2011年12月01日

近代科学の成立過程8~近代の教育制度は西洋の商人がつくった算数教室から始まった

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 前回(近代科学の成立過程7~鉱山業に始まる資本家-経営者-労働者という生産関係を母胎に近代科学・近代思想が登場した)に引き続き今回は山本義隆氏の『十六世紀文化革命』から「第五章 商業数学と十六世紀数学革命」を要約投稿します。
 西欧における数学の発展は、紀元前から数学発展の萌芽が見られるインドやイスラムよりもかなり遅く、10世紀前後から始まります。 
 
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山本義隆氏著『十六世紀文化革命』「第五章 商業数学と十六世紀数学革命」より要約

1.古代ギリシャから中世前期

 数学の発展は、16世紀から始まる。それは科学革命の本番に先行するものであり、16世紀の数学革命は科学革命の一種の前哨と見ることができる。
 16世紀以前(古代ギリシャ~中世前期)は、商人が学んでいた「計算術」と、キリスト教支配下の大学で教えられる「数論」と呼ばれるものに分かれていた。
後者の基本な立場は、個々の数がそれ自身で有する形而上学的な、ないしは神秘的な意味を問うものである。たとえば6は完全数(6=1×2×3=1+2+3)であって、しかも神が天地創造に要した日数として、それ自体で特別な価値や意味をもつとされる。同様に3は三位一体の数であり、10は十戒の数としての意味を与えられる。しかしそのような議論からは、近代的な算術が生まれることはない。というのも近代的な数学としての算術は、個々の数がそれぞれにもつ固有の意味や価値を問うことによってではなく、むしろ数が互いに取り結ぶ関係を考察することから始まるからである。
 変化はイスラム社会との接触からはじまった。
10世紀にイベリア半島のイスラム社会でアラビアの数学を学んだと言われるジェルベールは、それまでの扱いにくいラテン数字にかわってインド・アラビア数字を導入した。
 すでに商業社会として発展していた商業社会として発展していたイスラム世界においては商業数学が発展していた。数学は算数と幾何学と音楽と天文学より成り、算数の分科には算術、通産分割法、取引算術があって、イスラム社会における数学は実際的で実用的であった。
 一方、ヨーロッパではキリスト教が営利を目的とする商業を罪悪視していた影響もあり、大学も実用的なものを軽視し、金儲けや金勘定を目的とする学問を認めようとはしなかった。そのかぎりで、商業数学の色彩の濃いアラビア世界の数学がその時代にヨーロッパの大学に根付くことはなかった。
2.フィボナッチことピサのレオナルドshinbi3.jpg
 透徹した理解と明確な目的意識をもってアラビア世界の数学をヨーロッパに紹介したのは、中世数学史に屹立する13世紀のフィボナッチことピサのレオナルド(1170頃~1250以降)である。
 彼の数学開眼は彼の父が、息子を商人にする目的でその地のイスラムの教師のもとで学ばせたことに始まる。その後フィボナッチは商人としてエジプト、シリア、ギリシャ、シチリアを旅行し、知識を身につけていった。
 そしてフィボナッチは商業のかたわら、熱心に数学を学び、アラビア世界の数学に精通し、帰国後、1202年に全15章、459頁よりなる大著、当時の商業数学のエンサイクロペディアとして中世ヨーロッパに冠絶する『算数の書』を出版した。
 フィボナッチの書は時代を超えていた。クルト・フォーゲルが『科学者伝記事典』に書いた記事では「フィボナッチとともに西洋数学の新紀元が始まる」とあり、ファン・デア・ヴェルデンの学説史『代数学の歴史』ではその評価を「まったく正しい」と支持している。
 しかし、それは現代から顧みた判断であり、同時代人はそうは見ていなかった。とりわけ当時のアカデミズムの世界でのフィボナッチの評価は低く、大学ではほとんど無視されていた。
 当時の知識人のあいだでフィボナッチが無視された原因は、ひとつには大学での数学教育の水準が低すぎたこと、あるいはフィボナッチの書が「保守的な大学にはあまりにも新しすぎた」ことにもよる。
 それにくわえて中世からルネサンス期にかけての知識人の世界では、数学への関心がもっぱら新プラトン主義を背景にした哲学的な、というよりむしろ神秘的なものであったこともあるであろう。
アカデミズムの世界では実用数学・商業数学ははなから低く見られていた、いや、そもそも学的対象とは見られていなかったのである。

