2012年04月10日

江戸時代の思想9 京都町衆の中から生まれた伊藤仁斎の思想(朱子学を全否定して現実の人間関係の充足を観念化)

前回までの記事で、イエという経営体(共同体)を母体にして、庶民までもが社会統合観念を追求した江戸時代の特徴と、その中から仏教に見切りをつけ朱子学に可能性を求めた山崎闇斎を紹介しました。
今回は、上方の上流商人に生まれ、朱子学の研究から入った伊藤仁斎の思想について扱います。彼は何故、朱子学を学ぼうとしたのだろうか?またその背景は?
伊藤仁斎は、束アジアの思想世界に吃立していた朱子学を批判して、独創的な思想体系を築いた儒者として有名で、同時代の中国や朝鮮にもその文名は知られていたらしい。
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 伊藤仁斎 堀川門人による肖像
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■仁斎の生きた時代の朱子学の状況と、仁斎
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)より

●朱子学の構造
江戸期の儒教において、古典は、朱子の注解を手掛かりとして読むべきものであった。なぜなら、古典の正しい意味を、老荘や仏教が思想世界を支配していた長い断絶の時代の後に初めて明らかにしたのが、北宋の先人たちの業絞を継いでそれらを集大成した朱子(南宋の人。1130~1200年)だとされたからである。『大学章句』『中庸章句』『論語集註』『孟子集註』という朱子の手になる注釈(『四書集註』)は、こうして古典の読み方を指示するものであった。江戸の儒者たちは、堅牢な『四番集註』の漢文をなんとか深く理解しようと努力を重ねたのである。
●仁斎と古典
伊藤仁斎(1627年~1705年)は、京都の上層町人の子に生まれた。
仁斎は、はじめ熱心な朱子学の徒であった。二十歳代には、「明鏡止水」と言われるような「未発」(「未発の中」という。特定の対象に向けて感情として発動する以前の、心の静的な相は完全円満なものとされ、ここに立ち戻ることを朱子学では力説する。)を真剣に求めるあまり、精神的に極度に追い詰められ、あらゆる事物の現実感を喪失して、1人の友人を残して、他の全ての周囲との交わりを絶つという状態が続いた。
心のありよう、この苦悶から脱するのは、ようやく三十六歳になる頃だったとされる。仁斎は京都の町中に塾を開き、同志会という名の研究会を主宰する。同志会では、古典の一節をあらかじめ定め、担当者がその解釈を提示し、参加者が討論するというゼミナール形式で互いに学び合った。同志会の名が示すように、教師が一方的に教えるということではない。その研鑽の中で仁斎は、朱子の与えた枠組みでは、孔子や孟子の言葉が生きてこないという思いを強め、朱子による古典の理解が誤りであることを主張していく。孔子や孟子が説いているのは、朱子が再構成してみせたような思弁的・抽象的な体系ではなく、より平易で卑近な、日常生活に即した教えであると仁斎は考えた。
『給語』や『孟子』を、朱子の枠組みから離れて、その本文に即して理解する。ここから仁斎の営々とした努力が始まる。そうして明らかにされた『論語』や『孟子』の意味は、仁斎によって『論語古義』『孟子古義』という注釈番としてまとめられた
ともあれ、東アジアの思想世界(科挙社会であれば、それは秩序そのもの)を支えていた朱子の『論語』『孟子』解釈を逐条、しかも根本から批判した作品が、中国や朝鮮に先んじて初めて現れた。
それが京都の上層町人社会の中から生まれたのは、中世後期から近世初頭の公家・上層町人・文化人たちが築いた伝統、かつての町衆の担った都市の力が見えないところで与ってのことと思われる。

☆この文章から注目される点は、
・仁斎は若い時に朱子学の崇高な理想を求め、その結果引き籠もりに近い状態に陥ったこと。
・その後仲間との研鑽の中から、抽象的な朱子学ではダメで、より日常生活に近い、平易な言葉で語る孔子や孟子の教えに近づいていったこと。
・それらの背景に、京都という都市の町衆の伝統があったと考えられること。

●京都町衆の自治組織
応仁の乱以後、政治権力同士の相次ぐ戦乱から、防衛するために京都では町衆が集まり、町組という自治組織が形成された。江戸時代になると、安定秩序が実現されたと同時に戦争の根源であった政治権力(徳川家と大名)は江戸に行ってしまう。
天皇家や公家は居ても居なくても同じで、京都所司代は江戸から派遣されるが、全て管理できるわけもない。京都の町の統合課題の多くは、町衆とその組織である町組に委ねられた。
(参照:「京都町衆」)
次の著書を見ると京都の町衆がどれだけの自主管理能力を持っていたかが分かる。
『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子著 文芸春秋刊) より

