すでに制覇力は、共認形成力(認識力)に移行した~お上の暴走から、認識収束の潮流へ~
以前の記事で扱った、お上の暴走について、さらに考えてみたいと思います。リンク
1970年以降の「お上の暴走」を大きく3期に分けて整理しました。
第1期(1970年~2000年ごろ)は、今見るとばらまき経済とバブル爛熟といった「大暴走」に違いないのですが、その当時の日本人は「暴走」という認識は全くなかったでしょう。自らもお上と一緒になって暴走を謳歌していたわけですから。。。
第2期(2000年~2010年ごろ)の暴走もまた、統合階級によるアメリカ追従と権力闘争がその背景にありますが、第1期の暴走が「資力」を背景にしていたのに対し、第2期はマスコミや御用学者を動員して「共認形成力」をつかった暴走といえます。
ここでも最初の頃は「暴走」と認識していた国民は少なく、むしろ痛快でセンセーショナルな言葉に「フィーバー」していました。
しかし、バブル崩壊を経てこれまでの経済最優先という価値観から人々の意識が転換し、そして震災・原発事故、その後の統合階級の対応を目の当たりにしたあたりから、人々は今進行している事象は事実や未来に結びつかない、統合階級の「暴走」である事に気付き始めます。
そして迎えた現在の“第3期(2010以降)”では、人々は明確にこの違和感、不整合が「お上の暴走」であると確信し、豊かさやマスコミ支配にかわる新たな社会統合軸を主体的に模索し始めています。
以下、「るいネット」の記事を紹介します。リンク
豊かさ実現から共認支配、そして本源収束への大潮流の流れを、その背後にある社会潮流と人々の意識と照らし合わせながら紐解いています。
同時にこの流れは時代の必然であり、「お上の暴走」の先にある、新たな社会統合軸の追求と可能性について示しています。
以下、引用です。
【すでに制覇力は、共認形成力(認識力)に移行した】
集団や社会は、人々がその時々の課題や役割や規範に収束することによって統合されている。その統合力を織り成すのが共認形成力であり、それこそが人類の集団や社会の本来の統合力である。
ところが、略奪闘争の連鎖によって形成された私権社会では、敵を倒し屈服させる制覇力が、そのまま社会の統合力となってきた。武力社会では武力こそが社会(国家)の制覇力=統合力であり、市場社会では資力こそが社会(市場)の制覇力=統合力であった。そして、市場社会では「お金第一」の共認力が「武力第一」を上回ったことによって、資力>武力の力関係が続いてきた。
しかし、人々が飢餓の圧力から解放され私権圧力が衰弱すると、本来の統合力である共認形成力が前面に出てくる。その結果、マスコミが絶大な力を獲得し、’70年以降はマスコミ支配とも言える社会に移行した。その間も私権欠乏は衰弱し続けていたが、’02年頃、とうとうお金は第一ではなくなり、資力は社会の制覇力=統合力たる地位を失ってしまった。そして遂に、人類本来の統合力である共認形成力が社会の制覇力=統合力と成って復活した。それは、人類進化の実現基盤の再生である。
なお、現在は、過渡的に共認形成力>武力>資力となっている。(注:覇権交代期では、力を失った資力よりも、最強の制覇力である武力の方が上になる。ロシアの軍事力の前に金貸したちが為す術もなく駆逐されてゆくのは、そのためである。)
改めて社会の制覇力=統合力となった共認形成力のその力は、認識力に規定されている。従って、今後、数年の間に人々の認識(力)欠乏が急上昇して、認識収束の潮流が形成されてゆくだろう。お上が暴走すればするほど、人々の危機感と不整合感が上昇してゆくことは先に見た通りだが、そこから生じる社会統合期待や(自らの意識の)統合欠乏も、この認識収束の潮流に合流してゆく。また、市場の縮小→生き残り競争の渦中にある企業(社員)が孕む能力欠乏も、この認識収束の潮流に合流してゆくことになる。
これらの認識収束の潮流は、全て本源収束の大潮流に根ざしている。そこでは、何よりもまず相手の期待に応えようとする相手発の姿勢が求められる。従って、自分の利害発でしか物を考えない「自分脳」は淘汰されてゆく。また、人々は実現=可能性に向かっているので、何事も否定することしかできない「否定脳」も淘汰されてゆく。もちろん、自分の頭で物を考えることのできない「暗記脳」が淘汰されて終うのは、言うまでもない。
従って、これから始まる認識収束の過程で「自分脳」と「否定脳」と「暗記脳」によって生き永らえてきた近代観念は全ての存在基盤を失い、近代観念からの脱却と新理論への収束が一気に進行する。
以上
(by:yamakow)
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