 当時(14世紀以前)のヨーロッパの数学は、キリスト教の影響もあってインドやアラビア世界に比較してかなり遅れてスタートします。
 特に大学では、実用的な数学を軽視しており、フィボナッチ等の先進的な数学に対して理解する事ができませんでした。
 しかし、一方で市場は急激に拡大しつつあり、商人たちは仕事を効率良く進めるために商業数学の必要性を強く感じていました。
 引き続き、山本義隆氏著『十六世紀文化革命』「第五章 商業数学と十六世紀数学革命」より要約です。

3.イタリアの算数教室と算数教師

 
 フィボナッチがヨーロッパに紹介したイスラム社会の計算術と代数学、とりわけインド・アラビア数字の使用と十進位取り表記にもとづく計算法が最初に受け入れられたのは、商人や職人の子弟のための学校が発展していた14~15世紀のイタリアの諸都市においてであった。
 北イタリアの都市国家は14・15世紀の西ヨーロッパにおいてもっとも強い経済力を有していた。高度な商業技術の発達は、商人が商品を携えて異国を旅してまわる遍歴商業から商人が都市に定住し為替手形をもちいて遠隔地の代理人に支払いを依頼する定住商業へと移行した、いわゆる「13世紀商業革命」がもたらした結果であった。
 それと同時に企業規模が拡大し、14世紀にはヨーロッパ各地に支店網を有する共同経営組織が広く作られるようになった。
 こうして文書による取り決めや取引が広がり、正確な情報伝達、記帳による商品と会計の厳格な管理、そして通貨の両替および利息や利益配分の込み入った計算が重要になるにつれて、商人にとって読み書きの能力と計算の技能は欠かせないものとなっていった。
 「商業革命によって生まれた定住商人は、ヨーロッパ社会において、社会的・政治的のみならず、知的にも新しいひとつの階級を形成した」のである。彼らが後継者としての子弟に必要な教育を望んだのは、自然な成りゆきであろう。
 しかし修道院や司教座の学校はすべて教会の影響下にあり、基本的には聖職者養成を目的としたもので、ラテン語とキリスト教思想が教育の中心であった。それにたいして都市の市民層は教会の息のかからない実学を重視する学校を求めるようになっていった。
 こうして14・15世紀のイタリアの諸都市では、7歳くらいで入学し10歳から13歳くらいまでアルファベットと俗語の読み書きそして初等的なラテン語を学ぶ「手習い教室」の上に、「文法学校」とならんで「算数教室」が設けられるようになった。※レオナルド・ダ・ヴィンチも「算数教室」で学んだ。
 結局のところ、西ヨーロッパにおけるインド・アラビア数字の普及をもたらし、算板にかわる手計算を改良し押し広め、ひいては、ヴェルナー・ゾンバルトが言うところの「資本主義の精神のひとつの重要な要素」をなす「計算能力」を植えつけたのは、14・15世紀の算数教室の教師たちによるこの商業数学の研鎖と教育の蓄積であった。そしてそのことが16世紀の代数学の発展-16世紀数学革命-をもたらすことになった。
4.商業数学から代数学へ
Possible_Self-Portrait_of_Leonardo_da_Vinci.jpg それらの算数書の内容は、四則演算(分数計算をふくむ加減乗除)と比例計算が主で、数多くの例題でもって説明されている。乗法や滅法は書物ごとにじつにさまざまなやり方が記され、その競合をとおして、やがて現在の初等教育で教えられているやり方が確立していったと考えられる。
 当時、教えられていた「算数」は理論ではなく「実技」としての計算術であり、算数書は技術書であった。したがってこれらの書物は、たんに算数教室の教科書としてだけではなく、商人が便覧として常時手元におき、実際に問題にぶつかるごとに参照していたものと思われる。
 そして重要なことは「ルネサンス期イタリアにおける代数学の学習は算数の伝統の不可欠の要素」であり「この時代をとおして算数の学習と代数学の研究は密接にかかわりあっていた」ことにある。したがって「16世紀に学問的な数学の一部となる代数学の発生は算数教室の初等的な教科書にまで遡及されるにちがいない」のである。実際、このような問題のなかに代数学すなわち方程式論が扱われている。
 実際、すでに「1328年にフィレンツェのパオロ・ゲラルディがイタリア語で著した算数の教科書『諸問題の書』に代数学(方程式論)が論じられている。
 かくして15世紀後半のインキュナブラ(活字印刷)の時代を迎える。それは200年にわたって蓄積されてきたイタリア商業数学が飛躍する土台を形成するものであった。
印刷された算数書は、
・1481年「商業実務の書」ジョルジョ・チアリーニ
・1484年「計算術の新しい著作」ピエトロ・ボルギ
・1491年「算数書」フィレッペ・カランドリ
・1492年「計算術概説」フランシスコ・ペロス
・1494年「算術大全」ルカ・パチョリ
 パチョリの『算術大全』こそは、フィボナッチ以来の300年近くのイタリア商業数学の発展を集大成し、16世紀イタリア代数学形成の礎となった書物であった。

