【情報戦】4 戦略的思考を見出し、情報戦の産みの親となった遊牧民
前回の記事では、サル・人類が強烈な自然外圧を突破するべく、対象を直視し、精霊信仰に辿り着き、観念機能を獲得するに至った経緯から、情報とは「闘争において可能性を発掘するための徹底した対象探索、対象同化の果てに得られるもの」であるという情報の本質を見出した。
この情報の性質にいち早く気付き、戦略的思考を発展させたのが遊牧民である。今回は遊牧民と縄文人をはじめとする南方系の人々を比較をすることで、「戦略的思考」そして「情報戦」とは何かを考えていく。
□牧畜→遊牧→交易から戦略的思考を生み出した遊牧民
遊牧民は遊牧集団とオアシス農牧民に集団分化=役割分化し、交流=商業(交易)を発達させた。遊牧民族が交易を始めるに至ったの経緯については、以下の投稿群に詳しい。
狩猟→牧畜が登場した理由は、森林よりも貧しい草原において牧畜によって生産性を上げるためである。狩猟で食えるのであれば牧畜は登場しない。では、牧畜が登場することによって、何が変わったか?
①これは栽培も同じだが、牧畜によってはじめて、常時蓄積された財が登場する。それ以前も例えば、洞窟に動物の死骸の骨を溜めることはあったはずだが、そこでは財という意識はなく、収穫物の蓄積財が登場してはじめて財産意識が登場したであろう。
②もっと大きな転換は、動物を飼い馴らすという自然の摂理に反する行為が登場したことである。
それまでは自然(動物)は畏敬の対象であり、生命をいただく代わりに感謝の念を捧げていたわけだが、その自然を人間が飼い馴らすというパラダイム転換が起きた。
リンクより抜粋
当時の牧畜集団の人数規模は100人程度だったと推定されるが、この規模の女・子供含めた母集団が食っていける場所があるはずがない。だから女・子供連れて移動したとは考えられない、乾燥化などによって食糧生産力が7~6割に落ちた段階で(多くて10人程度の)斥候部隊を何方面かに派遣して、各男部隊が1~2割程度の不足分を遊牧で補っていたはずである。
遊牧によって史上はじめて人工的な男集団が登場し、かつ、それまでの単位集団とは違う、牧畜母集団と複数の遊牧男集団という重層集団(社会)がはじめて形成されたのである。
遊牧男集団の「女よこせ」要求に対して母集団が女を分配するようになり、婚姻制度が母系の勇士婿入り婚から父系の嫁入り婚(父権多妻婚)に180度逆転する。同時に、財産(家畜)は男のリーダーが管理するように変わり、集団の主導権も男に移行する。
嫁取り交渉では集団の財が多い方が交渉が有利に運ぶので、各氏族の蓄財意識が高まってゆく。こうして出自の違う女同士の間で私益の対立が発生しはじめる。これが相対自我の芽生えであり、遊牧→父権転換(嫁取り婚)から自我が発生したと考えられる。
リンクより抜粋
遊牧集団が交易を始めたのも、人口増によって遊牧だけでは食えなくなったからであるが、それ以前に周辺の農耕部族の人口増によって至る所に農耕集落が生まれ、定常的な交易が可能になったことが前提条件としてある。
交易に転じると、損得・利益という意識が登場する。元々食えないから交易を始めたわけだから、そこは部族の命運がかかっている。こうして部族全体が利益収束し、利益拡大(蓄積)が部族の統合軸となってゆく。これを唯利収束(唯利統合)と呼ぶことにする。
また交易は損得のやり取りであり、利益第一に染まっていることも相まって、著しく他者に対する攻撃性を磨いてゆく=高めてゆく。こうして唯利収束と攻撃性故に、他部族を騙してもよいということになり、騙しと交渉術に長けてゆくようになる。
リンクより引用
交易における交渉の過程では、相手の求めるものを探り、更にはより高く売るための工夫が必要となってくる。そこでは単に相手に同化するだけではなく、相手の欠乏と行動を先読みして裏をかく、つまり戦略的思考が必要となる。超集団の原点となった遊牧民は商業と軍隊だけでなく情報戦の生みの親でもあったといえる。(以下は、モンゴル人の事例)
モンゴル族の源流は明確ではありませんが、中国では古く匈奴、月氏、突厥、女真、契丹、などとよばれたアルタイ系北方遊牧民族の一つで、イラン系、トルコ系諸民族とも隣りあい、まじりあっていたようです。一三世紀初頭にテムジンがモンゴル族を統一してチンギス・ハーンと名のると、牧民を九五個の千戸群に再編して右翼を息子たち、左翼を弟たちに統括させる「ウルス」という国家体制をつくったが、宮廷の「ネケル」とよばれる幕僚にはそれらの近親のほかに、女真人、契丹人も加わっていたことが注目されます。金王朝に対する情報と戦略をもつ契丹人の耶律阿海と禿花の兄弟が手引きして、内蒙草原の契丹系騎馬軍団をそっくり吸収したことが、対金戦略の勝利の一因で、契丹軍団はそのままモンゴル軍に組み込まれます。だからモンゴルとは最初から、ハイブリッドな多民族集団だったのです。
