2012年01月12日

近代科学の成立過程14 ~国家ぐるみの海賊行為のために天文学・地理学は発展した

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 前回(近代科学の成立過程13~自然を機械に過ぎないと看做す機械論的自然観によって自然支配が正当化された
)に引き続き今回は山本義隆氏の『十六世紀文化革命』から「第七章天文学・地理学と研究の組織化」を要約投稿します。
 15世紀になると、西欧の天文学・地理学はアフリカ西岸探検航海と共に大きく発展していきます。「地理上の発見」、「大発見時代」と西欧の視点では言われていますが、発見される土地にはすでに原住民がいて、そちらの立場からは植民地主義的な略奪の始まりとも言えそうです。
 
 まずは、天文学・地理学がどのように発展していったか、その歴史から入っていきたいと思います。
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山本義隆氏著『十六世紀文化革命』「第七章天文学・地理学と研究の組織化」より要約

第七章天文学・地理学と研究の組織化
1.プトレマイオスの再発見

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 ヨーロッパの天文学と地理学は15世紀に復活をとげる。その契機、すなわち近代的な数理天文学と数理地理学形成の端緒は、ひとつには古代科学の最高到達地点である紀元2世紀のプトレマイオスの著作の再発見に求められる。いまひとつは、ポルトガルの国家事業としてのアフリカ西岸探検航海にある。その二つは測地学や航海術への応用にもかかわることで、ともに理論的研究と経験的観測の統合を要求し、ひいては新しい学問そのものを作り出すことになる。
 このプトレマイオスの世界地図は中世の空想的で象徴的な世界図とはまったく異なっていた。円のなかにT宇で分けたアジアとアフリカとヨーロッパを描いた中世の幼稚な世界図には、そもそもが地図としての最小限のリアリティすら感じられない。
 それらにたいしてプトレマイオスの学的な地図は、地球のその当時知られていた部分の全体を対象とし、扱っている領域の広さや実在の地名の多さとその位置の~今から見れば多くの誤りを含むとはいえ~相対的な正確さにおいて、他を圧倒している。それだけではなく、緯度と経度という二つの座標による記述と球面を平面に投影する技法を理論的に考察している点においても、中世のものとは雲泥の差があった。
 15世紀初頭におけるその再発見が「コロンブスの新世界の発見よりも激しく人間精神を捉えた」という19世紀の地図学者の見解は、かならずしも誇張ではない。
 こうして、古代プトレマイオスの地理学と天文学が、文献学的な研究対象としてではなく、新しい地理的発見や観測精度の向上によって手直しされ拡充されるべき生きた学問として復活をとげ、その後に形成される経験と観測にもとづく数学的自然学の原型を提供した。