 
 以上のように、ヨーロッパにおける数学の発展は、商人による商業数学から始まりました。それ故に数学の中でも代数学が突出して進化していて、「簿記」もヨーロッパ(イタリア)が発祥の地となっています。
 10世紀頃~15世紀までのヨーロッパの数学の歴史は以上に見られる通りですが、商人発の数学は、一方で庶民の学校制度を作り出します。。
 以下、学校(教育制度)に関わる箇所を同じく、山本義隆氏著『十六世紀文化革命』「第五章 商業数学と十六世紀数学革命」より要約抜粋します。

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 ヨーロッパにおける学校教育の復興は、8世紀末にブリタニアやヒスパニアをのぞく西ヨーロッパを統一したシャルルマーニュ(カール大帝)がアルクィンの協力で進めた改革に始まる。こうして9世紀以降、教会や修道院に付属学校が設置されてゆくが、しかしそこでの教育は宗教色の濃いものであった。アルクィンの教育では、賛美歌やラテン語が重視されていたが、算術は毎年変動する復活祭の日付を決めるための暦計算をのぞいて軽視されていた。
 12世紀から13世紀にかけて、ヨーロッパの諸都市で高等教育機関としてつぎつぎ創設された大学は、その時代の翻訳運動においてヨーロッパに流入してきた古代ギリシャやイスラムの哲学や科学を吸収し継承する機能を果たした。とくに再発見されたアリストテレス哲学は多くの大学人や学生の心を捉えることになった。しかしそれらの大学でアル・フワーリズミーの書やアラビアの数学が熱心に研究された形跡は見られない。
 シャルルマーニュ(カール大帝)の勅令以後、初等教育のための学校が修道院に設けられ、やがて高等教育機関として司教座聖堂付属学校、さらには大学の創設へと、西欧の教育制度は拡充していった。しかし修道院や司教座の学校はすべて教会の影響下にあり、基本的には聖職者養成を目的としたもので、ラテン語とキリスト教思想が教育の中心であった。それにたいして都市の市民層は教会の息のかからない実学を重視する学校を求めるようになっていった。
 そもそもが聖職者に求められる禁欲主義的規範は商人にはそぐわない。現実にも、北イタリアでは1300年頃までに教会が教育に果たす役割は大幅に後退してゆき、それにかわって都市自治政府(コムーネ)が教育に乗り出すことになった。その教育は読み書きとともに商業のための実用数学を重視するものであった。
 こうして14・15世紀のイタリアの諸都市では、7歳くらいで入学し10歳から13歳くらいまでアルファベットと俗語の読み書きそして初等的なラテン語を学ぶ「手習い教室」の上に、「文法学校」とならんで「算数教室」が設けられるようになった。
 文法学校は聖職者や医師や法律家をめざす少数者のためにラテン語を本格的に教育する機関であり、支配エリートや裕福な大商人の子弟が学んだ。通常そこでは商業数学としての計算術は教えられることはなかった。この文法学校を出た者のうちの何割かはさらに大学に進む、それに対して俗語で教育する算数教室は商人や職人の子弟が商業の基礎を学習するための学校であり、手習い教室を終えてのち2年間ほど学ぶところであった。商人や職人になるには、その後さらに何年かの徒弟奉公で実地に専門の知識を身につけることになっていた。
