解散総選挙報道に要注意!⇒マスコミの露出度に騙されるな!
解散総選挙の投票日12/16に向けての注意です。
マスコミの露出度に騙されてはならないということです。
政治家であれ、芸能人であれ、マスコミの露出度によって人気が左右されてきました。
『るいネット』「マスコミのからくり:::露出≒人気」から転載します。
’05年小泉自民党政権下の郵政選挙の時の記事です。
いつも応援ありがとうございます。
9.11総選挙。公示前の前哨戦ではどうやら小泉優勢だったようだ。マスコミ報道の過熱に歩を合わせるように支持率も上がっている。小泉人気はマスコミが作っている、と言うと、彼らは「小泉を支持している訳ではない。中立である」と反論するかも知れない。確かに、新聞やテレビの論調は、全部が全部、小泉肯定ではない。「やり過ぎ」との周囲の声を拾っているものもある。
しかし、そこに実は、マスコミのカラクリがあるのではないかと思う。
報道の中身はどうあれ、中立であろうが多少なり批判的であろうが、今回の選挙が『小泉劇場』として派手に報じられれば報じられるほど、小泉有利になっていくのではないかと思う。
マスコミは、’70年以降、既に共認原理に移行した社会において人々の共認形成を牛耳る位置にいる、評価共認の形成機関である。
そして、共認社会において評価共認の強さを最もよく表すものが「注目度」なのだと思う。取るに足りないものは注目されない。
注目されているものには(よほどの否定的内容でなければ)何がしか見るべきものがあるのではないかと、無垢な共認回路は働いてしまう。
現代、注目度とは即ちマスコミでの「露出度」となる。
芸能人の売出しにも、ヘビーローテーションという類似の手法が使われるし、大衆の冷笑ネタにされているかのように見える最近の若貴問題や杉田かおるにしてもそれは同様だと思う(多分、同情票も含めて個人への信奉者が登場している)。
だから、マスコミが小泉個人の一挙手一投足に焦点を当て、派手な露出を演出すればするほど、政策の是非や本当の政治的力量、成果といった本質からどんどん離れて、捏造された個人の評価収束構造に知らずに嵌まっていく人が増えていく。
この辺りがまさに、マスコミによる共認支配の恐ろしさだと思う。どうするか。
誰を選んでも大した成果が期待できないまやかしの社会参加である選挙も、大衆の洗脳媒体であるマスコミも一切無視して、粛々と草の根共認運動を進めていくか。
これ以上注目を受けないよう、首相というポジションから小泉をとにかく引きずり降ろすべく、投票も含めて可能な限りの方法論を駆使するか。
今回ばかりは後者なのかも知れない。
このように、マスコミの露出度が候補者の人気を左右してきました。
’11年11月の大阪府知事・大阪市長選で橋下派が勝ったのも、マスコミの強力な支援=露出があったからです。
では何故、マスコミの露出度によって人気が左右されるようになったのでしょうか?
『るいネット』「何故注目度が決定的に重要になったのか?」から転載します。
現代は「注目されれば勝ち」という時代である。そして注目度はメディアへの露出度によってほぼ決定される。
実際ライブドアの堀江氏は世間の耳目を集める行動を意識的に演出し(プロ野球・テレビ局の買収、そして今回の選挙出馬)、それによってライブドアの知名度を上げ、株価を上昇させている。
また芸能人は例えば離婚や愛人騒動等一般的にはマイナス評価に繋がりかねないような事でもテレビに取り上げられることで注目度が上がり、出演料が吊り上って行く。
更に今回の選挙における自民の勝利もその背景にマスコミへの露出度=小泉の注目度の高さがあったことも明らかである。
それらの事例に留まらず、現在は評価以前の「注目」が決定的に成ってしまった時代と言える。
共認動物であるサル・人類は仲間の共認を羅針盤にし行動を決定しているが、その中でもとりわけ評価共認が羅針盤となっている。つまりどう行動するかの探索は評価共認によって方向付けられる。
ところが現在はそれが注目共認に支配されている。これは、どういうことであろうか?
現在は収束不全の結果答えの見えない時代である。皆が無意識の内に次の方向性を探索しているとも言える。しかし現在は「答えが見えない」と言うことは、評価共認の前提となる評価基準即ち旧観念・価値観念そのものが相当にぐらついている時代でもある。
おそらくその中で現在人々は、同じく収束不全(本能不全)に陥った原猿時代の回路を使っているのではないかと思う。事実、原猿時代の共認機能形成の過程を辿れば先ず「相手注視(注目)」があった。
「不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、どうする?⇒どうにかならないか?と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。」
『実現論』「前史二.サル時代の同類闘争と共認機能」
現在人々は答え探索の中で無意識に、この評価共認以前の注目共認に後退収束しているのではないだろうか。
答えが見えない中で取りあえず人々が注目していることを行動や判断の羅針盤にしていると言うことではないだろうか。
これは目先収束とはいえ、答え探索の半顕在化現象とも言える。
しかし収束不全は最終的には答え=観念によってしか突破できない。目先に振り回される現在の状態から正しく評価共認を機能させる上で必要とされるのは、本来の評価基準=事実→「構造認識」なのである。
つまり、注目度⇒露出度が第一になったのは、庶民が潜在意識で答え探索しているからなのです。
ところが、マスコミの洗脳力は急速に低下しています。
「私たちは騙され続けてきた。しかし今や、洗脳からの脱却が始まっている」で述べられたように、大衆の間で脱洗脳の意識潮流が広がっているからです。
もはや’01年小泉フィーバーや’05年郵政選挙のようなフィーバーを作り出す力はマスコミにはありません。
では、マスコミの洗脳力はどこまで落ちているのか?
今回の解散総選挙はその意味で重要です。
マスコミは小沢の「国民の生活第一」を取り上げていません。『ひょう吉の疑問新聞・テレビ報道は何かおかしい』「『国民の生活が第一』の48人の代議士を全く無視する日本のマスコミ」
にもかかわらず、「国民の生活第一」が何%を票を獲得するか?
それが、大衆の脱洗脳潮流がどこまで進んでいるかを示す指標となります。
いずれにしても、今回は、マスコミの露出度に惑わされないようにしましょう。
誰が国民・国益のことを考えている人か? 社会をよくするために答を出そうとしている人は誰なのか?
自分の頭で考えて投票するようお願いします。
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