2.ニュールンベルクのレギオモンタヌス
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 南ドイツの文化都市ニュールンベルクは15世紀末から16世紀にかけて、観測にもとづく近代天文学を発祥させ、コペルニクスとチコ・ブラーエによる天文学の革命、ひいては近代自然科学の登場の地である。
 その発端は、腕の立つ金工職人や機械職人の多いニュールンベルクをレギオモンタヌスが恒常的な天体観測の基地として選んだことにある。
 そこには大学教育のあるなしにかかわらず、アカデミズムの外にあって、数学や天文学の知識を有し、職人仕事に理解と関心を示すだけではなく、みずからも手仕事に携わる技術者がいた。そして彼らの活動、あるいは彼らと職人との協働が、まったく新しい研究のあり方とこれまでになかった学問を創り出してゆくことになる。
 ニュールンベルクは、14世紀末以降、外来の商人に都市内での自由な経済活動を保証し、16世紀にいたるまで「ヨーロッパ商業の中心地」の地位を保つことになる。そのうえ、この時代にニュールンベルクは金属加工技術においても最先端の位置にあった。
 こうしてレギオモンタヌスは、ニュールンベルクに観測機器の製作工房をともなった天文台の建設を計画し、さらには自分で科学書を出版するために印刷機まで設置した。
 しかし、1475年にレギオモンタヌスは不正確な天体暦を訂正するよう教皇に依頼されローマに向かい、翌76年、ローマで客死した。享年40歳、これから本格的に天文学の改革に乗り出そうという矢先であった。
 ニュールンベルクの精密機器製造職人ゲオルク・ハルトマンはレギオモンタヌスの遺稿のなかから「星の運動は地球の運動によってわずかに変動するにちがいない」という一節を見出し、これによりレギオモンタヌスが地球の運動という観念を受け入れ、その結果のひとつを認めていたものと判断している。実際、レギオモンタヌスが生き長らえていたならばコペルニクスに先んじて地動説を唱えたかもしれない。
 しかし、すぐ後に見るように、天文学の改革にむけてレギオモンタヌスが作り出したこのニュールンベルクの伝統が、やがてコペルニクスを世に押し出すことになる。
 ベルナルド・ウォルター(1430-1504)はもともとはニュールンベルクの裕福な商人であり、1471年以前にレギオモンタヌスが印刷機と観測機器を設置するさいに財政的に支援した。そしてレギオモンタヌスに弟子入りして天文学と天体観測手法を学び、1475年にレギオモンタヌスがローマに出発するまで共同研究者として天体観測を手伝っている。
 彼が天体観測にもたらした最大の改革は、長期にわたって系統的な観測を継続したことである。
 天文学の根本的な改革は、もちろんその後のコペルニクス、チコ・ブラーエそしてケプラーによって成しとげられ、科学史ではそのことばかりが語り継がれている。しかしその発端がニュールンベルクのレギオモンタヌスとウォルターによる厳密な数学的理論と精密で系統的な観測の結合にあったことを見落としてはならない。
 志なかばに倒れたレギオモンタヌスは、印刷所と製作工房を備えた観測施設を設立し、いまで言うビッグ・サイエンスの研究所に相当するものを宗教機関や大学と無関係に作りあげることを夢見でいた。
 そしてここに数学や天文学の理論に通じているだけではなく、自分の手で観測機器を設計し地図や天球図を製作する数理技能者という新しい知識人を生み出すことになる。
 ニュールンベルクには、16世紀になって、天文学と地理学の改革にむけて数多くの数理技能者が登場することになる。彼らは、数学や天文学の理論にも通じたうえで地図や天体観測機器の製作といった手作業に携わるマルチ・タレントな技術者であった。
 とくに航海術が天文学と深くかかわることになり、もともとは陸上での天体観測のために製作され、航海(とくに船上)での使用には適していなかった十字桿、四分儀、アストロラーベなどを航海用に作り直し、あるいは地上での測量に使用したのがニュールンベルクそしてネーデルラントの数理技能者たちであった。
 もともと金属細工に高い技術を有していたニュールンベルクで、レギオモンタヌスの播いた種が開花したと言えよう。かくして「ニュールンベルクはいかなる大学都市をも上回る真の学術センターであった」と評されるまでになった。

 ドイツのニュールンベルクという商業都市を中心に天文学・地理学は発展していきますが、当然天文学では、観測機器が必要となり、地理学においては地図を印刷するために印刷所が必要となってきます。
 そのためには、多くの費用がかかると思われ、その施設を完備するためにはパトロン(商人or金貸し)の存在が必要となってきます。
 当時の研究は、まだ国家(大学)で行われておらず、民間に頼っていた状態ですから、商業都市ニュールンベルクは商人(金貸し)と数理技能者とを結びつける場として最適だったのではないでしょうか。
 その関係は、冒頭で記したように国家事業となるアフリカ西岸探検航海とも大きく繋がって、商人(金貸し)~国家~数理技能者の関係はさらに密になっていきます。

