2018年08月10日

「自分達の生きる場を自分たちの手で」が実践されていた江戸時代

私権獲得が人々の活力源や生きる目標ではなくなった現在、多くの企業が今までの私権統合に代わる統合様式、企業のあり方そのものの転換を模索しています。
明治以降の近代思想と市場経済の流入、戦後の自由経済と大量消費の礼賛。そしてその背後にある資本家や金貸し、官僚による支配構造の中で、気がつけばこれまで私達は、特権階級が作った枠組みの中でしか生きられない、物を考えられないと思い込まされてきました。

しかし物的欠乏と私権獲得がその輝きを失った今、人々の意識は,
株主や一部の役員だけが握っていた職場の経営権、運営権を自分たちの手に取り戻し、「自分達の生きる場を自分達の手で構築する」方向へ転換しつつあります。そしてそれが社員にとっても企業にとって最も活力の出る活動である事を、皆潜在的に感じています。

そしてこの動きは企業に留まらず、学校や衣・食・住の分野など今や多岐に亘っています。

「自分達の生きる場を自分達の手で」という発想は実は新しいものでは無く、日本人が古くから持っていた精神性です。
江戸時代にはそれが社会制度として確立され、長期にわたる平和と大衆活力のある社会を実現していました。

以下、「るいネット」さんの記事を抜粋引用します。リンク

にほんブログ村 政治ブログへ

 【江戸時代は分権社会】
江戸時代に関する見直しが進んでいる。その結果教科書が描いてきた江戸時代像にはかなりの誤りがある事がわかってきた。

 ○江戸時代は分権社会
江戸時代を見るときに重要な視点は、分権社会であったという点であろう。江戸時代はいかにも武士だけが統治者であったかのような見方がされているが、それは誤りである。村の統治は村共同体が行い、町の統治は町共同体が行い、職人や芸能者などの仲間・座の統治は座共同体が行い、武士が行う統治行為は、このような社会的諸集団の範囲外にわたる問題だけであった。それは広域行政であり軍事であり、外交であったのだ。

例えば、近世の町も町を塀や堀で囲い、町の入り口には木戸を設けて、木戸番という武装した町人で守られていた。そして町内には自身番が設けられ、町名主(年寄)の指揮下で、武器を持った町人自身によって町の治安は守られていた。

町が行う行政は、奉行などからの触書の伝達や人別改め、防火と消火の取り締まりと手配、訴訟事件の和解工作、家屋敷の売買や譲渡などの証文案件の検閲、博打や勝負事の禁止など、町民の生活全般に渡っていた。

さらに近世において周辺農村からの大規模な人口流入に伴って生じた、し尿やゴミの処理問題や住宅問題、さらには飢饉に際しての救民事業なども、町の仕事であった。

つまり、江戸時代は縦のヒエラルキーに基づく身分社会ではなく、身分とは社会的分業に近いものだったとみた方が実情にあっている。
また身分も流動的である。各層の統治行為に携わる上層の人々は、武士と同様に名字・帯刀の権限を許され、それぞれの家職を遂行していた。そして婚姻や養子縁組という形をとって武士に「取りたて」られた例も数多い。

江戸時代中期くらいからは 百姓・町人や芸人が武士身分を購入して、武士になる事態も出現する(勝海舟や、新撰組等は典型事例)。或いは逆に 武士身分の者の中から商才に恵まれた者が商人になったり、分業が拡大していくにつれて生み出された新しい身分、つまり学者や医者、そして絵師や戯作者などに転身していく例も数多く見られる。若いときは武士=役人として務め、老年になってから医者や絵師等に転身する例も多く、これらは武士等の身分が階級制よりも社会的役割として認識されていたことの証左である。

以上、引用終わり。

江戸時代の身分制度は決して抑圧と搾取を制度化・正当化するものでは無く、むしろ人々が共同体の中で自らの期待と役割を明確に認識し、まさに自分達の生きる場を自分達で創ることを実践、継続していた社会でした。

共同体が解体された現代社会において、この社会制度をいきなり導入するにはいささか無理があります。しかし、私達が1日の多くの時間を過ごす「企業=生きる場」を変えてゆく、社員自らがその経営の主体となる共同体企業へと変革して行く事は決して不可能ではなく、社会的にもその萌芽が見て取れます。

歴史を紐解いてみても、江戸時代の統合様式とそこに宿る日本人の精神性に、その可能性を感じることが出来ます。

List    投稿者 nihon | 2018-08-10 | Posted in 01.どうする?マスコミ支配No Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2018/08/7931.html/trackback


Comment



Comment