【情報戦】8金貸しの隠れ蓑となっていたカソリック教会
前々回、前回の記事では、西洋と東洋それぞれにおいて、古代の社会がどのように統合されてきたのかを追及してきた。
東洋(中国)においては、もともと強い血族関係が存在していたため、その集団の「本源的な価値」を守るための規則を理論化した「論語」が拡がり、一方で、北方から攻めてくる北方の遊牧民からの「取引圧力」や「詐欺的圧力」に晒されていた自集団内の規範」を維持する一方で「自集団以外の集団との関係規範」を別個に確立する必要があったため、孫子が「兵法」を著し、他集団との関係を規範化することで上記のような他集団との関係性を保った。
東洋とは対照的に、裏切りが横行する古代ヨーロッパでは良心の呵責から「懺悔(告解)」制度が登場し、それを「教会の司教」が管理するようになり、それによって国家としての秩序保った。 (リンク)
しかし「十字軍遠征に行けば罪が許される」といった大義名分の下、イスラム圏からの収奪が正当化されると、金儲けを戒めていたカソリック教もお金に無縁ではいられなくなり、免罪符を発行するなど、次第に金儲けに手を染め、ついには金貸し(当時はユダヤ人に限られていた)がカソリック教会にも進出する様になった。そして15世紀になると、ついにメディチ家出身のローマ教皇が登場する。彼らは懺悔によって王侯たちの弱みを握り、それを脅しの材料に使い、ますます金儲けに奔走するようになった。
金銭で聖職を買えるようになったカトリックの教皇庁に、やがてある人々が入り込んだ。異端審問所によって、この町に住むユダヤ人への暴行が許可された。ただし暴行が行われる前には「憐れみの時」が与えられ、町の人口の2割近くに当たる3000人のユダヤ人やユダヤ人を自称していた人々がキリスト教に改宗したようにみせかけた。その時、「フラムの子ら」と呼ばれる人々も名目だけカトリックに改宗し、カトリックに入り込んだ。彼らはこの時、自分の名前をヨーロッパ風に変えたので、カトリックでは誰が 「フラムの子ら」で、誰がそうでないかが判らなくなってしまった。
当時、クリスチャンは金銭にどんな関心も持ってはならないとされていたため、母国を失ってヨーロッパに移り住んでいたディアスポラのユダヤ人(実は偽ユダヤ人)だけが金貸しとなっていた。金貸しの中に「フラムの子ら」もいた。王や諸侯が戦争や浪費のために金が必要となった時、彼らは金貸しのところに行った。こうして、ヨーロッバ諸国の王や貴族は「フラムの子ら」に支配されるようになり、ヨーロッパは富の力によって管理されていった。カトリックも、「フラムの子ら」を恐れながら、内部に彼らを多数抱えることになっていったのである
1513年にローマ教皇となったレオ10世(フィレンツェの名家メディチ家のジョバンニ。メディチ家は他にもレオ2世、クレメント7世らの教皇を輩出した)は、ユダヤ教の秘儀カバラに興味を持ち、カバラの秘儀を教わるため「フラムの子ら」に引き込まれた。
同時に(免罪符を批判する)プロテスタントの台頭によってヨーロッパにおける教徒を失ったカソリック教会は、金貸しと手を結び、アメリカ大陸・アジア大陸へと進出する。この時、大きな力を振るったのがイエズス会である。イエズス会を中心としたキリスト教勢力はアメリカ大陸・アジア大陸に大学を設置し、排他的一神教の教理のもと、土着の宗教を排除するとともに、現地の王族・武将たちに接近し、金貸しと共に武器を売りつけた。そして戦争によって作り出された貧困をテコに、教徒の拡大を図っていった。
こうして近現代史を裏で操る宗教=諜報=教洗機関・イエズス会が世界中に広がり、そのネットワークは今もいきているといわれる。しかし、彼らイエズス会が宗教集団だというのは表の顔であって、イエズス会の本質は金貸しがつくったor金貸しに乗っ取られた諜報=教洗機関であると理解すべきである。そして1534年、ローマ教会内に、神秘主義者の聖イグナティウス・デ・ロヨラらによって男子修道会「イエズス会」が創設された。彼らは、ヨーロッパで失ったカトリックの権勢を、ヨーロッパ以外の地で回復しようとして海外伝道に力を入れ、新大陸の植民地化に活躍した(日本にキリスト教を伝えたとされるフランシスコ・ザビエルもイエズス会士である)。これがいわゆる「大航海時代」である。