3 インド航路開発プロジェクトafria-rout.jpg
 ヨーロッパにおいて天文学が航海術と地理学に深くかかわってくるようになったのも、この時代、すなわち未知の世界である大西洋にヨーロッパ人が乗り出し、遠洋航海が始まった15世紀である。
 テイラーによる航海術の歴史『港湾発見法』によると、中世の地中海の航海には天体観測との結びつきを示すものは見られないようである。実際、航海がもっぱら地中海やバルト海内部や、せいぜいがヨーロッパ西岸の大陸棚上に限られていたかぎり、目に見える島や山の配置や形状から船の位置を決める沿岸航法や航行距離と進行方向から船位を割り出す推測航法で十分間に合っていた。
 変化はポルトガルの「航海王子」ことエンリケ(1394-1460)がアフリカ西岸にそった大西洋の探検を決意したことから始まった。それはやがて富を求めてのインド航路の開発へと発展してゆく。
 ジョアン一世の三男エンリケは、1415年、21歳のときにイスラム教徒が支配しているアフリカ北岸の重要な貿易港セウタを攻略し、莫大な戦利品を獲得するとともに、捕虜たちからその鹵獲(ろかく)品に関連してアフリカ大陸の内部や沿岸について貴重な情報を得ることになる。
 以来、エンリケはアフリカ大陸探検の夢にとりつかれ、そのための情報の収集と調査や研究そして人材の養成と探検航海の組織化に生涯を捧げることになる。
 こうして、アフリカ大陸西岸にそって大西洋を南下するポルトガルの探検航海が1418年に始まった。計画的・組織的・継続的になされたはじめての探検である。
 それは当然、造船技術の向上はもとより、航海技術の革新をも迫るものであった。とりわけ当時「そこを越えたら二度と帰ってこられない」と言われていた「無の岬」を南に越える探検は、頼るべき経験の存在しない文字通り未知の世界への航海であり、経験に依拠したそれまでの沿岸航法から理論にもとづく天文航法へと転換を強いられることになった。なによりも船位―とくにこの場合は緯度―の決定が重要な問題であった。
 ところで緯度決定のもっとも単純な方法は天の極の高度を測定することである。こうして航海術が天体観測に直接かかわることになった。
 その後、エンリケ王子の時代にはディエゴ・ゴメスによる航海がやはり二回おこなわれ、北緯八度近くのシオラレオーネあたりまで到達していた。その実態が現地人にたいするすさまじい殺戮をともなっていたことは、ラス・カサスが記すとおりである。
 エンリケ王子からジョアンニ世に引き継がれた国家事業としてのアフリカ西岸探検・インド航路開発プロジェクトは、それまでに例を見ない新しい研究スタイルを生み出した。すなわち特定の目的を遂行するために、
第一に、天文学、数学、地理学に精通している学者や知識人を集めてシンクタンクが組織されたこと、
第二に、そこに商人や旅行者から得た関連情報を集中させたこと、
第三に、航海のための技術革新すなわち外洋航海のための船舶や航法が研究されたこと、そして
第四に、その目的実現のために、優れた船乗りを集め、ないし教育して船団を組織し、何次にもわたる探検航海が実際に計画的・組織的に進められたこと、である。
 これだけのことが国家権力の主導でおこなわれたのである。それは研究の目的にせよ、その進め方にせよ、中世の大学のものとはまったく異かっていた。
 そのポルトガルの探検航海の実態が圧倒的な軍事力にものを言わせた海賊行為であり、アフリカ西海岸やアラビア海での臆面もない暴力行為をともなっていたことは、今は問わない。
ともあれ、1492年にスペイン国王の後援でコロンブスが西インド諸島を発見し、1498年以前にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南端まわりでインドに到達して以降、新大陸そしてインドと東アジアをめざした航海が定常化された時点で、ポルトガルとスペイン両国にとって船員の養成と教育は緊急の課題になった。
 投機的な探検航海が一応の成功を見て、アジアとの交易が国家のビジネスとなってのちには、数学や理論天文学に不案内な船乗りたちを組織的に教育する必要が生じてきたのである。
 こうして16世紀には、俗語(ポルトガル語とスペイン語)による地理学書や航海便覧がつぎつぎに出版されることになった。
 羅針盤に頼っていた当時の航海では、目的地にむかって舵角(進行方向が子午線となす角)を一定に保って進む、いわゆる等角航法が主であった。このときの航路は、狭い領域でははぼ直線であるが、大域的には直線から外れてゆく。ヌーネスはそれが地球上では極にむかうスパイラルになることを見出し、それを「航程線」と名づけた。
 そして彼はこの航程線が広い範囲で厳密に直線になるように投影された地図が航海には有用なことを示唆した。このことはメルカトール図法の発見にいたる端緒を与えるものである(目的地と最短距離で結び地球上では直線となる大圏航路は、舵角を連続的に変化させる必要があり、当時の航海では重視されていなかった)。
 ポルトガルにおけるこの時代の航海への関心のたかまりは、もちろん商業の発展にうながされたものであり、実用数学としての算術書の出現をもたらすことになった。
 ポルトガルの最初の算術書はガスパール・ニコラスが編纂したポルトガル語の『実用算術論』で、このニコラスの書には「私がこの算術書を印刷するのは、それがインドやペルシャやアラビアやエチオピアその他のわれわれによって見出された土地とのポルトガルの交易に必要な事柄だからである」と記されている。
 そして本書は、実際にその目的にそって書かれたインド・アラビア数字をもちいた算術書である。幾何学にも触れられているが、それは主として測量術である。
 地理学や航海術や数学の書物の多くがこのように俗語で書かれたことは、それらがもっぱらアカデミズムの外部で学ばれていたことを示している。かくして16世紀にポルトガルひいてはスペインにおいて、それまでのスコラ学とまったく異なる地理学や航海術や数学の発展をみることになった。