商人階級は、幕府が彼らを重要視しなかったことによって、農民よりもさらに徹底した自主独立を享受することができた。大名がやってきて、税を要求することなどなかった。
京都、大阪、長崎、堺、新潟などの直轄領では、幕府が行政官を派遣していただけで、事実上商人たちによって自主的に運営されていた。行政官の主な任務は、これらの都市が幕府の法律を遵守しているか、不穏分子による反政府的な動きがないかを監視することに過ぎなかった。
(中略)
京都の商人と手工業者は、町ごとに町内会のような自治組織を設置し、約4千人の世話役(行政官)を選出した。彼らは、京都ほどの大きさの都市には必ず生じる様々な任務を遂行した。大きな神社仏閣も、この自治組織に参与する権利を持っていた。町は、消防隊を運営し、警察も維持した。様々な重要な係があった。例えば、戸籍簿を作成する戸籍係とか、公正証書や遺言の執行に関する問題を処理する登記係、道路や橋の建設、修理などを担当する土木係などである。

江戸時代京都の町衆は、各々イエという経営体(単一集団)の元に商売しているだけではなく、京都という数十万人を擁する巨大都市を実質的に自主管理し運営していた。恐らく各自一方で仕事をやりながら、これらの役割を皆で分担していたのだ。
これは交代担当制(半専任)による統合組織という点からも注目される点である。
(参照:実現論序 「統合機関を交代担当制にする」
さらに、その町衆の指導者は上層商人であり、伊藤仁斎も町衆の長男である。ところが、京都町衆の自治組織は、村落共同体のような夜這い婚で結ばれた本源集団(本物の共同体)ではない。かつ京という大都市、共認機能によって統合できる顔の見える範囲を超えた社会である。 
従って、町衆による自治組織を統合する観念(思想)が必要になる。おそらく、伊藤仁斎が最初、学問(朱子学)を志したのは、町衆自治を統合するための思想を形成するという課題意識だったのではないか。同じサークルの仲間たちもそのような、問題意識を孕んだ仲間たちだったのではないか? 
伊藤仁斎は、当初は朱子学を学んだものの、その現実からの断絶に気づき、朱子学を全否定する。そして、彼が答えを求めたのは、未だ中国において部族連合(部族共同体)が残存していた孔子が提起した関係規範である。だから、仁斎は朱子学を否定し「孔子に立ち戻る」ことを提起したのである。
●朱子学の全否定
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)より

●朱子学を全否定
朱子の古典学の核は『四番集註』であり、その揺るぎない体系が凍アジアの思想世界を主導したが、仁斎による「古義」の発見は、その全批判である。まず『大学』は、朱子によれは「初学人徳の門」(聖賢の道を学ぼうとする老が、まず学問のスケールを捉えるべき書)であって、そこでは「明明徳」(明徳を明らかにする。天から万人=自己の心の中に賦与された霊妙な徳を自覚すること)、「新民」(民を新たにする。明らかにしえた明徳を周囲に及ぼして人々の自己革新を促すこと)、「止至善」(至善に止まる。明明徳・新民の実践をやり通すこと)が「三綱領」として掲げられる。
 聖賢の道を学ぶとはどういうことなのか、それが『大学』の学習によって了解されるが、そこでは、功利的な学習は当然のこととして否定されるし、知識の獲得が自己目的であってはならず、周囲への働きかけのない修養も自己中心的なものとして否定される。さらに、あるべき学問の階梯が「八条目」として定式化される。
まず「格物」(具体的な事物の理を一つひとつ探求する)、そして「致知」(知識を蓄積する)、さらに「誠意」(心の発動を純粋にする)、「正心」(心のすべての働きを正しく保つ)、「修身」(振る舞いを正す)、「斉家」(家族・宗族を徳化して家を整える)、「治国」(徳化を国中に広める)、「平天下」(徳化を全人類に及ぼす)へと進んでいく。これが、士(士大夫)の学ぶべき学問の全体像である。若い仁斎が学問に志したのは、この高邁な理想主義に感動したからだった。
 しかし今や仁斎は、これを全否定する。そもそも孔子や孟子の言葉のどこに、このような「明徳」や「格物」の語があるというのか。整然として隙がないかに見えるこのような遠大な議論が、どこにあるというのか。さらに、朱子によれば「道学」の表徴を嘆いた子思(孔子の孫)が「孔門伝授の心法」(『中庸章句』冒頭に掲げられた程伊川の言葉)を明らかにした書物だとされる『中庸』について、仁斎は後代の文献からの混入があるとして、それらの部分を取り除くことを主張した。混入を嗅ぎ分けられるのは、孔子から孟子への「血脈」を理解しえたからだ、仁斎はあえてこう言うであろう。具体的に見れは、『中庸』が説く心の静的な本体(「未発の中」)についての議論が、孔子や孟子にはないこと、孔子や孟子は、むしろ生き生きとした心の働きをこそ説いているではないか。また、鬼神(神霊)の徳を仰ぐような議論も同じであって、孔子は鬼神を「敬して遠ざく」(『論語』)としたはずだし、『孟子』には鬼神への言及さえないと仁斎は述べている。