イエズス会士で偽ユダヤ人のアダム・ヴァイスハウプトは、ドイツのババリア地方インゴルシュタットにイエズス会が作った大学の中で「ババリア・イルミナティ」を作った。イエズス会は、「フラムの子ら」がカトリック教会の乗っ取りと世界支配のために作った集団であった。もちろん、一般のイエズス会士や信徒は何も知らずまじめに神を礼拝し、生涯を神に捧げていた。
アダム・ヴァイスハウプト
「フラムの子ら」は、ルネッサンス(ヘレニズム文芸の復興。ヘレニズムとは女神崇拝のことで人間の快楽を開放する文化)と宗教改革を背後から応援してカトリック教会の弱体化を図った。カトリックから異端として弾圧された者たちの中には、「シオン修道会」などのように表向きは修道会を装った秘密結社となって、聖書の世界観を偶像で飾ろうとする権力者たちの配下に仕えて教会に侵入し、秘密結社の思想を巧妙に教会の建物の中に描き入れていった。(リンク)
イエズス会はカソリック教会に潜伏した金貸し一派であったが、次第に、その資力によってカソリック教会内での影響力を強めていった。そこでの手法は「敵対する両勢力の情報をつかみつつ双方に武器を売りつけ、金を儲ける」というものだ。日本の明治維新がその典型だが、その手法はローマカソリック教会のお膝元、イタリアでも実行された。そしてついに「バチカン銀行」をつくりだし、ローマカソリック教会の実質支配を完成させたのであった。
イルミナティが実行したフランス革命から数年の内に、ナポレオンがフランスにおけるローマ教皇の支配を破壊した。ナポレオンは『自由・平等・博愛』というフリーメーンのスローガンに従ってフランス革命を進め、教皇の力を完全に打ち破ってしまった。
イタリアはフランスやオーストリア、スペインなどの王国によって分断されていたが、フランスで「フラムの子ら」のフランス銀行が札束を独占した1848年、ミラノで民族主義によるイタリア統一を果たそうと民衆が決起した。中心的役割を果たしたのが、メーソンのガリパルディとその仲間たちである。このイタリア統一に反対したのが、ローマ法王とナポリ王であった。
ガリバルディ
当時のナポリ王室の財政を支えていたのは、ロスチャイルド商会であった。イタリア革命の波は全土に広がり、1866年までにバチカンを除く全土が統一され、フリーメーソンの政府が就任した。そして、イタリアのグランドマスターであるヴィクター・エマニュエル(ヴィットリオ・エマヌエレ2世)がイタリア国王の座に就いた。教皇ピオ9世は「バチカンは牢獄である」と定義して引きこもり、これが現在のバチカン市国の原型となった。このとき、広大な領地を失って収入を失い、窮地に立った教皇に融資を申し出た者の記録がバチカンに残されている。その者の名は「ロスチャイルド」。一方、イタリアの権力の座に着いたヴィクター・エマニュエルにぴったりと寄り添っていたのが、パリ・ロスチャイルド家であった。ロスチャイルド家は表の世界に顔を出す「フラムの子ら」のうちの1つである。
教皇ピオ9世の後継者レオ13世は、バチカン内部に「宗教活動協会」という事務所を設立した。これが一般に「バチカン銀行」と呼ばれるものである。今日、「バチカン銀行」の投資顧問として、ロンドン・ロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行とクレディ・スイスがヨーロッパと世界戦略を担当している。この金庫の鍵を握っている者が、バチカンを動かし、枢機卿を支配し、教皇を動かしているのである。
「バチカン株式会社」
1903年にピオ10世が即位すると、ついにカトリックの頂点にサタンの座が据えられることになる。1902年の聖職者会議で、メーソンのラクロクス神父が法王ピオ11世として選ばれたのである。ラクロクス神父をローマに召喚したのはピオ10世であった。こうしてメーソンは、ついに教皇の座を奪ったのである。
その後のカトリックの枢機卿らが「黒いパラシュート」と呼ばれ、国連の裏を暗躍し、外交の裏世界で何をしてきたかはよく知られている。中でも、バチカン銀行の草創期からロスチャイルド家から依頼を受けて教皇庁を動かしてきた最大の実力者ラファエル・メリーテリヴァル枢機卿は1929年、ラテラノ条約を結んでムッソリーニにヴァチカン市国の独立を認めさせた。これによりメーソンが支配するバチカンとバチカン銀行は合法的に保護されることになった。