏著の『量子力学と私』(みすず書房刊)から引用します。

それでは、自然は一体どちらを望んでいるのであろうか。
すなわち、相互作用をいくらでも小さくすることが実際に可能であり、したがって互いに無関係な素粒子という概念が明確な意味をもっていて、その上無限大などの現れて来ない理論が要求されているのであろうか。それとも、相互作用の小ささには限界があり、したがってわれわれの理論の構成の土台になっていた「互いに無関係な素粒子」という概念の変更が要求されているのであろうか。
このいずれかが自然の真相である。
しかして量子力学と相対性理論とをそのままの形で結び合わせたわれわれの理論は、このどちらにも属せずに内に矛盾を含んでいるのである。
この矛盾の所在は多分この理論の中の素粒子とか相互作用とかあるいは時間とか空間とか、そういう概念にあるのだろう。

なぜならこれらのものは相対性理論において絶対運動の概念が、量子力学において粒子・波動の概念が受けたような批判を、まだ少しも受けずに多分日常的な意味で用いられているからである。

カタカムナの時間・空間認識については、いずれ詳しく紹介させていただきます。
★また、朝永振一郎氏は、楢崎皐月氏と同じく電光ニュース板という例を挙げて、素粒子はその一つ一つが、自己同一性を持っていないことを提起しています。
つまり、二つの光子をとってみると、二つの光子の一方が一郎であり、他の一方が次郎であるというふうな区別をすることは、そもそもできないということです。
朝永氏の著『鏡の中の物理学』(講談社学術文庫)から引用します。

光子のように自己同一性がない粒子というものは、この電光ニュースの光点のようなものだと考えれば、その意味において決して存在し得ないものでないということが、これで明らかになった。素粒子というのは、まさにこういうものなのである。
それは粒子であるといっても、電光ニュースの上の光の点のようなものである。
実際、現在の素粒子の理論では、素粒子をこういうものとして取扱う。
素粒子論において、電光板の役目をするものは、いわゆる場である。
素粒子とは電光ニュースの上に現れる光点のように、場に起る状態の変化として現れるものである。この状態の変化を支配する法則は場の方程式といわれる数学の形で表される。
空間のなかにはいろいろな場が存在していて、そのおのおのの場にはそれぞれ異なった素粒子が現れる。電磁場の現れとしては光子が、ディラックの場の現れとしては電子が、さらに湯川場の現れとしては中間子が現れるのである。

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<カタカムナ>と言う言葉は「形のあるもの(カタ)は、形のないもの(カム)の分身(ナ)である」という意味です。
ということは、素粒子も全てカム→アマが変遷した分身、つまり始元は全く同じですから、素粒子は自己同一性を持たない(一つ一つの粒子を区別することはできない)という、朝永振一郎氏の提起は至極当然の事です。
人間の個体をとってみても、「相手も自分も同じなんだ」「みんな同じ」という同一視の感覚も、一つ一つの個体がみんなアマ-カムの分身であることに由来するものだと考えられます。
あるいは、生物が群れをつくって適応しているのも、我々人類が「みんな」を大切に想うのも、その仲間感覚を土台にして集団や社会を統合しているのも、生物や人間の個体もみんなカム→アマの分身であり、その根っ子ではみんな同じだからではないでしょうか。
とりわけ日本人が「みんな」を大切に想うのは、「みんな」という言葉が単なる他人の集まり(英語で言うEVERYBODY)ではなく、そこにアマ-カム対向の摂理とそれに対する感謝の思念がこめられているからではないかと思います。
我々日本人にとって「みんな」とは、アマーカムの対向という宇宙の摂理そのものであると言っても過言ではないと思います。
冒頭の画像「元気はみんなにもらうもの」という言葉は、アマやカムから適応欠乏というエネルギーをもらっているという意味なのかもしれませんね。
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List    投稿者 staff | 2011-10-30 | Posted in 13.認識論・科学論3 Comments » 

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