2012年01月01日

近代科学の成立過程12~重火器の発達に促されて弾道学・機械学から力学が発達した

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「レオンハルト・ツープラー(1608)『新幾何学機器』より臼砲」
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「戦争や市場拡大とともに発達した西洋医学」「戦場で活躍した外科医が支配階級に取り立てられ権威化していった」では、鉄砲や大砲という火器による新しい戦傷に対応するために西洋医学が発達したことを明らかにしました。
大砲や鉄砲が主力兵器になったことは、医学の発達を促しただけではありません。
その軍事的要請から弾道学や機械学の発達を促し、ガリレオやニュートンらによる力学の土台をつくります。
今回はその過程を見てゆきます。
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山本義隆氏の著『十六世紀文化革命』(みすず書房刊)から「第六章 軍事革命と機械学・力学の勃興」前半の要約です。
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1.タルターリアと弾道学
代数学とならんで16世紀イタリアに勃興した新しい科学は、機械学と力学である。しかし、その起源は代数学とは異なる。
16世紀の西欧において、軍事革命の中核といわれる戦争形態の変化があった。この時期に大砲が技術的にほぼ確立され戦略兵器として使用されるようになったことである。この時期の機械学と力学の勃興と発展に、この軍事革命は直接的な影響を与えている。
一つには砲弾の射程をめぐって弾道学を生み出し、いまひとつには重い砲を戦場で迅速に運び砲台に設置する必要から機械学の進歩を促した。さらに、戦争形態の変化に伴い、中世の無骨な騎士たちが近代的な軍事理論をマスターする必要に迫られた。
この時代の戦争技術の変化を見てゆく。
ヨーロッパでは火薬兵器の始まりは1320年代に遡るが、この兵器が中心的役割を果たすのは16世紀に入ってからである。
16世紀軍事革命の基本は大砲と銃の主力兵器化にある。
15世紀中期の英仏戦争の最終局面で英の防衛拠点であったノルマンディーやアキテーヌの都市や要塞を仏の砲兵隊が短期間に攻略し、大砲の重要性、とくに高い城壁を備えた旧来の砦に対する有効性を立証した。15世紀末にスペインがイスラム教徒の最終拠点グラナダを攻め落としたのも、180門の攻城放列の威力だと言われる。
15世紀末の仏軍のイタリア侵攻で、仏の攻城砲は古い要塞の壁を空前の速度で打ち破り、近代的な攻城砲の攻撃にはイタリア都市国家の防衛が無力であることが露呈された。この敗北によってイタリア人が大きな衝撃を受け、これを契機にイタリアの都市国家の支配層は競って大砲の導入と都市防衛の再構築に乗り出した。このイタリアを舞台とする変化が、中世の戦争から近代の戦争への転換をもたらした。
砲の大型化ではなく、小ぶりの砲を多く装備した機動部隊による攻撃という戦術に変化し、主力兵器としての大砲使用の定着は、軍事が数学や機械学・力学に結びつく端緒であった。
1537年のタルターリアの『新技術』は、軍人と技術者から提起された実際的な問題に促されたものである。そこでは、砲弾を最も遠くまで飛ばすための発射角度は仰角45度と書かれている。
地動説を唱えたコペルニクスは、地球上で見られる物体の鉛直方向の運動に対して、地球自身が円運動をしているのであるから、「落下するのものと上昇するものの運動は、地球の外から見れば、直線運動と円運動から合成されている」と主張しているが、タルターリアはそれより早く、物体(弾丸)の運動が、投射方向の直線運動と鉛直方向への落下運動の合成であることを語っている。100年後にガリレオは、放物体の運動を、水平方向の等速度運動と鉛直方向の等加速度運動の合成と捉えて最終的に解明するが、その一歩はタルターリアが記したと言える。
タルターリアは、1532年に同一重量の砲弾を同量の火薬を用いて、砲身の仰角を45度と30度にして発射させ、11832フィートと11232フィートの飛距離を測定し、この実験により己の理論的予測を検証している。
実際、彼の弾道学は専門の砲術家たちの経験に合致したのであり、その軌道理論は、カヴァリエリとガリレオによって理論的に正しい(しかし実際には使い難い)軌道の放物理論が提唱されてのちも長い間、兵術書に残されていた。
アリストテレス以来、地上物体の運動理論はいくつもあった。中世のオクスフォードやパリ大学の学者の数学的な運動理論は、すべて思弁的なエクササイズであり、彼らは実験も測定もしていない。それに対してタルターリアの『新科学』ではじめて、数学的でありながら実験的に検証され、しかも実用に供されるべき理論として、運動の理論が語られたのである。現実にもタルターリアは砲身の仰角を直接読み取ることのできる仰角計を考案し、砲手たちは火薬量を量り、角度ごとに距離を測定し、それによって理論的予測を確かめていた。数学的でかつ実験的な科学としての力学のはじまりである。
火器が主力兵器になると、火器や弾丸に厳密な互換性が求められ、正確な計測と精密な工作の必要が生じる。また、自前の武器を備えた戦士の集団としての中世の軍隊と異なり、大規模に組織化された近代の軍隊では、装備の規格化は不可避であった。
計測の精神は、人体美の理想を求めたアルベルティやデューラーに始まるが、それ以上に機械技術、軍事技術から要請されていたのである。