もともと遊牧は馬だけでは成り立たず、馬、牛、羊、山羊、ラクダの五畜で成立する。しかも、遊牧生活に必要な人間の食糧、道具などは自給自足できず、周辺に定住農耕集落やオアシス都市が必然的に要求されます。だからモンゴル族も遊牧騎馬軍団だけではなく、集落、都市の支配経略を早くからもっていたと思われます。事実彼らの遠征は、まず偵察と諜報を兼ねた通商使節団を送り、相手が通商をことわると集めた情報と下工作の結果をクリルタイという作戦会議で検討し、寝返る可能性のある者を工作して投降させた上、一点に兵力を集中して一挙に攻撃するのです。しかも占領地では、既成の宗教は一切自由、フビライになると各宗教に本山のほか、モンゴルの首都カラコルムにもう一つ本部を置かせて管理する以外自由とする。さらに中国の三大発明といわれる火薬、羅針盤、印刷術、またのちに景徳鎮などで生産される青い釉薬を塗った青花白磁を西洋に伝えたのは、モンゴル人のネット・ワークだといわれます。つまりモンゴル帝国全体が各パートの自主性を尊重したゆるやかな諸民族連合で、武力支配だけでなく情報、文化支配だったといえます。
リンクより引用
元代の紙幣「交鈔」
戦略的思考を発展させた遊牧民たちは、縄張り闘争がより激しくなると、相手を騙す、さらには相手から物品を奪い取るために因縁をつけるといった「詐欺的思考」を発展させるに至っていく。
自分と異なる対象への同化から始まった遊牧民の対象探索思考であるが、最終的には相手への同化を反転させて裏をかく「詐欺的思考」へと発展(堕落)していったのである。
□贈与を行う事で集団間の緊張を緩和した南方系
他方、縄文人をはじめとする南方系の人々は、同じ頃、自分たちの求める価値も相手が求める価値も同じだという前提に立って集団と対峙した。(実際に、初期の縄文人は様々なルートで日本に漂着したとは言え、スンダランド出身の南方モンゴロイドという共通項を持っていた。)
縄文人は自分たちが大事にする宝物(ex貝殻やヒスイや黒曜石)を「相手も自分も同じなんだという」確認の意思も込めて相手に提供した。いわゆる贈与であるが、そのことによって同類緊張圧力を緩和させることができた。そのため「相手に同化して相手の戦略を読み、裏をかく」といった詐欺的思考は発達することはなかった。(下記の引用からもわかるように、黒曜石を介した交流には詐欺的な考えは一切無かったのではないだろうか。)
群馬県で出土した黒曜石
日本列島日本海側を中心に一部シベリア東部おいて多方面、広域に広がる黒曜石や翡翠や琥珀の存在は、当時の各集団が何らかの交流関係にあったことの証左であると思われる。
これらは既に三内丸山遺跡にも(4500年前から3000年前)同時代の他の遺跡でも確認されており、かつ少なくとも三内丸山では上記のものは採掘できない事から、少なくともこの時代では、既に他集団どうしの交流が存在したと類推できる。(つまり同類圧力が存在したということである)
さて、この交流のあり方が贈与なのか、交易なのかが次の問題である。NHKでは交易と断定されている様である。
またこの掲示板でも、それぞれの用語がやや曖昧に使われている様である。
しかし先ず私は贈与と交易とは全く性格が異なるものであり、両者は明確に区分されなければならないと思う。
未開民族の調査によれば、いくつかの部族が(一方的)贈与という習慣を持つ。そして送られるものは、その部族にとって、最高に価値あるものと認められているものである。この贈与においては直接的な反対給付は要求されない、つまり交換や交易ではない。
この習慣はおそらく部族間の友好関係を示すものであろう。しかもおそらく潜在的には緊張関係を孕んであり(全くの同胞的関係であれば、おそらくわざわざ贈与という行為を取らなかったであろう)、そのために何がしかの友好の意思を示す必要があったのではないだろうか。だからこそ逆に日常的必需品ではなく、価値の高いものがその対象になったのではないだろうか?
リンクより引用
縄文人の贈与の慣習からも読み取れる、「詐欺的思考の欠如」こそ、日本が欧米との情報戦でいいようにやられてしまった直接的な理由だ。しかし、根本的には「相手も自分も同じ」という前提で思考が始まっているところに、私たち日本人の根本的な問題があるように思われる。「人類みな兄弟」といった言葉は、欧米では意味をなさないが日本人ではそれが普遍価値であるかのように思われ、そのような主張をする団体の悪事を覆い隠してしまう効果を持つ。「同化してもしきれない相手もいる」という現実を踏まえて、より深く同化し、場合によっては相手の詐欺的思考、自我を否定して、より深い共認を形成していく・・・そのように対象に対峙する心構えを改めることが、まずは情報戦に強い日本をつくる第1歩ではないだろうか。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/01/2682.html/trackback