●朱子学を全否定して、求めたもの、人々の道徳の中心は何か?
仁斎は、朱子学の言うところの高遠なる天とは切断された、この世の「人の道」を専ら追求する。それは、具体的な人間関係のあり方、「人とのつきあい方」であった。身近な親子・君臣・夫婦などとして互いに接する際の役割に応じた行為の仕方として、実在しているものだった。
仁斎がたどり着いたことは、現実の人間関係が原点であり、それを大事にすること。そのために彼が説いたのは「仁」である。それは価値観念ではあるが、肯定視や相手発、充足基調といった概念に近いものだったのではないだろうか。
その中心は、「仁」。
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東京大学出版会)より

「仁」:道徳の中心は、無論、「仁斎」の「仁」である。それは、朱子学にいう「愛の理」などではない。問題は「理」を窮め、「理」に拠って生きることなどではない。「理」で割り切ろうとすれば、人を責めるようになり、残酷になりがちである。しかも理屈では、人も心服しない。理屈でいい込められても、人は心から納得しない。
丁寧に愛想よく、人に配慮する、それが「仁」の態度である。つまり思いやりである。相手の事情を思いやって、優しくしてあげればいいのである。結局仁斎学における人の理想像は、「誠実で思いやりがあって優しい人」である。

このように仁斎は、抽象的な正義や真理を振りかざして、人に強いることを否定し、身近な人々との間の暖かな、慈愛・充足に満ちた人間関係の中で生きること、人々が何よりそのような関係を願っているということに気がついたのではないだろうか?それは、高邁にして深遠なる理念・理想を求めて、それと違う生き方を憎み、引きこもりにまでなった仁斎ならではの気づきだった。一人一人が正義や道義という理屈をふりまわすから世界がおかしな状態になるということをも言っているのだ。
このように最後に仁斎がたどり着いたのは、まことに当たり前というか平易な人間関係を表した言葉だった。理想や理屈ではダメ(理想や理屈の背後には、常に自己正当化/私利私欲を正当化する動機が潜む)で、相手発で期待に応え、充足できるという、当たり前だけどすごく重要な言葉だったのである。
このような穏やかだけど明確な言葉が現れてくる背景としては、京都という日本で最も早く市場化し、そこで商売している町衆の間で、商売上の競争関係や利害対立もあり、なかなか協同していくことが困難な状況があったのではないだろうか?
村落共同体のような顔の見える共同体よりも、数段規模の大きい自治組織を統合するためには、明確に言葉化(観念化)する必要があったということだろう。そしてその観念は、京都という大市場の中から現れたにもかかわらず、非常に日本的な相手への思いやりに満ちた観念であり、共同体的な規範であるということは注目される。
また、京都の代表的な顔として祇園祭りがあげられる。京都の各町内で山車を回していくその祭りも、京都に一体感をもたらす上で非常に効果があると思われる。このような祭りも、同様な背景から生まれてきたと考えられます。
伊藤仁斎の思想は一見、平凡な極当たり前のことのように見える。
しかし、朱子学を全否定した伊藤仁斎が行き着いたのは、現実の人間関係の充足こそが共認統合の原点であるという認識である。
私権時代においては人間関係とは厄介な煩わしいものであったが、本来、人間関係は充足の素である。そして、この充足関係こそが集団統合⇒社会統合の基盤である。

これが伊藤仁斎の思想の中心部分ではないだろうか。
「共認充足が最大の活力源。’10年代はそれだけで勝てる」
さらに仁斎は、政治社会に対して、どのような考え方をもっていたのであろうか?
●王道
「王道」の追究。統治者はいかにあるべきか?についても、仁斎は論じている。
 