 山本義隆氏は探検航海における「海賊行為」や「臆面もない暴力行為」を、「今は問わない」としているが、実際は探検航海に伴って、たまにそのような海賊・暴力行為が行われていたのではなく、航海そのものの目的が略奪であったようです。
以下にその様子を詳しく書いてある記事がありましたので紹介します。

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Homo Sapiens[知恵のある人]同士の殺戮より
【AC1402】黒人奴隷貿易の始まり
ポルトガルのエンリケ王子がアフリカ沿岸より原住民多数を捕らえて奴隷とする
【1442-18??】黒人奴隷の売買を始める(延べ2000万人)
(2)地球を2分割し支配しようとしたスペイン・ポルトガルより抜粋引用
(1) この新航路発見を機にスペイン・ポルトガルは争って通商・植民地活動に乗り出し、両国の間で発見した土地・島の帰属を巡っての紛争が続出しはじめた。
 1493年、新大陸の発見の翌年、早くもこれを調停しようとローマ教皇アレクサンダー6世が、教書を出し両者の進出領域を決めようとした。
 しかし、ポルトガルの不服により、翌年、スペイン・ポルトガルとの間で改めて会議がもたれ「トルデシリャス条約」(地図1参照)が締結された。
 これによれば、ヴェルデ岬島の西方370レグワの地点を南北に縦断する子午線(ほぼ現在の西経45度線)を、両者の進出範囲をわかつ分界線とし、この分界線の西方全域をスペインの進出範囲、その東方全域をポルトガル進出範囲とした、後に1506年、この条約の分界点は教皇ユリウス2世によって承認され、まさにキリスト教権威のお墨付きとなった。
(2) 両者の植民地獲得の勢いは、これにより一層、拍車がかけられた。
スペインは、まずコロンブスが最初に上陸したサンサルバドル島、キューバ、ジャマイカなど西インド諸島(メキシコ湾東方のカリブ海域の群島)を、我が物顔で次々と支配し、1521年にはメキシコのアズテク(アステカ)帝国を撃滅、1533年にはペルーのインカ帝国を撃滅していった。
 その間スペイン人は原住民を大量虐殺し、生き残った者もことごとく奴隷として酷使した。
 またスペイン本土よりの粗末な品物と原住民の銀とを交換して大量の銀を本国に持ち帰った。

(3) 一方、ポルトガルは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域を中心に、武力を背景として貿易を強行し、インド洋周辺にアラビア勢力を打破してインド洋の制海権を獲得していった。
 そしてアフリカの西海岸地域のギニアやアンゴラでは黒人奴隷貿易を行った。
 ポルトガル人は、スペイン人と同様に南米のブラジル地域の原住民を大量虐殺し、このために中南米の原住民人口は激減し、その労働力は底を着いてしまった。
 そこでポルトガルは、この深刻な労働力不足を補うべく、黒人奴隷貿易でアフリカから中南米に向けて多くの黒人を送り込んだのである。

 上記のように、国家事業として行われた航路開発は、西欧からは「地理上の発見」、「大発見時代」などと言われていましたが、それは真っ赤な嘘であり、圧倒的な軍事力にものを言わせた「大虐殺」「略奪支配」時代の幕開けと言っても良いでしょう。
 天文学・地理学の発展は表向き民間の数理技能者によってなされたように見えますが、その背後には、国家権力による略奪支配とその後の貿易(一方的な搾取と奴隷貿易)によって莫大な富を得た商人が存在し、国家や金貸しが、新たな私権獲得のために数理技能者たちを徐々に囲い込んでいったと思われます。

 

List    投稿者 ginyu | 2012-01-12 | Posted in 13.認識論・科学論2 Comments » 

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