2.落体の運動とアリストテレス批判
ベネデッティ(1530-90)は、ヴェネチアの裕福な家庭に生まれ、自宅でスペイン人の父から基本的な教育を受け、終生大学とは無縁であった。
彼は、重い物体ほど早く落下するというアリストテレス以来の通説を退けただけでなく、媒質(空気)による影響が小さくて無視しうる限りで同一密度の物体はその重量によらず全て同じ速度で落下すると主張したことによって、落体理論の歴史において重要な位置を占めている。このベネデッティの運動理論に大きな影響を受けたのが、初期のガリレオである。
このベネデッティの理論が、ベルギー南部に生れたタズニエ(1509頃-62)によって剽窃され、『航海に関する重要で有益な書物』という表題で英訳された磁石と航海術に書物によって、ネーデルラントとイングランドに広まった。その一人がオランダの技術者シモン・ステヴィンであり、ステヴィンが、アリストテレスの落体理論をはじめて実験でもって否定することになる。
ステヴィンが1580年代前半にいくつかの数学書を出版したが、その後、1586年に力学の三部作『重量技術の原理』『重量技術の応用』『液体重量の原理』を刊行する。
ガリレオがピサの斜塔で行ったと伝えられる実験より3年は早く、ステヴィンは同じ実験をして、アリストテレスの運動論を批判している。
媒質の抵抗の影響がなければ物体は(少なくとも同質の物体である限り)重量の大小によらず同一速度で落下することを論証したベネデッティの「思考実験」も、ガリレオに先行して16世紀にはすでに成されていた。
17世紀科学革命は16世紀にその助走が始まり、土台の建設が進められていたのである。