 算数教室の出現はまた、算数教師という新しい職業とそのための教科書(算数書)を生み出すことになった。すでに1265年にはボローニャで算数教師の存在が確認され、1277年にはベローナのコムーネ(自治都市政府)が算数教師を任命している。
 1300~1500年のフィレンチェでは、算数教師は中流下位に位置していた。同様に、16世紀のイタリアでは、大学の教師は大部分が大学教師、都市の商人、銀行家、法律家、医師の家庭の出自であるのにひきかえ、算数教室の教師が大部分が職人の子弟であった。社会的なカーストは歴然と存在し、算数教師は社会的に職人や自営小商人と同レベルにあった。エリートのための文法学校や大学のカリキュラムに商業数学が取り入れられることはなく、当時の大学の教師の多くはこれら算数教師の手になる俗語教科書を見下していた。しかし、商業数学は、算数教師の教育と彼らの作った教科書によって商人たちのあいだに着実に普及し定着していった。
 ドイツ諸都市においても、14世紀以降、商人の子弟のために俗語で教育する「習字学校」が形成され、ドイツ語の読み書きと初等算術が教えられていた。ハンザ同盟を中心に商業が大きく発展していた北海・バルト海沿岸地方だけではなく、鉱山業で栄えていた中央ヨーロッパの諸都市においても算術教育の必要性は高まり、15世紀末以降16世紀にかけて「算数教師」によっていくつもの俗語の算数書が書かれることになる。
 この時代の商業のいまひとつの中心地としてネーデルラントが挙げられる。その南部は、国際的な商業の中心地としてイタリアとならぶ繁栄を誇っていた。とりわけブリュッヘ(現ブリュージュ)は、13世紀以降、イングランドの羊毛、フランスおよびライン沿岸のワイン、北欧やロシアからもたらされる木材、小麦、毛皮の集散地として栄え、14世紀にはヨーロッパのもっとも重要な金融市場のひとつになっていた。
 しかし15世紀末にはブリュッヘの繁栄は終わりを告げ、商業の中心はアントウェルペンに移動する。アントウェルペンはイングランドの毛織物や東洋からの商品-インド航路を開いたポルトガルがもたらす香料-の大陸への入り口でもあれば、南ドイツの銀と銅の集散地でもあり、カール5世の統治下で北ヨーロッパ随一の国際貿易港にのし上がっていった。そしてネーデルタントでも、この時代、教会の息のかからない商人のための学校が作られていった。

 このように、中世では大学を頂点とする学校はキリスト教会の支配下にあったのが、近世になると教会に代わって金貸し(都市自治政府)が大学の支配に乗り出すようになり、また、商人・職人の要請によって教会の息のかからない学校が必要となり、中下級商人・職人の子弟向けの算数教室が誕生します。
都市の商人や職人にとっても、私権を拡大するためには数学の知識が不可欠になったことが、その背景にあります。
 こうして西欧の各地で都市部中下級層向けの学校がつくられていきましたが、その過程で金貸したちは、教会に代わる新しい教宣機関として学校に目をつけたのだと思われます。 
 支配階級の教育機関である大学が教会支配から金貸し支配に変わってゆくと共に、都市住民の教宣機関として学校が建てられていきます。
 