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東京大学出版会)より

仁斎は政治をも論ずる。繰り返し「王道」論こそが、学問のかなめであると主張し、実際に「王道」、すなわち統治者はいかにあるべきかを論ずる。その基本は、統治者は「民の父母」だということである。自ら修身の模範となることではなく、巧みな制度を敷くことでもない。己が「智」をふるうことでもない。ただ優しい親になることである。
親子は、互いを思いやり、「上下一体」、「君民一体」となる。逆に、民の心を心とすることができなければ、統治者の資格はない。
いやしくも人の君となりて、民と楽しみをともにせざれば、天の責任に違ひて、みづからその職を廃するなり。あに得て能くその位を保たんや。
具体的には、例えば、政府の費用の節約と、その余剰の弱者への給付が望ましい。また刑罰は軽くすべきである。武威で縮みあがらせるのではなく、罰より賞に重きを置くべきである。それが、民の望むところだからである。
以上の「王道」論は、ありふれた儒学的民本主義論とは異なる。さらに進んだ、民の意向に従った統治をせよとの主張である。
そして、人心から離れ、天下の人々の心にしたがわない暴君があらわれたとき、その放伐を仁斎は断乎として肯定する。仁政を行わない、民と心をひとつにしない暴君は追放してしまってかまわないのである。

これは、江戸時代の幕府という武装勢力が支配していた時代にとってはかなり過激な思想でもある。仁斎はあくまで、民の期待に応えることが王道の第一であることを述べている。・・・ここから後の倒幕思想へもつながっていく。しかし仁斎にすれば、身近な人への「思いやり」から延長すれば、ごく当たり前な王道のあり方だったのではないだろうか。
●まとめ
このように、伊藤仁斎とその思想を生んだ背景として、京都の町衆と自治組織の存在が考えられる。
簡単にまとめ、図解化すると、
町衆の自治組織と数十万人の町衆を統合する必要性
 ⇒統合観念の必要性
  →各々バラバラ、自分勝手、利害優先じゃ統合できない
   ⇒相手発で充足基調の思想の必要
    →伊藤仁斎の「仁=思いやり」「王道」の思想が登場。

このように、思想・観念にはそれを生み出す時代背景がありました。振り返って現代を見ると、貧困が消滅し時代状況が大きく変わった現代、そしてなかなか統合されているとは言いがたい状況の現代、今ほど新たな観念が求められている時代はないと思います。
次回は、仁斎とほぼ同時代の荻生徂徠を紹介します。

List    投稿者 ihiro | 2012-04-10 | Posted in 13.認識論・科学論5 Comments » 

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コメント5件

 unimaro | 2013.04.09 8:22

危機を事前に知らされても「全く対処しない」ことは、原発もTPPもモンサントも何もかも一緒。きっと性根の問題なのでしょう。
東電福島事故は人為的重大過失によるものと判明
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-01-13/2013011301_04_1.html
>質問主意書は、地震による送電鉄塔の倒壊などで外部電源が失われたさいに、内部電源=ディーゼル発電機やバッテリーなどの非常用電源も働かなくなった場合には「機器冷却系は動かないことになる」と警告
>「地震、津波等の自然災害への対策を含めて原子炉の安全性については…(中略)…経済産業省が審査し、その審査の妥当性について原子力安全委員会が確認しているものであり、御指摘のような事態が生じないように安全の確保に万全を期している」
>これは、日本共産党の吉井英勝衆院議員(当時)の質問主意書(2006年12月13日提出)に対する第1次安倍晋三内閣による答弁書(同月22日付)の一節です。津波や地震によって原発の炉心冷却機能が失われ、メルトダウン(炉心溶融)をもたらす危険性を警告した吉井氏に、答弁書はことごとく「安全神話」にもとづいて回答したのです。
↑、
全くこの吉井氏の警告どおりの事故によって、関東甲信越以北が「人が住む世界で最も危険な放射能汚染地帯」になった。
これは、東電と他関係者全員の個人、および、自治体、国、業界、の責任に帰すべきこと。
これを世界に発表し、責任を「国外から追求」させるべきことを行わねば、うやむやにされる。

 黒酢 | 2013.04.09 13:03

国連加盟も完全に憲法違反ですね。
国連は各国の集団的自衛権により成り立っています。日本では憲法は集団的自衛権を認めていませんので、憲法違反です。脱退すべきですね。

 通りがけ | 2013.04.10 12:47

日米地位協定が最大の憲法違反だから国会で81票で破棄可決するか国民投票過半数で破棄可決することがまず最初にすべきことですな。

 ebay mbt women shoes | 2014.02.22 9:05

mbt sneakers sale 日本を守るのに右も左もない | TPPの正体6:TPPは完全に憲法違反

 idnetuk Charms | 2014.03.12 14:01

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