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「ガリレオが実験をしたと言われるピサの斜塔」
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3.偽アリストテレスの『機械学の諸問題』
中世では、機械の製作や使用はギルドの内部で伝承された職人技であって、光学や音楽のような理論的な学とは考えられていなかった。他方で、運動や変化は基本的に自然哲学の対象であり、さらにそれとは別に梃子や斜面を数学的に論じる「重さの科学」が存在していた。これらを統合して一個の学として「機械学」をはじめて語ったのがタルターリアの『さまざまな問題と発見』(1546年)である。この書は16世紀機械学の発端であるが、それはアリストテレスの偽書『機械学』(現在は紀元前3世紀のアリストテレス主義者ストラトンの作だという説が有力だが、16世紀にはアリストテレスの真筆と見なされていた)と、13世紀のパリのヨルダヌス・ネモラリウスによる「重さの科学」に大きく負っていた。
本来、物事の本質と原因を問うアリストテレス自然学は質の科学すなわち定性的であり、非数学的であった。プラトン以来、厳密な数学的認識はイデアの世界にのみ適用可能で、可感的物質の世界のものではないと考えられていたのである。しかし、この偽アリストテレス書で論じられている「機械学」は方法において数学的であることを主張し、その点において従来の自然学を超え、同時に可感的事物を対象とするゆえに、それまでの数学とも異なっている。それは「中間的科学」として自然学と数学に下属させられたのである。その意味において16世紀機械学はその後の数理物理学の前身であった。
この偽書『機械学』には、機械の原理は全て梃子の理論によって説明されるべきものとされている。従って問題は「小さな力が梃子によって大きな重さを動かすのはなぜか」を説明することに帰着する。そこでは梃子の原理は「円運動の不思議」にその根拠が求められており、この『機械学』に発する16世紀の機械学は、数学的自然学という点において近代静力学の前身と見ることはできるにせよ、近代力学と決定的に異なっている。
そこで「機械」と呼ばれているものは、小さい重量で大きい重量を釣り合わせる、ないし小さい力で大きい重量を持ち上げる装置、具体的には、梃子、滑車、楔であり、「機械学」とはその数学的理論を指す。現代ではそれは「静力学」と呼ばれるものであるが、しかしその現象が「自然に反する」と思念されている。16世紀の機械学は、第一に自然学的であるよりは数学的であり、第二に自然に反する現象を考察するものであり、この二点で自然学と区別されていたのである。
他方で、ガリレオ・デカルト・ニュートンに代表される17世紀の近代力学は、自然の中にある秩序、すなわち運動と静止についての自然法則を確立しようとするものである。その限りで、機械によって生じる「自然に反する」現象をその固有の考察対象と見ていた偽アリストテレス『機械学』の理論は近代的な意味での力学ではない。

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4.16世紀機械学のはじまりと斜面の問題
タルターリアが依拠したのは、偽アリストテレス『機械学』だけでなく、数学的で理論的な中世の「重さの科学」である。「重さの科学」は、13世紀パリ大学学芸学部のヨルダヌス・ネモラリウスを中心として13~14世紀に形成された。中世を軽視する人文主義者たちは目を向けなかったが、レオナルド・ダ・ヴィンチやカルダーノがその影響を受けていたことは知られている。
この「重さの科学」ではじめて「斜面の問題」が論じられ、斜面上に置かれた重量物体にかかる有効重量の正しい評価が与えられた。現代から見ると斜面も梃子も統一的に理解できるが、歴史的には斜面の原理の認識は梃子の原理とは全く独立に発展した。つまりそれは中世の「重さの科学」から始まったのである。現代的に表現すれば、斜面にある物体にかかる斜面に沿った力は重力の斜面に平行な成分であるということを意味している。
ともあれ、斜面上の物体の有効重量に関するこの重要な定理は「傾いた平面上である重さを釣り合わせるために必要な力を求める問題に対する最初の正しい解」である。
これを最初にとりあげたのはタルターリアの『さまざまな問題と発見』であったが、それは結論的には正しいが、いかなる原理に基づいて導かれたのかが明確でない。
この点を解決して、斜面上の物体の有効重量について物理学的にほぼ満足のゆく理論を作ったのが、シモン・ステヴィンであり、その後のガリレオ・ガリレイであった。

力学は近代物理学の基礎部分であり、熱力学(分子の熱運動)も電磁気学(電子の運動)も量子力学も力学の応用である。
そして、その力学を生み出したのは、重火器の発達という軍事的要請から生れた弾道学・機械学だったのである。
これまで、市場の生産効率を上げる為に科学技術が発達し、市場の拡大競争が生み出した侵略戦争→軍備強化への期待圧力が、その科学技術を更に大きく発展させていったと考えてきたが、どうやら近代物理学はその始まりから軍事的要請によって登場したと考えた方がよいだろう。
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List    投稿者 staff | 2012-01-01 | Posted in 13.認識論・科学論1 Comment » 

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