この両者を合体したのが近代の学校制度の起源ではないでしょうか。 
 そして、産業革命期に都市人口が急増すると、19世紀には義務教育が始まり(日本で言えば)小・中・高・大とヒエラルキー化されてゆきます。
このシステムは、金貸しにとってはその手先である学者・マスコミ・官僚等の特権階級の養成機関であると同時に大衆の教宣機関ですが、大衆にとっては学歴身分を獲得するための手段になってゆきます。
つまり、金貸しと大衆の双方の必要から近代の学校制度と上位の学校へ進むための選抜制度(試験制度)が成立したのではないでしょうか。
 この近代~現代の学校制度の原点は、特権階級の養成機関である大学が教会支配から金貸し支配に変わったことと、商業階級が建てた都市住民向けの算数教室です。
 大衆を対象とする近代の学校制度の原点は15~16世紀の算数教室にあったと言っても過言ではないでしょう。

List    投稿者 ginyu | 2011-12-01 | Posted in 13.認識論・科学論4 Comments » 

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コメント4件

 通りがけ | 2012.12.13 17:30

>この国の為政者たち(木綿さん)>>http://blog.goo.ne.jp/ikariyax/e/66730b9094276f20a13e496f78d05115
それは誰かと言えば
日本国内では宮内庁(省)を頂点とする霞が関官僚。
さらに霞ヶ関にこれこれどういう行政をしろと命じているのが戦後なんの大義名分もなく無法に日本を占領したGHQマッカーサー戦争の狂犬である地球のエタ非人「ユダ金死の商人」であり、戦後ずうっと日本国のほんとうの為政者はこの反道徳の下品下賤な地球のエタ非人【ユダ金しの商人】である。
こいつらがマッカーサー上陸以来反道徳東大話法(東大はアホウ、とも読む)奇形司法を使って日本国内を監視し検察警察を使役して起訴有罪率99%のいかさま無法治外法権だのみの奇形刑事司法で日本国内スパイ宮内省霞ヶ関の裏切りを私刑を加えることによって防ぎつつ、【慈悲道徳平和の日本常民】と【日本国平和憲法】を、地球のエタ非人「ユダ金死の商人」が【反道徳戦争無慈悲】と【日米地位協定】国家差別レイシズム治外法権で絶え間なく凌辱弾圧虐殺しつづけている。
来る平成天皇24年12月16日には日本国憲法に定めた10年に1度の最高裁判官国民審査がある。
この10年間でメディアで報道されたぶんだけでも最高裁の起こした冤罪事件は高知白バイ事故冤罪事件はじめ枚挙に暇が無いが、その国民に対するテロと言うべき冤罪の実行犯は警察である.。その警察はつねに法に従って逮捕しているという。
ということは警察はつねに最高裁判例に従って検挙逮捕しているということだ。
そして警察は希有な道徳家仙波敏郎氏の証言によれば日本国内最大最悪の凶悪犯罪組織である。
その警察が「我々は最高裁が犯罪者だと認めた者を法に従って検挙逮捕している」とうそぶくのであれば、この10年間に警察に取り調べられ逮捕された日本国民はすべて最高裁の反道徳奇形司法東大話法憲法違反法匪判決の被害者である。
この国内最悪の悪党法匪最高裁を日本国主権者国民が法に基づいてきちんと懲らしめるには、日本国憲法に定められた10年に一度の国民審査で最高裁判事全員へオール×印全員不信任懲戒審査投票するしかないのである。
この10年間にただの一度でも警察官にあらぬ嫌疑をかけられた被害体験がある国民は全員、全国でいっせいにうちそろって10年に1度の今度の平成天皇24年12月16日最高裁裁判官国民審査へ投票に行こう。
そして持参の黒ボールペンで最高裁判事国民審査投票用紙のすべての記入欄へちからいっぱい黒々と×印を刻みつけてオール×全判事不信任懲戒審査してやろう。
警察の憲法違反犯罪による被害だけでなく税務署にあらぬ脱税嫌疑をかけられたとか、NHKにいわれなく受信料の支払いを不正請求されたとか官公庁の役人の不当な行政執行憲法違反犯罪で民事の被害を受けた人もこれまた同様である。
とにかく日本では郵便ポストが赤いのも、消防自動車が赤いのも、【みんな最高裁が悪い】のである。
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