2011年07月20日
民主主義は自我の暴走装置である(1)~民主主義の全否定は、私たち自身の生き方を根底から問い直す
2009年10月22日の記事「民主党の政権交代も、時事系・社会系サイトも偽ニッチである」で、ネット界の社会系サイトは反動分子であることが提起されました。
変革を期待させ大衆の勝利を思わせる政権交代という出来事も、ネット界などの時事問題派・社会派の登場も、実は偽ニッチの構造(旧世界の圧力衰弱下で、解かれた圧力から旧世界を引きずったまま暴走する少数派の構造)の中にあるのではないか。だとすると、彼らは根本的には私権反動派ということになるが、本当にそう言い切れるのか?
最も良心的で真面目に追求している時事問題系・社会系サイトでも発信の中身は、(新理論を渇望する人々の目からは)旧理論の枠内に留まっている。つまり、良心的な社会系サイトは、肉体的には共認収束しているが、頭は旧観念に支配されたままであり、旧観念に囚われたままでは反動分子にしかなり得ないと言うことだろう。
つまり、彼らは来るべき社会とは不連続であり、認識収束の潮流は、政権交代や裏情報サイトとは無関係に、もっと深い次元で進んでいくということになる。
そして、7/3なんでや劇場「『民主主義』『市民運動』という騙しとその犯罪性」で「民主主義は、自我の暴走装置である」という新たな提起がなされました。
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